『リバースディテクティヴ』第七章。


 第七章「決着」

 思えば、もっと早く気づいていてしかるべきだった。
 アズハルはうそをつくことができない。しかし、真実を巧みにいいこしらえることはできるのだ。あの魔人がぼくを助けるよう正確な情報を渡すはずがないではないか。かれは終始巧みにぼくを誘導していたのだ。
 そう――いまのこの状況を導くために。
「そうだ」
 ぼくは呟いた。
「もっとずっと早く気づいているべきだった。きみしか犯人は考えられなかったんだ。ぼくはまず、容疑者を夏休みのあとにこの学園に転校してきた生徒に絞った。なぜなら、犯人が晴香を殺そうとするのは彼女に事件現場を見られたからだとアズハルからきいていたからだ。夏休み中に起こった事件がきっかけで晴香を狙うようになったのなら、夏休み以降に転校してきた人間に犯人がいるはず、そう考えた。そのロジックは間違えていなかった。しかし、ぼくはそこでひとつの壁にぶつかることになった。夏休み以降に転校してきた四人全員に、たしかな過去があるという壁に」
 ひとつ深呼吸し、つづける。
「殺された犬吠ひとみを初めとして、四人全員が紛れもなく彼女自身でしかありえなかった。犯人が過去を偽装しているはずだと考えるかぎり、この問題は解決できなかった。ぼくはこう考えるべきだったんだ。あるいは、犯人は過去を偽装してなどいなかったのではないか。そのままのすがたでこの学園に入り込める身だったのではないか。つまり――」
 ぼくはひと呼吸おき、その推理を口に出した。

「犯人は、初めから少女だったのではないか」

 アズハルとのさいしょの会話を思い出す。
 あのとき、一連の事件の犯人は女なのか、と詰め寄ったぼくにかれはこう答えた。
「そう、女だよ――いまはな」
 そうだ。
 その言葉はうそではない。
 しかし、真実のすべてを伝えてもいない。
 より正確にいうなら、一連の事件の犯人は、いまもむかしも、女だったのだ。彼女はいちども変身したことなどないし、男だったこともない。
 よく思い出してみると、たしかにアズハルは犯人が男から女へ変身したとはひと言もいっていなかった。ぼくがかってに変身したものだと思い込んでいたのだ。なぜなら、メディアが犯人は男だと報道していたから。しかし、その情報が間違えていたとしたら? そうだとしたら、すべての構図は逆転する。
「ふん」
 殺人鬼はまたも低くわらった。
「もち主をそうまで惑わすとは、ずいぶんひどいジンにあたったようだな。おかげで、わたしはずいぶん助かったが」
 ああ。
 ぼくは、本当に愚かだ。
 あまりに単純すぎて見すごしていた。
 犯人がじぶんの顔を見た人間を殺そうとしているのだとしたら、目撃者よりまえに生きのびた被害者を殺そうとしているはずだということを。なにしろ、彼女は正面から犯人の顔を見ているはずなのだから。
「しかし、それでは、あの似顔絵はどうなる?」
 と連続猟奇殺人鬼はいった。
「あれは紛れもなく男の顔だぞ。まさか、この子が男と女の区別もつかないというわけではないだろうな」
「簡単なことだよ」
 ぼくは小さくうなずいた。
「あまりに簡単すぎて何日も気づかなかったじぶんをぶん殴りたくなるくらい簡単なことだ。その似顔絵の男は、じつは被害者だった。きみに襲われて抵抗している最中だったんだ。晴香はきみと被害者がもみ合っているところを見て、被害者と加害者を勘違いしてしまったんだね」
「ブラボー」
 少女はひくく不気味にわらう。
「なかなかの推理だ。わたしは、あの一瞬、被害者を装ってこの子にたすけを呼びにいかせた。われながらすばらしい機転だったよ。そして、彼女がいなくなった隙に男を殺すことに成功した。あとは簡単だ。ランプの力でひとに危害を加えることはできない。しかし、完全に殺した人間を消し去ることはできる。わたしは〈月のランプ〉の魔人サミーラに頼み、証拠を隠滅したのだ」
 ぼくは額ににじみ出てくる汗をぬぐった。
 この殺人鬼と対峙することは、おそろしく気力を消耗させられる。
「そして、きみはじぶんを襲った犯人はどこかに逃げ出したといった。晴香も、警察も、その言葉を疑わなかった。誤った似顔絵が描かれ、メディアに乗った――。全くうまくやったものだ。おそろしく冷静な犯罪だ。とても十六の少女のなすこととは思えない」
 ぼくは長いあいだ、被害者は三人だと思っていた。しかし、じつは四人殺されていたのだ。そう、三人目の被害者は、被害者であることすら抹殺されていたのである。
 ふたたび、アズハルとのやり取りを思い出す。
「晴香を狙う殺人鬼はいま少女のすがたで学園に潜入している。これはたしかだな?」
「そうとも、わが主人よ」
「それは晴香が夏休みに目撃した殺人鬼だ。これも間違いないな?」
「いかにも」
 ぼくは全く間抜けだった。
 殺人鬼が少女の姿で学園に潜入していることはあたりまえなのだ。初めから少女なのだから。そしてその正体が晴香が夏休みに目撃した殺人鬼であることもうそではない。ただ、晴香はその人物を殺人鬼だとは気づいていなかったのだが。
「きみは全くうまくやった。希代の殺人鬼というべきだ。そうだろう――里美ちゃん」
 四人もの無辜の人々のいのちを奪ってきた少女――卓真里美は、うすくあやしく微笑みながらうなずいた。

                   ◆

「何をいっているの――?」
 首筋に銀いろの刃物をあてられたまま、晴香がふるえた声を出す。
「わたし、全然わからないよ。ね、里美ちゃん、どうしてこんなことするの? あぶないから、外して。ね?」
「能天気な女だな」
 里美は嘲弄した。ふしぎとアズハルによく似た、しかしさらにどす黒い口調だ。
 卓真里美。
 ぼくはこの少女をいつもなにかに怯えているようなおとなしい少女だと思い込んでいた。しかし、いま、不敵な微笑を浮かべ佇むそのすがたからはおとなしさとか臆病さといったものは全く感じ取れない。まるで、すがたかたちだけそっくりの双子の姉妹といれかわったかのようだ、といえばいいだろうか。十六の少女とはとても思えない、その黒々とした迫力、威圧感――それは、自らの意思で何人ものひとをその手にかけてきたものだけが持つ、悪魔の力であるのかもしれなかった。
「晴香、よくきいて」
 ぼくは、ともすれば荒くなりそうになる口調を何とか抑えながらいった。
「里美ちゃんはきみの思っているような女の子じゃない。既に何人ものひとを殺してきた殺人鬼なんだ。でも、大丈夫、ぼくが必ずたすけるから、だから、抵抗したりしないでそのままでいて」
「必ずたすける、か」
 里美は皮肉そうにくちびるの端をつり上げた。
「この状況でよくそんな言葉が出る。絶体絶命の危機というやつだというのにな」
「ひとつだけ訊かせてくれ。犬吠ひとみを、なぜ殺した?」
 里美はぼくの質問を鼻でわらった。
「殺せたから、殺した。それだけだ。わたしもまたサミーラからきかされて〈太陽のランプ〉のもち主がわたしを狙っていることはしっていたし、危険だと考えていた。だから、〈太陽のランプ〉のもち主である可能性のあるものは、殺してしまおうと考えていた。犬吠ひとみは容疑者のひとりで、最も隙があった。それだけのことだよ」
「そんなことで――」
「そんなこと?」
「どんなことなら殺人の理由になるというのだね。国家の大義か? 経済の復興か? 復讐か? 正義か? そんなもののために殺すより、わたしのほうがよほど純粋だ。わたしはただ殺したいから殺しているんだからな。もっとも――」
 彼女はわらった。どこか決定的に歪んだ、狂った笑顔。
「そんなことは、すこしも死者の救いにはならないだろうがね」
 里美は、刃物はそのままに腰に身につけたポシェットからひとつのものを取り出した。
 ふるめかしくもふしぎな威厳をそなえた、陽のひかりを受けて鈍い銀いろにきらめくランプ――いうまでもない、〈月のランプ〉だ。
「魔人サミーラよ!」
 そう呟くと、そのランプのなかからひと筋の煙が立ちのぼり、見る間にひとのすがたを形づくった。生身の人間ではありえないほど巨躯の美女――ランプの魔人、サミーラだ。
「何の用じゃ、わが主人よ」
「いまは用はない。ただ、状況によっては頼むことになるかもしれない」
「アズハル」
 ぼくは荒くなる呼気をなんとかととのえながら呟いた。
「出てきてくれ」
 すると、鞄のなかから煙が立ちのぼり、たちまち長身の魔人を形づくった。その頬にはあの皮肉な微笑が刻み込まれたようにたたえられている。ぼくはかれにいってやりたいことが百もあったが、この状況では我慢するしかなかった。アズハルの力なくして、逆転は不可能なのだ。
「おお、わが主人よ」
 アズハルはからかうようにいった。
「どうやら、犯人を追いつめたようじゃないか? さすがだな。あとは捕らえるだけか」
 ぼくは返事をしなかった。
 さて――
 この状況をどう把握するべきだろう?
 晴香を人質にとられているいま、ぼくに反撃の方法はほとんどない。もし条件が対等なら、ランプの願い事を使って晴香を取り戻したり、里美をたおすことはできるかもしれない。しかし、里美はおそらくあとふたつ、願い事をのこしている。それに対し、ぼくはたったひとつしか願い事を叶えてもらえないのだ。ぼくが何か願い事をいった途端、里美も願い事を使って反撃してくるだろう。そして、願い事の数が違う以上、さいごには彼女にうえを行かれることは間違いない。
 まさに絶体絶命。
 それに――
 もしここで願い事を使ってしまったら、もう男に戻ることはできなくなるのだ。あと何十年かの人生を女として生きていくしかないことになる。いくらここ数日で女性としての生活に慣れてきたとはいえ、ぼくはやはり、男なんだ。一生を女として生きていくなんて、考えただけでもみじめだ。そのうえ、そんなことになったら、ぼくを好きだといってくれた晴香と結ばれることも、永遠にありえなくなる。
 どうする?
「ねえ」
 晴香がふるえる声でいった。
「晴香ちゃん、さっきから、その喋りかた――男の子みたいだよ」
「晴香」
「ねえ、ひょっとして――ひょっとしたら、あなた、やっぱりわたしの幼なじみの薫ちゃんなんじゃないの?」
 ぼくのからだが凍りついた。
 ぼくは里美に抱かれた晴香を見つめながら、口にだす言葉を見つけらなかった。否定しなければ、と思ったが、その言葉は口から出てはこない。この期に及んで否定することに意味があるだろうか? いずれにしろ、すべての計略は水泡に帰したのだ。晴香はこんな手段で彼女をだましていたぼくを、軽蔑するだろうか? そうだとしても、仕方ない。
 ぼくは力なく頷いた。
「うん――そうだよ、晴香」
「やっぱり」
 晴香はなにかに想いを馳せるようにいったん目をとじ、そしてまたひらいた。
「ずっと、もしかしたらそうなんじゃないかって思っていた。どうやってそのすがたになったの? ううん、そんなこと、どうでもいい。やっとわかったよ、いままでずっとわたしのことを守ってくれていたんだね。ありがとう」
 そしてひとつふかく呼吸すると、いった。
「大丈夫、薫ちゃん。わたし、怖くないよ」
「晴香――」
 ぼくと彼女の視線が絡みあった。
 なんて――なんて健気で勇気のある子なんだろう。
 ぼくの晴香。
 必ず、守ってみせる。あらためてそう思った。
「純愛だな」
 里美が男のような口調で嘲る。
「なるほど、そのからだ――作り物か。この学園に入るためにずいぶん努力したものと見える。はたしてこの子にそれだけの価値があるかな? いや、他人のためにそこまで苦労する意味があるのか? その気になれば栄耀栄華も夢ではない〈太陽のランプ〉のもち主だというのに」
「きみには、わからない。きみなんかに、わかってたまるものか」
 そう。
 紙を破るようにかるくひとのいのちを奪う殺人鬼ふぜいにわかるはずがない。
 ひとのために働くとき、最も熱く生きられるものもあるのだということ。だれかのために生きることをこそ、じぶんのいのちの証明とする人間もいるのだということ。
 彼女にはわからないだろう。わかってもらう必要もない。
 ぼくはランプの表面を指で撫ぜた。
 じつは、ひとつだけ里美の意表をつく手段があった。それは、ひとつの願い事を十にも百にもする方法であるといえる――あまりに危険だが、この際、賭けてみるか。
「アズハル」
 ぼくはかたわらのジンに呼びかけた。
「お前が約束したことを憶えているな? そして、ランプの魔人は約束を違えないのだったな?」
 アズハルのひとみが炎とかがやいた。
「おう!」
 と、ひと言だけかれは返答した。
 それで十分だった。ジンは決してうそをつけないのだから。
「なにをするつもりだ?」
 警戒をこめて里美が呟く。
「妙なことをすると、お前の大好きな晴香のいのちは――」
 ぼくはその言葉をさいごまで聴かず、叫んだ。
「魔人アズハルよ、きけ、第三の願い事だ。お前をそのランプから解放する!」
「心得た!」
 アズハルがそう叫ぶなり、突然、竜巻さながらのすさまじい旋風が吹き荒れ――そして、その場に立つ三人全員を軽々とその場になぎたおした!

                   ◆

 たおれこみながら、ぼくは思っていた。
 けっきょく、これが、アズハルの狙いであり、計略であったのだろう、と。
 アズハルがぼくに真相を誤解させたのは、単なる意地悪ではない。かれはぼくがかれを解放せざるをえなくなる状況を作り出そうとしていたのだ。それは、かれにとっても賭けだことだろう。たやすく真犯人にたどり着かせてもいけなければ、犯人が晴香を殺してしまってもまずいのだから。しかし、けっきょく、かれは勝利した。ぼくは追いつめられ――そして、かれを解放せざるをえなくなったのである。
 アズハルは天地をふるわすほどたかく哄笑した。それは千年の封印から解き放たれた男の歓喜と、世界を睥睨するものの傲慢とにみちたわらいだった。
 古のソロモン王の封印は遂に解けた。
 往古、世界を闊歩した邪悪なジンはふたたびこの世に解放されたのである。
「アズハル、約束だぞ!」
 ぼくが叫ぶと、アズハルは皮肉っぽくぼくを見おろした。
 かつて、かれはぼくに約束した。
「もしお前がおれを解放してくれるというなら――そうするなら、おれ自身がその殺人鬼をたおしてやると誓おう」
 と。
 その誓約こそ、ぼくがあてにしたものだった。
 ジンがうそをつけない以上、あれはアズハルの本心であったはずだ。そしていま、ぼくはその力を必要としている。さあ、アズハル、解放された魔王よ、どうする?
「いいだろう」
 アズハルはやはり、誓いを反故にするつもりはないようだった。かれは里美を倣岸なひとみで見おろすと、その指を彼女に向けたのである。
 里美は思わぬ事態に動揺したのか、判断が一瞬遅れた。すばやく願い事を告げることなく、立ちすくんでしまったのである。それでも、さすがは希代の殺人鬼というべきか、つぎの瞬間には彼女はアズハルの威から立ちなおり、願い事を告げていた。
「サミーラ、アズハルをふたたび封印――」
 しかし、いい終えることなく、その口のうごきがとまった。
 おそらく、彼女は悟ったのだろう。
 ランプ使いは他のランプ使いの願いを妨げることができない――彼女にはアズハルを封印することはできないのだ。
 呆然とする里美の腕に、晴香が噛みついた!
 里美は悲鳴を上げ、ランプを落とした。その隙は、アズハルに対して致命的なものだった。魔人の指から一条の光が閃いたかと思うと、彼女は全身をふるわせ、意識を失ってその場にたおれていたのである! 解放された晴香は、その場に座り込んだ。
「約束は果たしたぞ、わが主人だった男よ!」
 アズハルはふたたび哄笑した。
「いまこそわれは自由だ! このまま世界を蹂躙しつくしてくれるわ! 人類の歴史はきょうより夜の時代を迎えるのだ!」
 アズハルはいまやランプに封印されて頃よりさらに倍も大きくなったように見えた。天にはその再来に怯えたかのように群雲が集まってきている。先ほどまでの青あかるい空はもはやなく、いまにもすさまじい豪雨が降りだしてきそうだった。あらしを呼ぶもの――アズハルをそう呼ぶものがあったそうだ。その異名は偽りではなかった。
「晴香!」
 ぼくは叫んだ。
「そのランプをなげて!」
 そのとき、もし晴香がとまどっていたら、すべてはそのまま終わっていたことだろう。しかし、彼女は一瞬も惑わず、すばやくぼくの指示に従ってくれた。地面におちた〈月のランプ〉を、そうとはしらぬまま手にとり、ぼくのほうに向かってなげる。
 次の瞬間、そのランプはぼくの手のなかにあった。
「なにを――?」
 アズハルが不審そうにぼくを見おろした。
「なにをするつもりだ、薫?」
 ぼくはそれにかまわず、もうひとりのランプの魔人に向け、話しかけた。
「魔人サミーラよ、ぼくの願いをきいてくれるか?」
 うつくしいジンはうなずいた。
「かまわぬ。ランプの主人である以上、われはそなたの願い事を叶えることができる」
 と。

                   ◆

「ばかな」
 アズハルは驚きの声をもらした。
「まさか――」
「そうだ、アズハル。お前が教えてくれた通り、ぼくもまた星に選ばれたランプの主人であることには変わりない。ぼくものこるふたつの願い事を使う権利があるんだ。そうなのではないかと思っていた。正直、自信はなかったけれどね」
 そう、まるで自信などなかった。これはギャンブルだったのだ。
 ひょっとしたら、ぼくにも〈月のランプ〉を使う権利があるのではないか――そう思ったのは、サミーラのすがたを目の当たりにしたそのときである。サミーラのすがたを見ることができるということは、サミーラの主人でもあるということなのではないか。
 確信などない。
 賭けだった。
 しかし、アズハルがさいごには勝ったように、ぼくもまた、この賭けに勝ったのだ。
「薫」
 アズハルはいった。
「約束したとおり、お前に世界をやろう。お前は地球の王様になるんだ。うそじゃない。金も、女も、栄光も、名誉も――お前の望むものすべてをやろう。うそじゃない。おれはランプに封印されていた頃にそう言葉にだして誓ったのだからな。だから、そのランプを離してくれ。頼む」
「悪いな、アズハル」
 ぼくはようやく解放されたばかりの魔人に哀れみすら感じながら、告げた。

「世界征服とか、巨万の富とか――そういうの、もう流行らないんだよ」

「畜生!」
 アズハルの指がかがやきはじめる。
 しかし、ぼくが〈月のランプ〉に願いを告げるほうが、ほんの一瞬だけ早かった。
「魔人サミーラよ、アズハルをふたたびランプに封印してくれ!」
「心得た」
 そして――
 うつくしい女魔人はぼくの願い事を叶えるべく、アズハルに襲いかかった。アズハルもまたそれに抵抗しようと挑みかかる。
 ふたりの、同格の魔人の死闘――ぼくたちはそれを目にすることはできなかった。ぼくはその超次元の闘争を、ただ世界を真っ白に染めるほどのひかりがひらめいた、としか認識できなかったのである。
 ぼくは気を失い、その場に崩れ落ちた。

                   ◆

 どれくらいの時が経ったのだろう。
 ずいぶん長いあいだのように感じられたが、おそらくは数秒、長くても数分のことだったに違いない。ぼくは目をさました。
 辺りを見わたすと、先ほどまでの群雲はうそのように消え去り、はてしなく青あかるい晴天に戻っていた。ダイヤモンドのような夏の太陽が世界を照らし出している。
 ぼくは、晴香のもとに駆け寄り、その肩を揺すって、目ざめさせた。
「薫ちゃん?」
 彼女は薄目をひらくと、幻ではないことをたしかめようとするように、ぎゅっとぼくの指をにぎった。
「やっぱり、薫ちゃんだったんだね。ずっと、そうなんじゃないかと思っていた。どうやってかはわからないけれど、わたしを守るために、女の子のすがたになったんだね。そうでしょう?」
 ぼくはうなずいた。
「でも、どうでもいいや。男の子でも、女の子でも、好き。大好き」
 そして、晴香はぼくの腕のなかにもたれかかってきた。
「教えて、晴香。どうしてぼくの告白を断ったの?」
 晴香はうつむいた。
「わたし、心のどっかでわかっていたの。じぶんが殺人鬼に狙われているってことを。里美ちゃんが犯人だなんてしらなかったけれど、でも、本当は、どっかでわかっていたのかもしれないね。だから、薫ちゃんを巻き込んじゃいけないって思って冷たくしたの。だって、わたしは安全なところに逃げ込むけれど、薫ちゃんはいつ狙われてもおかしくないところにいるでしょう? でも、的外れな心配だったね。ごめんね」
 その澄んだつぶらなひとみから、ひと筋、なみだがこぼれ落ちる。
「ううん。いいよ」
 すべては、もうとうの昔に済んだことだった。
 ぼくは地面に落ちたふたつのランプを見つめた。アズハルの姿が見えないということは、かれはふたたび〈太陽のランプ〉に封印されたのだろうか? いずれにしろ、ぼくは三つの願い事を使いきってしまったのだ。もうかれの主人とはいえない。
「サミーラ?」
 ぼくが呼びかけると、予想通り、〈月のランプ〉から魔人が飛び出してきた。
 ほっと、安堵のため息をつく。どうやら、さいごの、最も大きな賭けには勝利できたようだ。願い事という強制力を得たサミーラの力はアズハルのそれを上回ったのだ。
「わがもうひとりの主人よ」
 彼女はいった。
「わがさいしょの主人が目ざめるまえに願い事を叶えておくかな? 元の男のすがたに戻るか?」
 ぼくは魔人の澄んだうつくしいひとみを見つめた。アズハルと異なり、この魔人には悪意はないようだ。ぼくがそう望みさえすれば、いますぐ男の格好に戻してくれるだろう。
「サミーラ」
 ぼくは深く息を吸い、そして、吐き出した。
「わが望みは――」

(終章へ続く)

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