「オタク」、この大きすぎる主語。


 この記事、書こうかどうか迷ったんだけれど、Twitterで文句つけるだけで終わらせるのもどうかと思うので、結局、書くことにした。

 日々拝読させていただいている「唐沢俊一検証blog」におけるこの記事のコメント欄で以下のようなやり取りがあった。

Sawahara

ひょっとしたらこちらをご覧の「えの」さん。
自分も山本会長の人物を知る身でありつつ敢えて申し上げますけど、木だけを見ず森を見て頂かないと、そういう意見は一笑に付されて終了です。

Sawahara様へ

その旨は、トラックバックされているhttp://d.hatena.ne.jp/kensyouhan/20100111/1263158103のコメント欄に書いた方が判りやすかったかもしれません。

また、えの氏の言わんとすること自体はもっともなことと受け取れましたので、「一笑に付されて終了」という、まるで、一部をもって相手の全てを(人格すらも)否定し、異論は一切聞く耳を持たずただ相手を嘲笑うと学会を思い起こさせるような物言いはいかがなものかと感じられました。

Sawahara

>「Sawahara様へ」様

確かにと学会的な言動でした。深く肝に銘じたく存じます。申し訳ありませんでした。

 こういう書き方をしてある文章を読むと、では、その「ひょっとしたらこちらをご覧の「えの」さん」はどんなことを書いているのだろう、と気になってくる。

 幸い、過去記事にトラックバックを飛ばした人物だということはわかっているので、そこから記事を読みに行った。読んだ。結論からいうと、ぼくには「えの氏の言わんとすること自体はもっともなことと受け取れ」はしなかった。そこで、この記事を書いている。

 まず、えの氏は岡田斗司夫氏を批判してこのように書いている。

 岡田斗司夫氏はアニメや特撮すべてのジャンルについて詳しいわけではない。(当たり前だ。そんなことは不可能だ。)しかし「オタキング」(オタクの王)などと名乗って活動を続けていく以上、すべてに詳しいフリをしなければならない。その結果、知りもしないことについて原稿を依頼され、適当なことを書きなぐることになる。岡田氏の知識がいかに出鱈目なものかについて検証してあるサイトはいくらでもあるので、ここではやらない。やるのは、なんでこんなのがオタクの代表者などとして、一時期とはいえ通用することが可能になっていたかである。
 それはオタクのコンプレックスを見事についたからだ。
 実際、大人になってマンガやアニメや特撮のファンというだけで、犯罪者予備軍の扱いを受けた時代があった。好きなものを好きだというだけで世間からの白眼視に耐えねばならなかった。そこに、オタクというのは知的に進化した新しい人類であるとか、世界中で日本製のアニメが大ヒットしているとか、江戸時代から続く日本文化の正当な後継者であるとか唱える人物が現れれば、あっとういまに救世主扱いをされたのも無理もないところだ。

 オタクは差別されていた。そしてこれ以上差別されたくないと思った。だが、彼らは差別そのものを問題にしようとはしなかった。自分たちが差別する側に回りたいと願ったのだ。そしてそのようなオタクどもによって、岡田氏はオタキングとして崇められた。

 いったい、いつ、だれが岡田さんを「救世主扱い」したり、「オタキングとして崇め」たりしたというのだろう。かれが「オタキング」を自称していたことは事実だが、オタクのほうはべつにかれを崇めたりはしなかったと思う。

 いやまあ、たしかに岡田理論を信奉し、岡田さんを崇拝したオタクも皆無ではないだろう。しかし、そうではないオタクもまた、大量に存在しているはずなのである。すべての、あるいは大半のオタクが一丸となって岡田さんを崇拝したという事実は存在しない。こういう内容を根拠に「オタクは差別が大好き」などといわれても困る。

 えの氏はさらに、「唐沢俊一検証blog」の記事を引用しつつ書く。

自分は会長(と学会会長の山本弘氏のこと。引用者注)も唐沢俊一と同じで「直接話している限りではいい人」だと思っていたので、別に意外ではなかった。だいたい、50歳を過ぎて『生徒会の一存』の同人誌を作っている人が悪い人のわけがない。



 ……この人たちは一体いつになったら目が覚めるんだろうか?
 大人になってもアニメやマンガを好むことは、別に恥ずべきことでもなんでもない。だからといって、別に自慢に思うことでもない。単に趣味の問題である。だがオタクであることが何かしら素晴らしいこと、知的であることであるかのような幻想をふりまき続けている人たちがいる。と学会の唐沢俊一氏、岡田斗司夫氏、山本弘氏等のことだが、そのため彼らはオタクたちによって持ち上げられ、あがめたてまつられてきた。今や、彼らが書いてきたことがどれだけデタラメに満ちているかについては、さまざまなサイトで検証されている。(唐沢氏はそれに加えて盗作の常習犯でもある。)オタクどももそろそろ自分たちが食い物にされてきたことに気がついてもよさそうなものだ。だがまだ気がつかないらしい。唐沢氏らの化けの皮ははがれたが、唐沢氏らがふりまいてきた、自分たちオタクが知的存在だという主張はやっぱり正しいのだ、と。アニメの同人誌を作れば、自分たちは特権階級にいられる、そういう幻想に、いまだしがみつくつもりだ。そして「唐沢俊一はオタクではない」と必死に叩くことによって、自分たちこそが真のオタクであるという夢に、いつまでもまどろんでいられると思っているらしい。

 「大人になってもアニメやマンガを好むことは、別に恥ずべきことでもなんでもない。だからといって、別に自慢に思うことでもない。単に趣味の問題である」という一文には全面的に賛成する。しかし、そのあとが良くない。

 なぜ、kensyouhan氏個人の言説をもとに「この人たちは」などと複数の人間を批判できるのだろう。この人たちってどの人たちのことだ?

 kensyouhan氏の言説の責任は、いうまでもなく、kensyouhan氏個人にある。kensyouhan氏の発言を問題だと思うなら、kensyouhan氏個人を批判するにとどめておいてほしいものだ。関係もないのに巻き込まれている「オタク」一般が哀れである。

 さて、えの氏は「オタクは差別が大好きである」というが、「オタクは差別が大好きである」という言説は、そもそもそれじたい、本来かぎりなく雑多なオタクという人種を一括りにして差別している言い草である。

 差別が大好きなオタクもそれはいるだろう。しかし、そうではないオタクもいる。それだけのことなのだ。えの氏が批判しているオタクとは、えの氏の脳内にのみ存在する架空の集団である、と断ぜざるをえない。

 ぼくはべつにオタクが偉いとも、愚かしいとも、公正だとも、差別的だとも思わない。それはひとりひとり全く異なる個性をもつ集団、というより非集団なのであって、十把一絡げにして語ることがそもそも不可能なのである。

 「オタク」という主語は大きすぎるのだ。ひとを批判する場合はもっと小さな主語を使うべきだろう。たとえば、「kensyouhan氏のこの記事は差別的だ」というような。それなら検討する余地はある。検討した結果却下するかもしれないが、それはそれである。