『リバースディテクティヴ』第四章。


 第四章「プールサイド」

 翌日。
 さすがに二日も寝不足がつづくと、からだが辛い。ぼくはその日の前半をうとうとしながら過ごした。周囲は、転校したてで気疲れしているのだろうと見てくれたし、幸い、学業にかんしてぼくに不安はない。だから、特にそれで目を付けられたわけではないと思うけれど、春かを守るために入学したはずの身が、このありさまでは情けなかった。いつ殺人鬼がそのかくした牙をむき出しにして襲いかかってこないとも限らないのだ。
「ね、晴香ちゃん」
 放課後、学内のカフェテラスで、ぼくは晴香にせがんだ。
「もういちどあの話を聴かせてくれるかな? あの事件の話」
「いいけれど、何で?」
「だって、気になるの。晴香ちゃんが殺人事件に巻き込まれたなんて――」
「殺人事件じゃないよ。里美ちゃんは殺されずに済んだんだもの」
 晴香は平然といった。
 警察で何度も話しているからだろう、すらすらと要領よく話しはじめる。
「きのうもいったけれど、日は夏休みに入ったばかりの七月二七日。場所はT公園っていう小さな公園。もう日暮れ時だったな。わたし、ちょっと用があって、その公園のまえを通ったの。そうしたら、小さく、何かがぶつかりあうような音が聴こえてきたんだ」
 ミルクをたっぷりいれたアイスコーヒーを、それでも苦そうな顔をして飲みながら、晴香は続けた。
「で、何となく公園のなかに入っていったら、その奥の、トイレの死角になっていてそとからは見えにくいところで、男の人と女の子がもみ合っていたの。わたし、一瞬、ぼうっとしちゃったんだけれど、そのとき、里美ちゃんが助けを呼んで、って叫んだから、走って近くの男の人に助けを求めたの。そうして、その場所に戻ったら、犯人はもう逃げ出していて、のこっていたのは気絶した里美ちゃんだけだったってわけ。すぐに警察に連絡したから、警察は包囲網を敷いたけれど、でも、犯人はもうどこにもいなかったの。ふしぎだよね。顔も見られているし、そんなに遠くに逃げられるはずはずもないのに」
 〈月のランプ〉だ。
 犯人は〈月のランプ〉の力を使ってどこへともなく消え去ったに違いない。警察がどんなに監視していようと無駄だ。あのランプの神秘の力は、そんな現世の力を超越しているのだから。
「晴香ちゃんは警察で里美ちゃんと協力して似顔絵を描いたんだよね。そんなことして、平気なの? 犯人に怨まれたりして危ないんじゃないの?」
 ぼくが訊くと、晴香は一笑した。
「やだ、薫ちゃん。犯人がわたしのことを知っているはずないよ。それに、似顔絵もどれだけ似ているかわからない。わたしが犯人の顔を見たのは一瞬だったからね」
 そうじゃない。
 犯人の手もとには、何でも教えてくれる魔法のランプがあるんだ。
 余程、ぼくはそういってやりたかった。しかし、いえるはずもないし、いっても無駄なことだった。ぼくは唇をかみ締めて、続きを促した。
「それで? それでどうなったの?」
「うん、きのうもいったように、だからわたしは平気だけれど、いちど犯人に狙われた里美ちゃんは危ないよね。それで、ご両親と相談して、この学園に転校してくることになったみたい。ここなら、男の人は絶対に入って来れないから、完璧に安全だよ」
 そうじゃないんだ。
 犯人は、既にこの学園に潜入して、きみの命を狙っているんだよ。それも、だれにも疑われない少女のからだに変身して。だから、きみは安全じゃないんだ。いまも最悪の危険の真っ只中にいるんだよ。
 しかし、もちろん、それも告げるわけにはいかない。だから、そのかわりに考えた。
 晴香が犯人ともみあっているところを見ている以上、里美が犯人が化けた姿である可能性はゼロだ。となると、のこる容疑者は三人。しかし、その三人も、過去にごまかしようがない経歴をもっている。あるいはもしや、犯人はランプの力を使い、その三人のいずれかと入れ替わり、経歴まで引き継いでいるのだろうか? それもまた、女性の姿に変身することには違いない。いや、アズハルは四人の容疑者は全員が真実を語っているといっていた。
 となると――どうなる?
 そのとき、ぼくの脳裏に閃く考えがあった。まさか――いやしかし、もしかしたら――
 そうだ。きのうの会話を思い出してみろ。あの四人のなかで、里美だけはじぶんで過去を話していないじゃないか。すべてを語ったのは晴香だ。里美だけはうそを吐かずにじぶんの過去を語らずに済ませたことになる。ということは、里美にだけは殺人鬼が入れ替わっている可能性があるということではないだろうか。あるいは、本物の里美は既に殺されていて、どこかに埋められているのかもしれない――!
 犯人が何のためにそんなことをしたのかはわからない。しかし、ほかに考えられる可能性はないように思えた。いやしかし、そんなことが――
 ぼくは深く嘆息した。
 犯人の顔がわかっているのに、その人物を特定できないなんて、こんな不条理な事件があるだろうか。しかし、仕方ない。元々不条理な力がかかわる事件なのだし、ぼく自身、その力を使ってこの学園に潜入しているのだ。そこに文句をつけても仕方ない。
 どんな手を使ってでも、殺人鬼を見つけ出すしかないのだ。
「よ、おふたりさん」
 内心、不安と混乱を抱えながらも、晴香とふたり談笑しているぼくのまえにあらわれたのは、またしても水上由佳だった。その手にはアイスカフェオレが入ったトレイがある。彼女は、許可も得ずにぼくたちのとなりに座った。スカートなのに、大股開きだ。
「水上さん、そんな座り方だと、その、下着が見えますよ」
 ぼくが注意すると、由佳はいつものように少年の笑い声を立てた。
「だれが見てるっていうんだよ。この学園には男はいないんだぜ? ま、男にだって見せてやったってかまわないけどな。あたしの下着なんてありがたがる男はいないだろ」
 そんなことありませんよ、とぼくはいっていやりたかった。あなたは男という生き物を理解していません。それに、ここにもひとり、年頃の男の子がいるんですけど。
「で、おふたりさん、こんなところで何をたそがれているんだ? お暇なようなら、プールでも行かないか?」
「プール? 水泳部が使っているんじゃないんですか?」
 ぼくがびっくりして訊くと、生徒会長は愉快そうに微笑んだ。
 ほんと、ひとが驚くと嬉しそうにするひとだ。天性のいたずらっ子というべきか。
「豪勢なことにこの学校には二面プールがあるんだ。水泳部が使う競泳用プールと、一般生徒に開放されている遊戯用プール。これから行こうと思っているのは遊戯用プールのほう。ま、競泳用に比べるとちょっと小さいけどな。それでもけっこう楽しめるぜ」
「はあ」
「何だよ、生返事だな」
「プールへ行こうって気分じゃありませんから」
「何だよ? 転校したてで疲れているのかい? だったらなおさら、からだを動かして気疲れを吹き飛ばしたほうがいいぜ。泳げないわけじゃないんだろ? それにさあ、実はあたしもあんたのその悩殺ダイナマイトボディを見てみたいんだよ」
「悩殺ダイナマイトボディ……」
 ぼくは何だか恥ずかしかった。男だった頃には感じたことがない気恥ずかしさだ。スタイルのいい女性は、皆、この種の恥ずかしさを感じているのだろうか。それとも、ぼくが元々男だから感じるのか。とにかく、いやらしい視線でじろじろ胸を見ないでほしい。ぼくだって、好きでこんな胸をしているわけじゃないんだから。
「行こうよ、薫ちゃん」
 と、晴香。
「泳ぐの、楽しいよ。わたし、こう見えて、けっこう水泳得意。薫ちゃんが泳ぐの苦手なら、教えてあげるよ」
「ま、色気のないスクール水着しか着れないのはつまらないけどな。薫には布地の少ないビキニを着せてやりたいぜ。ぐへへ」
 由佳はわざとらしくよだれを拭う動作をしてみせた。
 きのうまで春日と呼んでいたのに、もう薫になっている。
 でもまあ、いいか。いくら犯人が凶悪でも、寸鉄ひとつ帯びるわけにいかないプールの中で晴香に襲いかかるはずがない。プールにいるうちは安全なのだ。
 それに、ゆらゆら水のうえで揺れているうちに良い考えが浮かぶかもしれない。
 ぼくはうなずいた。

                   ◆

 ぼくは痴漢でも覗き魔でもないし、そういうことをしたいと思ったこともない。しかし、ここ数日、ぼくが着替えやお風呂のたびにやっていることは、それ以外の何物でもないのではないか、と思えてならない。それも、こんなに堂々とした痴漢はありえないというくらい堂々と、正面から覗いているのである。重罪ではないだろうか。
 こんなことをいいだすのは、いままさに屋内プールの更衣室で、半裸の、あるいは全裸の少女たちに囲まれて着替えをしている最中だからだ。なるべくその姿を目にいれないようにはしているのだが、どうしても目に入ってしまう。そのたびに、ぼくのかよわい心臓はどくんどくんと激しく脈打つのだった。
 正直にいおう。ぼくだって女の子の裸に興味がないわけじゃない。思春期真っ盛りの男の子なのだ。当然だろう? でも、こんな卑怯な手段で覗き見ることは正しくないと思うし、ぼくは性犯罪者にはなりたくない。しかし、そういう我ながら高邁な考え方にもかかわらず、じっさいには、ぼくは大量の裸身を目にしてしまっていた。ひと口に女の子といっても、いろんな体型の子がいるものだなあ、と感慨を抱くくらい、たくさん。
 何だか自己嫌悪に陥りそうだ。
「何もたもたしているんだよ、薫」
 じぶんは既に着替えてしまった由佳が、ぼくを急かした。
「さっさと着替えて行こうぜ。水着の女の子たちがあたしたちを待っているぜ」
「もう、どうしてそんなに意気揚々としているんですか」
「そりゃ、あたしは女の子大好きだからね。だから、生徒会長なんてやっているようなもんさ。愛する少女たちに奉仕することこそわが喜び。あ、奉仕っていってもいやらしい意味じゃないからな。勘違いするなよ」
「しません!」
 本当に、話していて退屈しないひとだ。
 しかし、たしかにこれ以上、彼女を待たせるのはまずい。さっさと着替えてしまおう。
 そう思ったとき、ぼくはふとひとりの少女に視線を留めていた。いままさに服を脱ぎ、下着姿になったところだ。とてもスレンダーなからだつきである。
 ぼくは思わずその名を呟いていた。
「蒲原さん」
 それは、あの蒲原芳子に間違いなかったのである。

                   ◆

 真夏の暑いさかりに、屋内プールの水はひんやりと冷たかった。
 ぼくは決して運動神経がいいほうではないが、足をつかずに二五メートルプールを往復することくらいはできる。時々クロールや平泳ぎで泳いだりしながら、プールの対岸のあたりをすいすいと泳ぐ蒲原芳子を観察していた。きつい顔立ちの子だと思っていたが、眼鏡を外し、ひたすらまえを見つめて泳ぐ姿はうつくしかった。思わずぼうっと見惚れそうになる。もし男の姿のままだったら、変質者扱いされていたかもしれない。
「蒲原が気になるのか?」
 由佳が声をかけてくる。
「何なら、こっちに呼び寄せるか? きっと迷惑がるだろうけど」
「いえ」
 ぼくは首をふった。呼びつけたところで、どうなるものでもない。仮に彼女が犯人だとしても、そう簡単にぼろを出したりしないだろう。何か決定的な証拠を見つける必要があるのだ。あるいは、少なくとも彼女たちが晴香に近づけないようにしなければならない。
「それにしても」
 由佳はじろじろとぼくの胸部を見た。
「噂には聴いていたけれど、大きいなあ。あなた、ほんとに着やせするタイプなんだな」
「うう。わたしの胸、うわさになっているんですか」
 ぼくはがっくりとこうべを垂れた。
 ぼくはいままで大きな胸にコンプレックスを感じる女性の気もちがわからなかった。小さいより、大きいほうがいいじゃないかと素朴に思っていたのだ。しかし、じっさいにじぶんがそういう身になってみると、その気もちがわかる気がしてくる。女性しかいないこの学園にいてすらそうなのだ。男性の視線に晒されたらどんな気がするものか。
「なあ、その胸、ちょっともませてくれない?」
「いやです!」
 ぼくは両手でじぶんの胸を守りながらそっぽを向いた。由佳がわざとらしく舌打ちしてみせる。この衆人環視のなかで、ほんとにもむつもりだったのか、このひとは。
「あれ? あいつ――」
 由佳が何かに気づいたらしく、ちょっと離れたところを見やった。ぼくも釣られてそっちを見る。彼女が何を見ているのか、すぐにわかった。ひとりの小柄な少女が泳いだりはしゃいだりしているのである。その顔には見覚えがあった。
 望だ。
「おーい、ちびっ子。こっち来いよ!」
 由佳が手をふって合図すると、望はそれに気づいたようすで、ぎょっとした顔になった。しかし、ひとつ肩をすくめると、何かぶつぶつ呟いて、こっちに泳いでくる。きっと、「やれやれ、仕方ありませんわね」などと呟いているに違いない。しかし、逢うといつも喧嘩しているくせに、姿を見かけるとわざわざ呼びつけるんだな。そして、望も呼び出されると来るんだな。このふたり、実は仲良しなんじゃないか。
「何ですの、ひとがせっかくくつろいでいたところを呼び出すなんて」
 あいかわらずツンと澄ました態度でそういう。
 由佳は何気なく手をのばすと、その頬っぺたを両横にひっぱった。望があばれる。
「はにふるんでふの、ひたいでふわ」
「せっかく呼んでやったんだから、素直に喜べ、ちびっ子」
「てほはなひなさい」
「はいはい」
 由佳は手を離した。望は警戒心もあらわに水中で一歩離れた。
「全く、やることなすこと、生徒会長とは思えませんわ! まるで子どもですわ!」
「どっちが子どもだよ。いい歳して可哀相な体型しているなあ。小学生かと思った」
「な! 余計なお世話ですわ!」
「泣くな泣くな、そういう体型が好きな男もいるらしいぞ」
「いやらしいこといわないでください! 何で呼んだんですの?」
「あんたをからかって遊ぶために」
「さようなら! わたくしはあっちへ行きますわ!」
「まあまあ、そういうな、ちこう寄れ。いやらしいことしちゃる」
「変態! 変質者! 近寄らないでください!」
「わははは、あんたをいじくっているとほんとに楽しいなあ」
「わたくしはちっとも楽しくありませんわ!」
 でも、そういう望もちょっと楽しそうだった。やっぱりこのふたり、仲良しなんだ。
「まあまあ、望ちゃんも由佳さんもそれくらいにして、いっしょに遊びましょう」
 ぼくが微笑みかけると、望はなぜか胡散臭そうな目つきでぼくの水着姿を凝視した。
「あなた、いったい何を食べたらそんなスタイルになるんですの?」
「え? それは、その――」
「いいですわ。わたくしはひとつ年下ですから、そのぶん、成長の可能性もあるということです」
「ない、ない」
 生徒会長は冷酷非情に首を振った。何もいい切らなくてもいいのに。ぼくが何かフォローの言葉を口にしようとした、そのときだった。プールの対岸の辺りでだれかが上げた金切り声が聴こえてきた。見ると、ひとりの少女が数人の集団と向かい合っている。
 蒲原芳子だ。
「お、何だ、何だ」
 その声に気づいた由佳がそちらを見、忌々しそうに舌打ちした。
音夢の奴とその取り巻きじゃねえか」
音夢?」
「この学園の理事長の孫娘さ。これがいけ好かない奴でさ。あたしは可愛い女の子は皆好きだけれど、あいつだけは例外だ。行こう。何か面倒ごとに決まっている」
 由佳が水から上がったので、ぼくたちもあわててそれに続いた。小走りで現場にたどり着く。プールサイドを走ってはいけないけれど、いまはしかたない。
「春日さん、それに会長」
 芳子がぼくたちを見つけてちょっとびっくりした顔になった。そういう表情になると、もうその顔立ちはそれほどきつくは見えない。歳相応に見える。よく見ると、その頬はかすかに赤く腫れていた。何だろう? まさか――
「水上さん! 見てください。このひとが突然暴力を振るったんです」
 そういって由佳のまえに飛び出してきたのは、芳子ではなく、集団の側の少女だった。この子が音夢だろうか。なるほど、なかなか可愛い。大半の男性でも、女性でも、十分に魅力的だと思うだろう。しかし、望あたりとは違う意味で、年齢に比べて妙に幼い印象を受ける子だ。それから、言葉遣いや物腰のひとつひとつにねっとりと甘えるような、媚びるような気配がただよっているのも気になる。由佳がいけ好かないというのもわからないでもない。いや、それは先入観に毒されている見方かもしれない。気を付けなければ。
「どうしたんだよ、音夢
 由佳が気が進まなさそうに問い質すと、音夢はそれに応えてじぶんの頬を示した。そこにはてのひらのかたちに赤い痕がのこっている。あきらかにひっぱたかれた痕だ。
「あとがのこっているでしょう? このひとが突然、わたしに襲いかかってきて、ひっぱたいたんです。何て凶暴な子なんでしょう。この桜花に全くふさわしくありません。お爺さまに頼んで、退学にしてやります!」
「ま、落ち着けよ、音夢。あたしには蒲原の頬にも叩かれた痕がのこっているように見えるけどな」
「蒲原? この女と知り合いなんですか?」
「ちょっとな。ま、とにかく、事情を話してくれよ。どっちが先に手を出したんだ?」
「この女です!」
 音夢は芳子に向かって指を突きつけた。芳子はふてくされたような表情で、抗議するでもなく、その場に立ちつくしている。もう先ほどの歳相応の表情じゃなくなっていた。
「そうなのか、蒲原?」
「違います」
 芳子は聴き取れるかどうか、という小声でささやいた。
「このひとが先に手を出しました。わたしはそれに反撃しただけです」
「何て厚かましい女! わたしがうそを吐いているとでもいうつもりなの?」
 音夢は芳子をきつく睨みすえた。
 取り巻きの少女たちも、そうだ、そうだ、と彼女を支持する。芳子はそれ以上何も主張することなく、沈黙してしまった。さて――どうするべきだろう?
「もうすこし詳しい事情を知りたいところだな。だれか見ていた奴はいないのか?」
 由佳は少し声を高めて周辺に声をかけてみたが、しんとした静寂が返って来るだけだった。そう、先ほどまで喧騒に満ちていたプールはすっかり静まりかえっていたのだ。だれもが声をひそめてこちらを注視している。
 由佳は小さくひとつ嘆息した。
「そうか。そうだな。だれも音夢に逆らいたがる奴はいないか。じゃ、仕方ない。この件は喧嘩両成敗だな。どちらにも非があるんだ。お互いさまってことで終わらせることにしよう」
「どうしてです! 悪いのはこの女のほうじゃないですか!」
「そうはいっても音夢、お前だってひっぱたいたんだろう? 少なくとも、一方的な被害者ってわけじゃないわけだ。だったら、喧嘩両成敗で納得しておけ」
「納得いきません! この女を停学、いいえ退学にしてもらわなくては!」
 芳子は無言のまま、きついまなざしで音夢を睨み返している。
 由佳は腰に手をあてて考え込むようすだった。どうこの事態を収束するか考えているのだろう。じつはぼくにひとついいアイディアがあった。これでどうだろう?
「じゃ、こうしましょう」
 ぼくは音夢と芳子のあいだに進み出た。
「蒲原さんと音夢さんがわたしの頬っぺたを叩いて、おあいこということで終わらせるんです。もうどっちが先に叩いたなんてことをいっても仕方ありませんから。ね?」
 ふたりはぎょっとしたようすでぼくを見た。あれ、何かおかしいこといったかな? いいアイディアだと思ったんだけれど。
「何、あなた?」
 いうぶん怯えたようにすら見える音夢に向かい、ぼくは柔らかく微笑みかけた。
「あ、初めまして、音夢さん。転校生の春日薫です。どうでしょう? わたしの頬っぺたひっぱたいて終わりにしません? ね、わたしなら思い切りひっぱたかれても気にしませんから。そうしましょうよ」
「ど、どうしてあなたを叩かないといけないの! そんな理由がないでしょう!」
「ええ。でも、このままだと音夢さんも気が済まないでしょうから、ぜひぱちんってわたしを叩いてください。いいアイディアだと思うんですけど、だめですか?」
「し、知らないわ!」
 音夢は何か奇妙な動物でも見るようにぼくを凝視した。そして、ぷいとそっぽを向くと、なぜかそのままうしろを向いて去っていってしまった。周囲の取り巻きたちもあわててあとを追いかける。何か白々とした沈黙が辺りを支配する。
 さいしょに噴き出したのは、由佳だった。続いて、望も笑い出す。それどころか、さっきまで仏頂面だった芳子まで笑いをこらえるようだった。ぼくはなぜ笑われているのかわからず、困惑した。
「え? わたし、何かおかしいこといいました?」
「いった、いった。あんた、すごいなあ。あのいちどいいだしたら引かない音夢がやりこめられるところなんて、初めて見た。ほんとにひっぱたくっていいだしたらどうするつもりだったんだ?」
「ひっぱたいてもらったと思いますけど?」
「で、その綺麗な顔にてのひらの形の痕をのこすって? よせよ、勿体ない。あんた、ふしぎな奴だなあ。普通、そんなに綺麗な顔していたらもっと大切にするぜ」
「はあ」
 あいにく、こう見えてぼくは男の子なのだ。少々顔に傷をつくるくらいのことは気にしない。まして、この顔は一時のものにすぎないのだ。そう気にしても仕方ないだろう。
 そのとき、ひとりの少女がすいすい泳いでこちらにやって来た。晴香だ。彼女はプールサイドに上がると、ぼくに向かいにっこりと微笑みかけた。
「向こうから見ていたよ〜。あの音夢ちゃんをいいくるめるなんて、薫ちゃん、すごい」
「だよな、全くこの子は、只者じゃないぜ」
 由佳はぽんとぼくの肩を叩いた。音夢はそれほどすごい子なのだろうか? まずいことをしてしまったかもしれない、といまさら後悔が押し寄せてくるが、仕方ない。
「さて」
 と、由佳はまだ笑いをこらえているようすの芳子のほうを向いた。
「ほんとの事情を話してもらおうか。先に手を出したのは音夢のほうなんだろ?」

                   ◆

 ぼくたちはプールを出、ふたたびカフェテラスに戻ってテーブルを囲んだ。時計を見ると、とうに午後五時を過ぎていたが、真夏のことで、たそがれはまだ地平線の向こうで待機しているままだった。
「あのひとの方からぶつかってきたんです」
 と、安い珈琲を啜りながら芳子はいった。
「泳ぎ疲れてプールサイドに座っていたら、どんって、うしろから突き飛ばされたんです。驚いて、見上げると、あのひとがくすくす笑っていました。わたし、怒って、プールサイドに上がって、その、少々きついことをいったんです。そうしたら、あのひと、顔を真っ赤にしてわたしの頬っぺたをひっぱたきました。だから、わたしもやり返したんです」「やっぱりな」
 白磁ティーカップに入った紅茶を意味もなくかき回しながら由佳がため息を吐く。
「そういう女なんだよ。ひとをいじめたりからかったりして遊ぶくせに反撃されるのは我慢ならないっていうどうしようもないタイプ。どれくらい甘やかされて育つとああいう性格ができあがるのかな。散々あちこちでトラブル起こしているから、この学園でもあいつのこと嫌っている奴は多いんだぜ。でも、お爺さまの威光とやらを振りまわしてやがるから、正面から逆らう奴はいない。ま、あたしを除けばな」
 由佳はたいして自慢そうでもなくいうと、ぼくの方を見て例のチェシャ猫めいた笑顔を浮かべた。
「いままではそうだったけれど、きょうからはそこの薫さんも例外だ。薫、あんた、あしたのいまごろまでには校内の有名人になっているぜ。あの音夢をやり込めたんだからな」
「やり込めたつもりなんてありませんけれど――」
「その奥ゆかしいところが素敵、なんて子もあらわれるだろうな。うらやましい話だ」
「あの」
 芳子がその場に立ち上がった。
「今回はたしかに助かりました。でも、もうあんなお節介やめてほしいんです。特にじぶんをはたけなんて二度といわないでください。その――せっかく綺麗なお顔なんですから、ちょっとでも傷つけたりすることはないと思います」
 芳子の頬は、音夢に叩かれたせいばかりじゃなく、かすかに赤らんでいるように見えた。
 ぼくは何度か瞬きした。不器用な表現だったが、彼女の好意は伝わってきた。この子は本気でぼくのことを心配してくれているのだ。
「ありがとう。でも、芳子さんも、理由はどうあれ、もう喧嘩したりしちゃだめですよ。芳子さんだって、年頃の女の子なんですから、顔に傷をつけたりしたら、洒落にならなくなりますよ」
「わたしなんて、どうなってもいいんです。不細工ですから」
 芳子はそういって椅子に座りなおした。
 ぼくはちょっと胸を衝かれる想いだった。
 ああ、この子は、じぶんのことを綺麗じゃないと思っているんだ。たしかに、すごく目立つというほどの容貌ではないかもしれないけれど、十分に若くて、可愛いのに。
「あんた、べつに不細工ってほどでもないよ」
 由佳が紅茶を啜りながらいう。
「べつにお世辞じゃないぜ? ほんとにそう思うんだ。正直、何か印象は硬いけど、悪くないもの持っている。磨けばけっこう光るんじゃないかな? 少なくともあたしなんかよりは可能性あると思うぜ。あたしは態度ががさつだからどうしようもないけどさ」
「そんなことありませんよ、水上さんも女の子らしくて可愛いです」
「ありがと。愛しているよ、薫」
 由佳はテーブルのうえに紅茶を置いた。
「とにかく、今後、音夢の奴にいやがらせとかされるかもしれないけれど、なるべく相手にしないようにな。あいつ、ちょっとでも弱みを見せると際限なくつけこんでくる奴だから。どうしても耐えがたいようだったらあたしのところに来てくれれば何とかするさ」
「平気です」
 由佳は目を細めた。
「いままでにも、そういう軋轢はありましたけれど、ぜんぶ、耐えてきましたから。わたし、だめなんですね。どこへ行っても、必ず、何かしらいがみあいを起こしてしまうんです。そういう性格なんです。わたし、ほんと、勉強しかできない子なんですよ。その、人付き合いもうまくないし、年頃の女の子らしいところもまるでないし――」
「そんなことないよ」
 それまで黙っていた晴香が、唐突に口をはさんだ。
「女の子は皆、ただ女の子であるだけで十分女の子らしいんだよ。そんなこと、あたりまえだよ。わたしは芳子ちゃんも十分女の子らしいと思うよ」
 芳子はびっくりしたように目を円くして、晴香を見た。
 由佳が笑い出す。
「そりゃいい、その通りだ。女の子は皆女の子らしい、それでいいじゃねえか。その理屈で行けば、こんなあたしだって女の子には違いなくなるわけだ。な、後輩」
 由佳は芳子の背中を何度も叩いた。
「は、はい」
 芳子は、かたくなな花がゆっくりとほころぶようにして、小さく微笑んだ。何か染みいるような笑い。
 ぼくはあたたかいものが胸を満たすのを感じながら、この子は殺人鬼なんかじゃない、とそう思った。探偵としてはあまりに甘すぎる考え方かもしれないけれど、この子がふたりもひとを殺しているとは、どうしても思えなかった。しかも、成人男性の変身した姿だとはなおさら思えない。
 やはり、里美が怪しいのではないか。
 ぼくはそう考えた。殺人鬼が本物の里美といれかわっているという可能性は、いよいよ本当らしく思えてきていた。本物の里美は既に被害に遭って殺されているのではないか。
 ところが――
 その夜、アズハルを呼び出して訊ねると、かれは笑いつつこういったのだ。
「なるほど、おもしろいことを考え出したもんだ」
 かれは例の皮肉な微笑を浮かべて告げた。
「里美はじぶんが口に出したわけじゃないから、うそをついていなくても真実を語っているとは限らない、か。なるほど、その考え方はありだな。大いにありだ。しかし、お前は間違えている。いいか、里美は殺人鬼といれかわったりしていない。あの里美は、紛れもなく晴香が夏休みに目撃した里美だよ」
 こうして、ぼくの推理は、ふたたびゼロに戻ったのだった。

(第五章に続く)

 もしよければ、拍手や感想などいただけると助かります。