「じぶんはオタクではない」と思うのがオタク、という問題。


 先日の記事にjgpmさんという方からこのようなコメントをいただいた。

まず誤解なさらないでもらいたいのは私にとってオタクという言葉は「同士」「仲間」を表す言葉で蔑称ではないという事です。

その意味で使わせて頂くと海燕さんはオタクに見えたのです。その理由は「私と全く同じ」だからですね。

この記事の様にオタク、あるいは一般人という言葉を持ち出してオタクと「それ以外」あるいは「オタクではない何か」を区別しようとしている時点で海燕さんはどこかでオタクに未練(うまい言葉が見つかりませんが現状は仮に未練とさせて頂きます)を感じている様に「見えてしまっている」からこそ、私は海燕さんが殊更私と同じ、つまり同士であり「オタク」に見えるわけです。

ノーボーダーなる言葉に寄るならば、彼らは自身がどこに属されるかという事、自身の趣味に対しても趣味と意識してないほどに考えていないし、それを「考える事、ましてやそれを公言する事は無い」と思うからですね。皮肉な事に(と言ってもいいものか)それをあえてしてしまうのが既にオタク的と考えます。私がそうですので。

それをしてしまう人物はどこかでオタクに根があると思います。ですから同士としてオタクと認識しております。

 なかなかおもしろい意見だ。一理あると思う。かれの語っている内容をぼくの言葉に直すと「じぶんの所属するカテゴリに自己言及する知性というものは既に「オタク的」である」ということになる。

 本当に「オタク」でないひとは、じぶんが「オタク」かどうか考えることすらない、ということ。いい方を変えるなら、「オタク」という言葉から自由になりたい、と思った時点でそのひとは「オタク」でしかありえないということになるかもしれない。本当に自由なら、「オタク」という概念など一顧だにしないに違いないからだ。

 この理論にはちょっと反論できそうにない。だから、ぼくはいうだろう。「それをオタクと呼ぶならば、オタクでかまいません」と。ぼくの考えうる解答のなかで、これが最も自由に近い。もちろん、完全な自由ではないが。

 ある意味では、「オタク」という言葉を意識してしまった時点で、ひとは自由ではなくなるのだ。じぶんはオタクでありセンスエリートだと誇ることも、じぶんはオタクなどではない、そんなものといっしょにするな、と憤ることも、同じくらい不自由である。言語による自己規定というものそのものが不自由なのだ。

 だから、ぼくが作った「ノーボーダー」という言葉は、本当はそれそのものが「ボーダー」であるといえる。仮にこの言葉が普及したとしたら(しないだろうけれど)、「ボーダーを飛び越えることができるノーボーダーはそうでないひとより偉大だ」と考えるひとが必ず出てくるだろう。

 この言葉ひとつが問題なのではなく、自他を分かつ言葉はすべてそのような性質をもつのである。その意味で、命名とは差別である。なぜなら、ある存在に名前を付け、ほかの存在と切り離すという行為そのものが差別に他ならないからだ。

 自然界は渾然一体であり、境界は存在しない。人間が意識し命名することによって初めて境界は生まれる。ひとは言語を知ることによって自他の境界を見出し、差別することを覚え、そして自由を失うのである。自由とは、言語に先立つ概念だ。

 その意味で、やはりぼくは「「オタク」という概念から自由であろうともがくオタク」でしかありえないのかもしれない。くり返すが、それならばそれで良い、とぼくはいうだろう。ぼくにのこされた解答はそれくらいしかない。

 jgpmさんはぼくを「仲間」だというが、「仲間」をつくるということは「仲間はずれ」を作ることであり、つまり差別することである。先述したように、これは言語を使って命名することの必然的帰結である。言語を使う限り、知的であるかぎり、ぼくたちは差別から自由ではあれない。

 それなら、どうすればいいか? 言語に、「名前」に先んじて行動するしかない。まあ、ぼくはもう手遅れかもしれないけれど、ぼくよりあとの世代はそのように行動することだろう。

 ぼくはその意味でオタク最後の世代――ザ・ラスト・オブ・オタクなのかもしれないな、と思った。