『リバースディテクティヴ』第六章。


 第六章「真実」

 時はいつも足早に駆けていく。どんな怪異な事件が起ころうと、その歩みが止まることはない。そうして、次の日、そのまた次の日が、何事もなく過ぎ去った。
 日本有数の名門女子校で起こった殺人事件を、マスメディアは様々に書きたてた。
 この事件はテレビでも新聞でもトップニュースになり、悲劇の少女犬吠ひとみの名は日本中に知れわたった。しかし、ふしぎとそのまえの連続殺人事件と絡めて語るメディアは存在しないようだった。それもあたりまえのことかもしれない。あの事件の犯人は成人男性とされているのだから、いかに手口に多少の共通点があるとはいえ、女性しかいない女子校で起こった事件とかかわりがあると考えるほうがおかしい。
 ぼくだけが真実を知っているのだ。
 怖ろしい真実を。
 既に三人の人物を手にかけた狂気の殺人鬼はこの学園のどこかに潜伏し、いまも次なる犠牲者を生み出すべくその刃を研いでいるのだということを。
 しかし――
 たとえすぐ近く残虐な事件が起ころうと、ぼくたちにはあたりまえの日常をあたりまえに過ごしていくことしかできない。それもまた真実だ。事件が起こった当初の、パニック寸前の混乱は少しずつ収まり、少女たちは日常を取り戻そうとしていた。もちろん、たった二日で、元の日常を完全に取り戻せるはずもないが、少しずつ、少しずつ、真紅の非日常は穏やかな日常へと回帰しつつあったのである。
「よ、薫。どうした? しけた顔して」
 いつもどおりカフェテラスで晴香とお茶を呑んでいたぼくに、いつも通り生徒会長が声をかけてくる。その傍らには、当然のように望のすがたがある。このふたりは初め喧嘩していたことなど忘れているようだ。
 ぼくはある疑惑を込めて望の端正な顔立ちを見つめた。
 この少女が連続殺人鬼なのだろうか――?
 どう考えてもありえない可能性であるように思えた。この少女が成人男性の変身したすがただと信じるくらいなら、まだ殺人鬼がどこからともなくこの学園にあらわれ犬吠ひとみを殺して去っていったという可能性のほうが信じられる。
 それに、彼女にははっきりした過去があるのだ。ぼくは彼女が間違いなくあるピアノコンクールで優勝した経験があることをインターネットで調べて知っていた。
 彼女は犯人じゃない。
 しかし、そうだとするといったいだれが犬吠ひとみを殺したのだろう?
 よほど暗い目つきをしていたのだろう、望は心配そうにぼくの顔を覗き込んできた。
「どうしたんですの? なんだか具合が悪そうですわよ」
「なんでもありません。ただ、その、ちょっとこの頃色々あって疲れているんです」
 ぼくはなんとか微笑んでみせたが、たぶん、よわよわしい微笑にしかならなかっただろう。
音夢にいやがらせされているのか?」
 由佳が真剣な表情でいった。
「靴に画鋲をいれられたりしていないよな? あいつならそんなドラマみたいなこともやりかねないからな」
「大丈夫です」
 ぼくは答えたが、たしかにこの二日間、音夢から脅迫に近い言葉を受けていることは本当だった。これ以上じぶんに逆らうと後悔するとかなんとか。彼女はよほどぼくのことが気にいらないようすで、いやがらせに近いこともしてきていた。しかし、ぼくはほとんど気にならなかった。この学園にひそむ連続殺人鬼の本物の狂気に比べれば、彼女の悪意など、しょせん子どもだましだ。
「ほんとに大丈夫か? あんまりなんでもひとりで抱えるなよ」
 由佳の言葉はありがたかったが、そういうわけにもいかないのだった。これは、ぼくじしんで解決しなければならない問題なのだ。ぼくだけが真実を知っているのだから。
 彼女を安心させようと薄く微笑むぼくを、由佳はそれでも心配そうに見つめていた。
 その日の夜。
 ぼくはあいかわらず慣れない入浴をそそくさと終えると、パジャマに着替えてベッドに入っていた。なんとなく熱っぽく、寝苦しくて、元気が出なかった。ここ数日間、ずっと気を張っていたせいで、精神的疲労がたまっていたのかもしれない。
 ようやくこのからだにも慣れてきた気がしていたのに、なんとも情けない。
 歩くたびに乳房がゆれる奇妙な感触も、ブラジャーのなんともいえない窮屈さも、だいぶ馴染んできたのに。もしいま〈太陽のランプ〉を失くしてしまったとしても、このまま女性として生きていくことができるかもしれないと思うくらいだったのに。
 長年、男らしい男になりたいと悩んできたにもかかわらず、いざ女体を得ると、あまりにあっさりと女性に馴染んでしまったじぶんがふしぎでないこともない。あるいはぼくは本来女性に生まれてくるべきだったのだろうか、などと考えてしまう。
 しかし、やはりぼくは男なのだ。その証拠にいまも晴香のことが好きでたまらないし、可能なら男のからだに戻ってその肢体を抱きしめたいと思う。もっとも、少女のからだをもっているからこそ晴香といっしょにいられるのであって、男に戻ったら彼女に近づくこともできないかもしれないのだけれど。
 なんてパラドックス
 ぼくはベッドのなかで声をたてずにわらった。
 途端に腹が痛んだので、顔を顰める。なんだか今朝あたりから腹がきりきり痛むのだ。なんだろう? 皆とおなじものを食べているのだから食中毒の心配はないと思うんだけれど。
「ね、薫ちゃん。具合悪いの?」
 ぼくがひとりで腹をさすっていると、晴香が心配そうに声をかけてきた。さすがに大丈夫ともいえず、ぼくはかるく頷いた。
「うん、ちょっとね」
 晴香はそっとぼくの頬をなぜると、遠慮がちに訊ねてきた。
「もし違っていたら謝るけれど――晴香ちゃん、生理前なんじゃないの?」
「え?」
 生理前。
 ぼくは一瞬、言葉の意味がわからなかった。
 次の瞬間には理解していたが、その理解はいままでにない混乱と困惑を伴っていた。
 生理前!
「――そうかも」
 うまいごまかしの言葉も見つけられず、ぼくは呆然とそういった。
 晴香はめずらしく呆れたようすだった。
「そうかもって、周期はどうなっているの? え、知らない? 生理用品はなにを使っているの? 使ったことない? うそ、いままでどうしていたの? わ、泣かないで。大丈夫だから。わたしがちゃんと教えてあげるから」
 おかしい。感情の昂ぶりをとめられない。どんどん涙があふれ出してくる。いままでこんなことなかったのに。ぼくはどうしてしまったんだ――?
 得体のしれない感覚にいままでにない恐怖を感じながら、ぼくはさしだされた指をぎゅっとにぎりしめた。
 晴香に薦められるままに体温計で測ってみると、ぼくの体温は平熱より一度以上高かった。どうりで熱っぽいわけだ。妙に納得しながら、なんでこんなことになったのだろうと考える。ところが、さすがに熱があるだけあって、考えがうまくまとまらなかった。おかしい。いままでこんなことなかったのに。
「もう、この歳になるまでなんにもじぶんのからだのことをしらないなんて、信じられないよ」
 少し怒ったように晴香がいう。
「だめだよ。女の子のからだはデリケートなんだから、ちゃんと気を付けないと。それにしても、薫ちゃん、いままで生理の経験がなかったなんて、ずいぶん遅かったんだね。でも初潮には個人差があるっていうから、それじたいは全然おかしくないと思うよ。わたしがちゃんとしてあげるから、だからなんにも心配しなくていいから安心して。ね?」
 ぼくには、この歳で初潮を迎えることがノーマルなのかアブノーマルなのか、さっぱりわからない。しかし、ごまかしようもないことなので、晴香にはいままで生理の経験がないといってしまった。そこで、晴香は妙に張りきって、レクチャーをはじめた。
 なんだか気恥ずかしい。
 ぼくは口を覆うくらいまで布団を被って丸まった。
 そんなぼくに向かい、晴香はいつになく優しく語りかけてくれた。ふしぎだ。晴香がたよりになる。しかし、その話題と来たら、ぼくが想像していなかったものだった。
「わたしが好きな男の子の話、しよっか」
 と、いいだしたのである。
 ぼくはききたくなかった。全くききたくなかった。
 晴香の口から彼女の好きなひとのことをきかされるなんて、傷口に塩をすりこまれるようなものだ。それでも気づくと「うん」と頷いていたのは、自虐に似た心理だったかもしれないし、あるいは、という期待があったためかもしれない。
 あるいは、ひょっとしたら、というかすかな期待。
 そして、その期待は、話をきくにつれたかまっていったのだった。
「その子はね、わたしの幼なじみなの。といっても、初めて逢ったのはいまから六、七年くらいまえかな。女の子みたいな可愛い子で、すごく素直で、優しい子だった。わたし、こんなふうにだらしなくて、ひとりじゃなんにもできないでしょ? だから、日ごろからその子に頼りっぱなしだったの。それで、いつも一緒にいるうちに、気づいたら、いつのまにか好きになっていた」
 ぼくの心臓はいまにも破裂しそうなくらいはげしく脈打っていたと思う。
「名前は?」
 恐る恐る訊ねた。
「その子の名前はなんていうの?」
 晴香は照れくさそうに微笑んだ。
「その子も薫ちゃん、っていうの。あなたと同姓同名。顔もなんだかよく似ているみたい。信じられないような偶然ってあるもんだね」

                   ◆

 翌日。
 ぼくはなんとなくふわふわするような、それでいて地の底まで沈み込むような、奇妙な落ち着かない気分を抱えながら登校した。昨夜、晴香からきかされた告白は、いまもからだの芯にのこっていてぽかぽかと全身をあたためている。それだけならすばらしいのだが、もうひとつ生まれて初めての経験をしている最中なので、体調は最悪に近かった。
 よほど授業を休もうかと思ったくらいだけれど、晴香をひとりにするわけにはいかない。万が一にも、目を離した隙に晴香が殺人鬼に狙われたらどれほど後悔してもしたりない。
 それにしても、ぼくが迂闊なのに違いないけれど、少女に変身すると決意したとき、こんな体験をする羽目になろうとは思いもしなかった。
 女の子って、ほんと、大変だ。
 ため息。
 きのうはけっきょく、晴香からぼくをふった理由を訊きだすことはできなかった。それとなく訊きだそうとはしたのだけれど、うまくいかなかったのである。
 それでも、晴香が本心ではぼくのことを好きでいてくれるとわかったことは大きな収穫だった。いまにも背中に羽根が生えて空へ飛びあがれるのではないか、というほど爽快な気分。
 すべてを解決しおえて男性に戻ったら、もういちど晴香の真意を質そう。そのためにも一刻も早く事件を解決しよう。こころからそう思った。
 あいかわらずだれが殺人鬼なのかは見当がつかないが、じつは推理しなくてもかれを見つけだす方法がある。かれがかくし持っているはずの〈月のランプ〉をみつけてしまえばいいのだ。殺人鬼はかならずランプをこの学園に持ちこんでいる。それをみつけ出すことができれば、そのもち主が犯人だとわかるだろう。
 ただ――どうやって探し出せばいいのか?
 各容疑者のへやに忍び込んで、家捜しするか?
 そのあいだ晴香を放置することになるが、やってみる価値はあるかもしれない。しかし、ひとのへやを家捜ししているところをみつかったら間違いなく退学だ。そうなったら、みすみす殺人鬼の跳梁を許すことになる。あまりにもリスキーなギャンブルである。
 既にひとり犠牲者を出しているのだ。失敗は許されない。
 犬吠ひとみのことを考えると未だに胸が痛んだ。ぼくがもっと賢明であれば死なずに済んだ少女。ぼくはたぶんずっとこの負い目を背負って生きていくことになるんだろう。
 推理小説にでてくる名探偵たちは、こんな気分を味わったことがないのだろうか。かれらはかるがるとひとのいのちを背負っているように見えるが、ひとり夜中にうしなわれたいのちの重さを思いながら酒杯を傾けることもあるのだろうか。
 もうひとつ方法がある。しかし、こちらはさらにリスキーだ。
 ランプの魔人はランプ使いにしか見えない。逆にいうと、魔人を見れるものはランプ使いであることになる。だから、ひと前でアズハルを召還してみせて、魔人が見えているらしい人物を発見できれば、それが〈月のランプ〉の主人ということになる。しかしこれは、最悪、こちらの正体を一方的に晒したうえで犯人を見つけ出せないということにも繋がりかねない、危険な一手だ。
 やはり純粋な推理によって殺人鬼を見つけ出すことが最善なのだ。
 アズハルの言葉を思い出してみよう。
 かれはこういった。
「いままでの物語の登場人物を思い出してみるがいい。由佳、望、里美、芳子、それに音夢、あるいは沙耶、あるいは級友たち――さて、だれが犯人かな?」
 たしかにぼくがここ数日間で知り合った人物というと、ほぼこれだけに絞られる。このなかに殺人鬼はいるのだ。しかし、同時にその全員が殺人鬼ではありえない理由をもっている。ふしぎだ。
 アズハルはぼくが思い違いをしているといっていた。じっさい、ぼくもなにかが違っているという隔靴掻痒を感じている。どこかであてはめるべきピースを間違えている。そのピースさえ見つけだせれば、いますぐにでも犯人を指摘できるのかもしれなかった。
 ひょっとしたら、いまが賭けに出るべきときなのだろうか。
 ぼくは学生鞄のなかにいれ、へやから〈太陽のランプ〉をもちだした。あるいは、どれほどリスキーでも、ひと前でこれを使ってみるべきときなのかもしれない。
 被害者を三人で終わらせるためにも。
 ところが――
 ぼくはしらなかった。
 じつはこのとき、狂気の連続殺人鬼は既に四人の犠牲者をだしていたのである。

                   ◆

 溶けたアイスクリームのように形をくずした太陽が校舎の向こうにしずんでいく。
 カフェテラスの窓硝子越しにそのしずむ陽をみつめながら、ぼくは下腹部をさすっていた。あいかわらず鈍いいたみはつづいているが、いたみどめを呑んだのでだいぶ楽になった。薬も生理用品もない時代の女性たちは大変だっただろうな、などと思う。
 いま、晴香はトイレに行っている。
 さすがにトイレのなかまでついていくつもりはない。いや、本当ならついていくべきなのだろうけれど、それはやはり気恥ずかしかったし、晴香にも怪しまれるだろうと思われた。この数分だけでも心配でないこともないが、ものごとには限度があるものだ。
 たぶんね。
 と、ぼくが思いに耽っていると、靴音たかく近づいてくるひとりの少女があった。
 顔に見おぼえがある。たしか、音夢の取り巻きだ。
「春日さん」
 ぼうっと見つめていると、彼女は予想通りぼくのまえでとまり、こう告げた。
「ちょっと顔を貸してもらえるかしら?」
 ぼくは首をふった。
「いま、ちょっと具合が悪いんです。それに、晴香ちゃんを待っているの。あとにしていただけますか」
「そうはいかないわ」
 少女はひとみを細めた。
「来なさい。来なければ、あなたのだいじな晴香ちゃんがひどいめにあうわよ。それでもいいの?」
 ぼくは彼女と見つめあった。
 よほど興奮しているのだろうか、少女はなにかに憑かれたような目つきをしていた。このまま放置すれば、本当に晴香に手を出しかねない。仕方ない。ここは付いていくしかないだろう。一時晴香から目を離すことになることが心配だが――。
 ぼくはひとつ頷くと、少女に従って歩き出した。彼女はすでに授業が終わって電灯がきえた校舎のなかへぼくを導いていった。暗い教室というものは、何かふしぎと恐怖をそそるものだ。あるいはそれは、学校という場所が本来不気味な空間であることを示しているのかもしれない。つまり、学校とは、ある意味、一種の牢獄なのだ。
 と。
 ひと気のない廊下で少女が足をとめた。
 ここで話をするつもりなのか、と考えた、そのとき。
 うしろから手をのびてぼくの口を塞ぎ、腰を抱えて、暗い教室のなかへ、一気にひきずりこんでいったのだった――。

                   ◆

 ぼくを室内へひきずりこむと、へやの扉は閉められ、内側から鍵をかけられた。
 電灯が点く。
 ぼくはその場に尻餅をつき、そこに傲然と佇む少女を呆れて見あげた。この子はいったいぼくになにをするつもりなんだ? 彼女はぼくがさわぎたてないことが気にくわないのか、不機嫌そうな顔になった。そういえば、ぼくはこの子の笑顔を見たことがない。
「さわがないのね」
 ぼくは小さくため息を吐いた。
「さわいでも無駄なんでしょうから」
 少女――音夢は、甲高く舌打ちした。
 理事長の孫娘ということは、名家の出なのだろうに、下品な仕草だ。それをいうなら、そもそも、ふだんからあまり物腰に気品を感じさせる少女ではないけれど。
「わたしを、どうするつもり?」
 見当はついていたけれど一応、ぼくは訊いてみた。
 音夢はヒステリックにわらった。
「あなたの恥ずかしい写真を撮らせてもらうわ。それであなたはわたしに逆らえなくなる。この学園にはね、わたしに逆らったりする奴がいちゃいけないのよ」
「どうして、こんなことを?」
 音夢は怒りをこらえきれないように拳を握り締めた。
「何度も警告したわよね。わたしに逆らったりするな、って。でも、あなたはその警告を無視した。これはその報いよ。わたしがわるいんじゃない」
 ぼくはまた嘆息しそうになった。
 なんて幼稚な自己正当化。由佳ではないけれど、この子はどれだけ甘やかされて育ったのだろうかと思う。しかし、いまはそんなことをいっている場合ではない。なんとかこの場から逃げ出さなければ。この子にかまっている暇はないんだ。
「余裕ね」
 音夢はひきつった笑顔を浮かべた。
「でも、いつまでそうしていられるかしら。その澄ました顔が泣き顔に変わるところを見てみたいわ」
 ぼくはうんざりして顔を顰めた。どういう態度をとれば、この子は満足してくれるんだろう? ひざまずいて許しを乞わなければならないのだろうか。必要ならそうしてもいいが、それは事態をより悪化させるだけなのではないかという気もする。
 ようするに彼女はなにもかもじぶんがいちばんでなくてはならないのだろう。その願いを叶えてあげることは、ぼくにはできそうもない。早く片付けて、晴香のもとに戻ろう。
「ざんねんだけれど、あなたに付き合っている暇はありません」
 そういうと、音夢の笑顔がいっそうひきつった。元々、それなりに端正な容貌のもち主だけに、その表情は見ていて辛いものがあった。
 もう行こう、とぼくは思った。これ以上、この子にかかわってはいられない。ヌード写真なんて撮られてたまるか。
 そのまま鍵をあけて立ち去るつもりだったが、やはり、しかし、そうかんたんにはいかなかった。音夢は足もとからひとつのスプレー缶を取って、ぼくに突きつけたのである。
「動かないで! 痴漢撃退用のスプレーよ。正面からくらったらずいぶん辛い目にあうことになるわ」
 音夢の言葉は脅迫そのものだったけれど、ふしぎなことに、その缶を突きつけることによって追いつめられたのは彼女のほうであるように見えた。ひどく血走った目でぼくを見つめている。
「わかっているの? あなたがいましていることは犯罪よ」
 ぼくはむしろ諭すようにいった。
「いまなら、黙っていてあげるからもうよしなさい」
「黙れ!」
 音夢は地団太を踏んだ。
「その上から目線で偉そうなことをいう態度が気にくわないのよ! このスプレーが見えないの? 脅されているのはあんたのほうなのよ。すこしは怖がったらどうなの?」
「ごめんなさい。でも、あなたの要求には従えないわ。ねえ、これからはあなたに逆らったりしないから、解放してくれないかな? わたし、ひとを待たせているの」
「いやよ! 脱ぎなさい!」
 ぼくは小さく首をふった。
 どうする? いっそ、彼女のいうとおりにするか? 写真を撮られたところで、あとで正面から告発して取り返せばいいだけのことなのだし。
 それにしても、全く、ときに女の子は扱いづらい。ひょっとしたら、あの殺人鬼もおなじようなことを思っているのだろうか?
 その、刹那――
 ぼくの脳裏に雷光のように閃くひとつの疑問があった。

 あの殺人鬼は、いつ、少女に変身したのだろう?

 まさか――
 いや、しかし――
 ぼくはその閃光のような思考を多方面から考慮した。
 そうだ。
 これなら筋が通る。
 なぜいままで気づかなかったんだろう。アズハルに誘導されていたせいか。
「ぼくは、大ばかだ」
 思わず、呟く。
 全くばかだ。いままでこの可能性に気づかなかったなんて。アズハルのせいにはできない。ぼくが間抜けだったのだ。もう少し早く気づいていたら犬吠ひとみも救えたかもしれなかったのに。殺人鬼の正体は、あの少女だ。
 そう、だとすると――
 晴香が危ない。
 こんなことをしている場合じゃない!
「わかったわ。仕方ない」
 ぼくはそういうと、ひとつ、またひとつと、シャツのボタンを外しはじめた。

                   ◆

 ぼくはシャツを脱いだ。
 白い下着があらわになる。
 それを目にしたとき、それまでヒステリックに興奮していた音夢の気が、一瞬、それた。
 ぼくはその瞬間をねらい、上着をなげた!
 それはみごと音夢の缶をもつ右腕に巻きついた。音夢があわてて払おうとする。そこに生じた隙に乗じて、ぼくは思い切り彼女の頬を殴りつけた。
 音夢はあっけなくその場にたおれた。女の子を殴りたくはなかったが、この際、そんなことを気にしている場合じゃない。晴香のいのちがかかっているんだ。
 ぼくはシャツを取り戻し、うえに羽織ると、ボタンをつけなおす手間ももどかしく、鍵をあけてそとへ飛び出した。
 そこにはぼくをここに連れ込んだ少女が見はっていたが、さっとそれを避けて走り出した。彼女は待て、と叫んで追いかけてこようとしたが、室内に音夢がたおれていることに気づくと、そちらに気をとられたようで、じっさいには追ってこなかった。
 ふたたびカフェテラスにたどり着く。
 晴香は――
 いない。
 はげしい焦慮に駆られながら、クラスメイトの子を見つけ、訊ねた。
「ね、晴香ちゃんをしらない? ここにいたはずなんだけれど?」
 彼女はかるく首を傾げた。
「晴香? さっき何だか女の子に連れられて校舎裏のほうに行ったみたいだよ」
 〈あいつ〉だ。
 〈あいつ〉が連れさったに違いない。
 ぼくは重いからだをひきずって、校舎裏へと急いだ。男のからだだったらもっと早く走れるのに、という思考が浮かぶが、いっても仕方ないことだ。この少女のからだがあるからこそ、この数日間、晴香を守ることもできたのだ。
 しかし、ここで間に合わなければそれもすべて水泡に帰す。
 ああ、神さま。
 ぼくは祈った。
 一生にたったいちどのお願いです。
 どうか――どうか、ぼくを間に合わせてください。ぼくにあの子のいのちを救わせてください。あの子はぼくの大切な子なんです。たったひとりの愛するひとなんです。
 はたしてその祈りが通じたのかどうか、それは、わからない。しかし、とにかく、ぼくは、おそらくはかろうじてではあるかもしれないが、間に合った。
 校舎裏にたどり着いたとき、そこに、あるひとりの少女とともに晴香が佇んでいたのである。彼女はぼくに向かい柔らかに微笑みかけた。
「あ、なんだ、薫ちゃん、そこにいたの?」
 刹那――
 晴香のかたわらに佇む少女の手に、なにか銀いろのものがひらめいた。
「晴香! その子から離れろ!」
 そう叫んだときには、もう晴香のからだは彼女の腕のなかにあった。晴香はなにが起こったのかわからないようすで、呆然としている。その首筋には、冷たく銀いろにひかる鋭いナイフが突きつけられていた。
 晴香を人質にとった少女は、冷ややかに微笑んだ。
「やはり――お前だったのか」
 低くわらう。
「わたしが持つ〈月のランプ〉に対応するもうひとつのランプの主人――。おそらくはそうだろうと思っていた。いつも、この少女と一緒にいるからな。しかし、どうやらわたしのほうが、一手、うえを行ったようだな」
 ぼくは、はげしい怒りをこめてその少女を睨みすえた。
 既に三人――いや、四人の犠牲者をその手にかけた連続殺人鬼を。

(第七章に続く)

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