ラベルより中身を大切にしよう。


 ニコ生でも話したことだけれど、記事にしておこう。

 古今のSF(ジュール・ヴェルヌから谷川流まで)を語った山本弘の著書『トンデモ本? 違う、SFだ!』にこんな文章がある。

 ぼくが好きなマンガ、徳光康之『濃爆おたく先生』(講談社)に、こんなシーンがある。主人公のオタク先生・暴尾亜空が、高校のアニメ研究会を覗くと、みんな平凡な日常アニメを作っている。それを「悪魔の思想に毒されている!」と憤慨するオタク先生。「バズーカをかまえた美少女のパンチラ」「ミサイル百万発」「変形する校舎」の〝自主アニメ必須三大シーン〟が欠けているというのだ(どうでもいいけど、それって八〇年代前半の自主アニメ……)。
「低俗だよそんなの」とあざ笑う生徒たちに、オタク先生は怒りをぶつける。

「ほう……低俗なのは嫌か。高尚なのがいいのか。
 日常アニメ作って、高尚ですね感性が美しいですね芸術ですねと言われたいのか。頭がいいだけの人に上品なだけの人々にホメられたいのか。
 愚か者、ホメられるために作品を作るな! 動機不純!
 自分の心の底から突き上がってくる本当に描きたい作品を描けよ作れよ! それが自主アニメだろうが!」

 この「動機不純」という指摘がかっこいいではないか。そう、自分の心を偽って、えらい人にほめられるような作品を書くなんて間違っている!

トンデモ本?違う、SFだ!

トンデモ本?違う、SFだ!

 じっさいにこの作品を読んだわけではないので、そうしたら印象が変わるかもしれないのだが、ぼくにいわせれば「悪魔の思想」に毒されているのはオタク先生のほうだ。というか、「低俗だよそんなの」とあざ笑う生徒たちとオタク先生は鏡のうらおもてに過ぎない。

 たしかに「ホメられたいために作品を作る」ことはくだらないだろう。「高尚」とされるものだけにこだわることも無意味だろう。しかし、そもそも、オタク先生はいったい何の根拠があって生徒たちが「ホメられるために作品を作」っていると決めつけているのだろう? 心から日常アニメを作りたくて作っているひとだっているかもしれないじゃん!

 「低俗」とされているものが本当にくだらないものばかりではないように、「高尚」とされているものがお高くとまっているとは限らない。「低俗」も「高尚」も、しょせんは作品に貼られたラベルに他ならないのだ。そんなものより、作品そのもののほうが大切ではないだろうか?

 権威に阿ることはくだらない。しかし、同時に、権威だからダメなのだと見なすことも権威を過剰に意識していることに変わりはない。権威が認めようが認めまいが、高尚だろうが低俗だろうが、いいものはいいし、おもしろいものはおもしろい、それでいいではないか。

 山本さんの世代にとってSFやミステリやアニメやゲームはある意味、権威に対抗するカウンターカルチャー的な側面をもっていたのだろう。それは理解できるけれど、もう既に時代は変わってしまった。もう仮想敵を作ってたたかう必要はないのだ。

 ぼくたちは自由なのである。