理想の読者は悪魔に似ている。


 昨日の『シャカリキ!』ラジオで語った『昴』と『MOON』の話がちょいとおもしろかったのでまとめておきます。

 まず、前提として述べておきたいのは、曽田正人の漫画『昴』が文句なしの名作だということ、そしてその続編『MOON』がここまでいまひとつテンションが上がらずに来ているということです。

 『昴』はバレエ漫画の、というかアート漫画の表現に革新を起こすような大傑作でした。荒唐無稽でありながら圧倒的な説得力に満ちた内容で、曽田作品のなかでも『シャカリキ!』と並ぶ最高傑作だと思っています。

 対して、『MOON』はやはりワンレベル落ちる。なにかが違う、という違和感がのこる作品になってしまっています。もちろん、これから挽回する可能性もないことはないのですが、とりあえず、現時点ではそうですね。

 で、ここから先が本題なのですが、そうと認めたうえで、『MOON』を評価することもできると思うのですよ。「まあ、あの作品にもいいところはあるよね」とか「ここはすごいよね」とか。「さすが曽田正人と思わせるものはあるよね」と。

 しかし――本当は、「いいところもあるよね」なんていわれている時点で良くないんです。「ここはすごいよね」とかいわせてしまっている時点でぜんぶすごくはないんです。ようするに作品が完璧じゃないからこそそういう評価が出てくる。ぼくはやはりそういう意味では『MOON』は『昴』に及ばないと思います。

 ただ、ただね、ここがむずかしいところで、それも無理はないことだとも思うのですよ。

 漫画表現の最高傑作を更新するということは、たとえていうなら、一冒険家としてだひとりたどり着いた者もない未踏の極地をめざすようなものです。吹雪吹き荒れ、雪崩が襲い掛かる、そんな荒涼たる世界をただひとり切り開いていく、そういう行為です。

 曽田さんはひとたびはその冒険行を成功させた。それだけで十分な偉業だし、達成だといえるとは思う。そして、そうである以上、「もういちど同じところに、いや、その先に」という行為は、あまりといえばあまりに無謀なチャレンジといえます。

 だから、曽田さんの苦しみはわかる。わかると思う。自分自身を極限まで追い詰めてたどり着いた境地を、さらに更新していかなければならない作家の苦悩――それはわかるんだ。わかるのだけれど――はたして、ここで、読者であるぼくは、どうするべきなのでしょうか。

 「あなたの気持ちもわかるよ」とぽんとその肩を叩くべきなのか。「あなたはよくやった。『MOON』はいまひとつの出来だけれど、それも無理はないよね」と物分りよく納得してみせるべきなのか。

 否――ぼくは、そうは思いません。ぼくは、ぼくたちは決してそんな「物分りのいい読者」になるべきではないと思う。なぜならば! 作家はまだ最前線でたたかっているのだから! かれに心地よい慰めの言葉などかけるべきではない。決して、決してかけるべきではない。

 「もういいよ」といっていあげたいのは山々なのだけれど、「あなたはよくやったよ」と慰めてあげたいのは事実なのだけれど、それでも、その言葉は作家に対する侮辱にあたる。だからぼくはいわなければならない。「なにやっているんだ、曽田正人! あんたならもっとすごいものを描けるはずだろ!」と。

 心からのリスペクトを込めて、ぼくはいうでしょう。「さぞかし辛いでしょう、曽田さん、本当に大変なことでしょう、でも――それでもなお、あなたならできるはずです。できると、ぼくは信じています。だから、お願いだ、やってのけてみせてください。またしてもやったか、とぼくたちを驚かせてください」と。

 ただ、これもむずかしいところで、その言葉は叱咤激励であるべきあって、嘲笑罵倒であるべきではない。ぼくは作家自販機主義者と呼んでいるのだけれど、作家をお金をいれてボタンを押せば作品を出す自動販売機のように思っているひとは少なくないのですね。じぶんの気に入ったものが出てこなければ叩けばいいと思っているようなやから。

 ぼくはそういう作家に対するリスペクトのない態度はきらいです。でも、同時に「物分りのいい読者」にはなるべきではないと思っている。

 だから、ほんとうにむずかしい話になってくるのだけれど、ぼくの理想とするファンの姿というものは、何もかもわかり、共感しながら、それでもなお「もっと」と求めるような、そういうものです。そして、いざその作家がほんとうに本物の傑作を物したときには、心からの賞賛を込めてあたたかな拍手を送る、そういうものなのです。

 尊敬しているからこそ、その辛苦を察しているからこそ、涙を呑んで「もっと!」と叫ばなければならないときがある。それはただじぶんの欲望が叶えられないからという理由で自動販売機を叩くように作家を攻撃する態度と、似て非なるものだと信じます。

 しかし――人類最前線で極地を目指す冒険家たちに対して、そのはるか後方、あたたかな家でぬくぬくとまどろみにも似た平穏を楽しむぼくらに、そんな言葉をかける資格があるのか? ある、と思いたいところです。いや、あるに違いない。あるような生き方をしていたい。

 だから――ぼくはいう。もっと、と。もっとおもしろいもの、もっと凄まじいもの、もっと美しいものを、と。どうか、ひとの身で神の境地を志すあなたよ、人類最北を極めながらなおさらなる北をめざすあなたよ、あなたがみごと目的地に到達せんことを祈る、と。

 ぼくは単なる読者、傍観者に過ぎません。しかし、だからこそ、亡者のように貪欲になり、激励と拍手をともに送りたいと思うのです。もっと、もっと、もっと――まだ足りない、まだまだ、もっともっとだ、と。その意味、読者とは、悪魔のようなものかもしれません。

 それでもなお、ぼくは死ぬまで次の言葉とともにあるでしょう。ありがとう、そして次はもっと、と。それがぼくにとっての理想の読者像です。