差別せずには生きていけないという無様。


 いままでLDさん及びsajikiさんと例の「ノーボーダー」の話をしていたんですけれど、これがおもしろかった。

 過去記事を読んでいないひとのために説明すると、「ノーボーダー」とは、「趣味に特別の境界をもうけないひと」程度の意味です。

 しかし、まあ、いくらノーボーダーとかいっても、そこには自ずから限界があるわけですよね。たとえばいくらおもしろくても、エベレストに登るとか、タンザニアに旅行するとか、そういうことはできない。

 できないといってしまうと語弊があるけれど、まあ、まず確実に生涯やることはないでしょう。それを指して、そこにボーダーがあるじゃないか、といったら、それはその通りなんだよね。

 でも、現実問題、人間には金銭的/肉体的/能力的/意欲的限界があるわけで、どうしてもどこかでボーダーを引かざるをえない。本当の意味でのノーボーダー、絶対的ノーボーダーは神の領域で、人間には到達不可能なのです。

 そういう意味では、ノーボーダーとはあくまで程度の問題で、ひとはだれもがボーダーを引きながら生きている、といえるかもしれない。このボーダーを引くことをぼくは「差別」と呼ぶわけだけれども、ひとは差別せずに生きていくことはできないということ。

 ただ、ここで問題が出てくるわけで、それなら、そういう限界があるんだから、やっぱりボーダーのなかで生きていくことは仕方ないことなのか、ということですね。そうじゃないと思うんですよ。

 LDさんはこの「人間の限界」に膝を屈することを「無様」と呼ぶんだけれど、ひとがひととして差別しながら生きていくということは無様なことなのだと。本当は一切差別せずにノーボーダーで生きていくことができれば最善なのに、そうはできない、そのことに対して「仕方ないんだ」なんて考えてはいけないんだと。

 だから、ノーボーダーとは、絶対的ノーボーダーであることが不可能であるにもかかわらず、そうであろうと努める意志である、といえるかもしれない。

 ぼくはエベレスト登山なんてしないだろうけれど、エベレスト登山なんて問題外、と考えない程度には頭の柔らかさを維持していたいと思う。もし、何か状況が変われば、エベレストに登ろうと思うかもしれない、その可能性はゼロではない、と思っていたい。それがたぶん人間に可能な範囲の精神の自由というものでしょう。

 で、そういうわけでノーボーダーとはいっても程度問題ということになるんだけれど、従来の「オタク」と比べて、その程度がちょっと違う人種は増えてきている、あるいは顕在化してきている、ということはいえるのではないかと思うのですね。

 じっさいのところ、そういうひとたちを「ノーボーダー」と呼ぶことにしていいと思う。先述したように、それはじっさいには絶対的ノーボーダーではありえないのだけれど、相対的にはいままでの「オタク」に比べてボーダーを乗り越えて思考し、行動しているといえるでしょう。

 それが新人種なのか、それともニコニコ動画などの隆盛により顕在化したに過ぎないのか、それを検証する方法はないけれど、さしあたりそのことは問題ではない。今後、ぼくは「ノーボーダー」という言葉をだいたいそのあたりのひとを指して使用するつもりです。