『リバースディテクティヴ』第二章。


 第二章「花の少女たち」

「ありがとうございます」
 そう告げて、ぼくは財布から札を三枚取り出し、タクシーの運転手に渡した。それまで黙って運転していた運転手はほとほと感心したというようにぼくを上から下まで眺めた。
「嬢ちゃん、綺麗な子だねえ」
 ぼくは何と答えていいのかわからず、ただ一礼してタクシーを降りた。運転手はなおも未練がのこっているかのようにぼくの顔をじろじろと眺めたが、そのうち走り去った。ぼくはただひとり、その場にのこされた。
 いや――正確にはひとりではない。周囲には一様に制服を着込んだ花のような少女たちが歩いている。彼女たちはタクシーから降り立ったぼくを見つけると、何かめずらしいものであるかのようにぼくに視線を留めた。それらの顔に、あからさまな賛嘆と好奇の表情が浮かぶ。それは、制服を着ている生徒ばかりのなか、ぼくひとりが私服だからという理由だけではないだろう。皆、ぼくの繊妍たる美貌(!)に見惚れているのだ。ぼく自身、うっかり鏡のなかのじぶんに見惚れそうになっていたのだから、無理はない。ぼくは何となく照れくさくて、周囲に対しかるく一礼すると、その場を離れようと歩き出しかけた。
 ぼくのまえには、ひとつの巨大で立派な門が開け放たれている。その門柱には、墨痕淋漓と記されていた。
 〈私立桜花学園〉と。
 桜花は日本でも一、二を争う有名女子校だ。そして、授業や施設のレベルの高さもさることながら、その徹底した男子禁制ぶりでも知られている。女子校だから、男性が入れないことはある意味あたりまえだが、教師や職員にいたるまで一切男性がいないというのはやはり異数のことだろう。この学園の内側に通う千数百名の人間は、そのことごとくが女性なのだ。まさに、文字通りの女の園である。また、そこが嫁入り前の娘に「悪い虫」が付くことを心配する名家の親たちには好評なのだそうだ。ただ、通っている生徒たちは、やはり男子と交流を持ちたくなるのではないか、などとぼくは思ってしまう。べつだん、女性だけの環境が不自然だとか、不健全だとは思わないが、ここに通うのはふつうの年頃の少女たちなのだ。たまには男子と逢いたいと思う子がいてもふしぎではない。もちろん、ぼくに女ごころなどわかるはずもないのだけれど。
 ついきのうまで、ぼくは男だったのだから。
 ぼくは思わず門をくぐることを躊躇してしまった。じぶんの姿が年ごろの少女に変わっていることは理性ではわかっていたのだが、それでも女の子の集団のなかにひとり男が混ざっているというやましさは消しようがなかった。しかも、何だか注目を集めている気がしてならない。しかしまあ、ここで躊躇していてもどうしようもない。ぼくが門をくぐろうと一歩足を踏み出しかけたとき。
「おはよう!」
 うしろから、ぽんと肩に手を置くひとがいた。ぼくは驚いて、反射的に振りかえった。すると、頬に一本の指が突き刺さる。
「は?」
 ぼくが唖然としていると、その指のもち主は歓声を上げた。
「わあ、ひっかかった、ひっかかった。いや、これ、うちの学校じゃもうひっかかってくれるひと、いないんだよね。あんた、転校生でしょ? いやあ、ひっかかってくれて嬉しい」
 ぼくと同年輩の少女だった。ようやく、子どもじみた悪戯にひっかかったのだと気づいて、ぼくは彼女を観察することにした。
 身長は男だったときのぼくと同じくらいだけれど、体重はその頃のぼくより軽そうだ。すらりとした杉の木のような印象を受ける少女である。とりたてて可愛らしいとかうつくしいというほどの容色ではなく、いってしまえば十人前だが、きらきらと眩めくその瞳はとても印象的だった。あからさまな好意を込めて、こちらを正面から真っ直ぐに見つめてくるのである。少年時代にはいたが、歳をとるにつれまわりに見つけられなくなっていったタイプの女の子、といえば、わかってもらえるだろうか。
「えっと」
 彼女は指を下げると、乱暴な仕草で頭をかいた。
「おもしろくなかった? これやると、皆、白けた顔するんだよね」
 ぼくはようやく完全にじぶんを取り戻して、訊ねた。
「ど、どなたですか?」
「あ、あたし? あたしは水上由佳。見ての通り、この桜花の生徒さ。あんた、ひとり私服だけれど、転入生? その服、いいね。歳はいくつ? 二学期から入ってくる子は少なくないから、心配しなくていいよ。それにしても、あんた、可愛いなあ。まわりの子が皆あんたを見ているよ。学園のアイドルってやつ? あ、そうだ。あんた、名前は?」
 立て板に水というか、よくしゃべる子だ。ぼくはちょっと圧倒されながらも、この少女に好感を抱いていた。何だ、名門女子校といっても、ふつうの子も通っているんじゃないか。
「春日薫。十六歳です。この学園の二年に転入してきました。よろしくお願いします」
 ぼくがぺこりと頭を下げると、由佳は満面の笑顔になって、ふたたびぼくの肩にぽんと手を置いた。
「いやあ、可愛い子は声も可愛いね。この学校にもずいぶん可愛い子がいるけれど、あんたはそのなかでも飛びきりさ。芸能界からスカウトされた経験とかあるんじゃないの? だって、あんた、そこらのアイドルよりずっと可愛いもん」
「いえ、ありません」
 ぼくはじぶんたちがずいぶん周囲の注目を集めてしまっていることに気づいた。考えてみれば、見しらぬ私服の女の子が校門のまえで生徒と話し込んでいたら、それは気になるだろう。男の姿のまま話し込むよりもましではあるだろうけれど。
「ま、とにかくよろしくね。あたしと知り合いになっておくと、けっこう学園生活すごしやするなるかもしれないぜ」
 ずいぶんフランクな喋り方をする子だ、と思いながら、ぼくは差しだされた手を握ろうとした。しかし、そのとき、背後に大きなどよめきが巻き起こった。見ると、一台の黒塗りの高級車が、巨大な車体を見せびらかすようにして、校門まえに停まったのだった。ぼくは思わず、そのドアを見つめた。だれが降りてくるんだろう? ところが、先に下りたのは、運転手と思しい、黒い帽子を被った男性だった。かれはうやうやしく後部座席の扉をあけた。そこから、遂にひとりの少女が降り立ってきた。
 うわ。可愛い子だ。
 ぼくはいまは自分自身可憐な美少女の姿に変わっていることも忘れ去って、その少女を見つめた。白い上品なブラウスをまとった、小柄な、ほとんど中学一、二年生くらいにしか見えない子だった。長い髪を、ツインテールというのだろうか、二本のおさげにしてまとめている。秀麗な顔立ちだが、その表情は何かに耐えているようにきつくひきしまっていて、およそ朗らかさを感じさせるものはない。もうすこし笑顔を見せればもっと可愛いのに、と思ったが、それは余計なお世話というものだろう。彼女は運転手にご苦労、とひと言いって、校門を見つめた。その視線が、ぼくのほうに据えられる。いや、どう見ても、ぼくを見つめているとしか思えない。なぜ? ぼく、何かこの子に睨まれるようなことをしたか?
 彼女は、とことことこちらに歩いてくると、ぼくのまえで停まり、そのささやかな胸を反らした。
「邪魔です。どきなさい」
「――は?」
 由佳がすっと目を細めた。野生の豹か何かのような鋭い表情だ。
「おいおい、お嬢ちゃん、あたしたちはべつに校門のまえをふさいでいるわけじゃないぜ。こんなに広い門前じゃねえか。一歩横にずれればいくらでも進めるってのに、何であたしたちがわざわざどかなきゃならないんだよ」
「わたくしが邪魔だと申しているからです」
「あん?」
 由佳はひとつため息を吐いてそれから肩をすくめた。
「やれやれ。たまにいるんだよね。こういう勘違い人種。あんたも転入生だろ? 初日からそんな傲慢な態度じゃ嫌われるぜ。どう見てもあたしの方が先輩なんだから、少しは敬意を表したらどうなんだ。おちびさん」
「ちび、ですって」
 少女はその小さな顔を怒りに紅く火照らせ、その場で子どものように地団太を踏んだ。
「いうに事欠いてひとの身体的特徴をあげつらうとは、何て狭量な方! どなたか存じませんけれど、きっと後悔しますわよ。ええ、後悔させてみせます」
「やれるもんならやってみろよ、ちびっ子」
 由佳は挑発的に舌を出してみせた。少女はくやしそうにまた地団太を踏む。ふたりとも、まるで子どもみたいだ。日本有数の名門女子校の生徒って、こんなものなのだろうか?
「まあまあ、まあまあ」
 ぼくはふたりの間に割って入って、いまにも始まりそうな取っ組み合いを止めた。
「いいじゃないですか、由佳さん。どきましょう、ね」
 そして、ぼくは道を譲った。元々、門前で立ち話をしていたぼくたちにも非はあるのだし、ここは譲るべきだろうと思ったのだ。由佳は不服そうだったが、ぼくがどいたので、仕方なく、といったようすでそれに続いた。
「そこのあなた」
 少女はひとつ鼻を鳴らすと、ぼくに向かって話しかけてきた。
「なかなか殊勝な態度です。あなたが望むなら、お友達になってあげてもいいんですよ」
「は?」
 ぼくは一瞬、話の展開に付いていけなくなった。なぜ、ここでそんな言葉が出てくる? しかし、少女のかすかに紅く染まった首筋と、ふるえる指先を見て、この子も緊張しているのだとわかった。何だ、ぼくと友達になりたいだけなのか。
「はい」
 ぼくは頷いた。我ながら鈴の音のような美声。
「お友達になってもらえますか?」
 ぼくがそういうと、少女は少しほっとしたように見えた。しかし、由佳が横でくすりと笑うと、ふたたび顔と首筋を真っ赤にしてそのままずんずんと立ち去っていってしまった。ぼくの対応がまずかったのだろうか? むずかしいお年ごろなのかもしれない。
「さ、行こうか」
 由佳が気楽そうにいった。
「教員室へ案内してやるよ。転入の手続き済ませないといけないだろ?」

                   ◆

 先述したとおり、この私立桜花学園は全寮制だ。生徒総数は千数百名に及ぶが、その全員が学生寮で暮らしている。フォークが転がっても可笑しい年ごろの少女たちがそれだけの数集められているのだから、さぞかしましい空間だろう。覚悟しておかなくちゃ。
 由佳に案内された教員室で、ぼくは入学の手続きを済ませた。ひょっとしたら何か不備があるんじゃ、と背中に冷や汗を垂らしたが、何の問題もなく済んでしまった。アズハルの力はどこまでも完璧らしい。そして、ぼくはいま担任教師とふたり廊下を歩き、じぶんのクラスへ向かっている。
 ぼくの担任は岩崎沙耶という若い教師で、なかなか綺麗なひとだった。ふんわりと柔らかそうな黒髪を腰までストレートにのばしている。きっと手入れが大変だろう。また、その物腰は穏やかで優雅、きっと生徒にも人気があるに違いないと思わせるものがあった。
「先生」
 ぼくはなるべく女の子らしく見えるよう物腰に気を遣いながら訊ねた。
「わたしのほかにも転入生はいるんですか?」
「ええ。そうね、たしか、あなたを除いて四人ほど、二学期から入学してくる生徒がいるわ」
 なぜそんなことを訊くのか、と思ったのだろう、沙耶の声音はいぶかしげだった。ぼくはそれにかまわず、ひとり頷いた。
 四人か。
 そうすると、その四人のなかに犯人がいる可能性が高いわけだ。もちろん、新たに赴任してきた教師や、職員も計算に入れる必要はあるが、とりあえず問題にするべきはその四人ということになるだろう。ぼくは校門前で出逢った少女のことを思い出した。おそらく、彼女も転入生だろう。となると、あの少女も容疑者ということになる。名家の令嬢というふうに見えたし、とても殺人鬼らしくは思われなかったが、そういう先入観をもって接することは良くないかもしれない。ぼくがいまプレイしているのは、ひとつのミスが即バッドエンドに繋がりかねない死のゲームなんだから。
「ここよ」
 沙耶は2年A組と書かれた教室のまえで止まった。そうすると、ぼくはこのクラスに入ることになるらしい。はたして、元々男のぼくが女子生徒のなかに混じって暮らしていけるものだろうか――。思わず全身に緊張が走る。
 教室のなかからは、女の子たちの甲高いざわめきがきこえてくる。沙耶は、ごく気軽そうに扉を開き、なかに入っていった。息を呑みながらもあとに続く。そしてぼくは壇上に立ち、室内を見まわした。あたりまえだけれど、女子生徒しかいない。その合計六十ほどの目が、すべてぼくのほうを向いていた。一瞬、室内がしんと静まりかえった。しかし、それは本当に一瞬のことだった。次の瞬間、最前に倍する騒音が巻き起こったのである。
「何、この子? 可愛い!」
「先生、だれ、だれ、その子?」
「あ、わかった。転入生でしょ。ね、沙耶ちゃん、そうでしょ?」
 ぼくは視線の牢獄に閉じこめられた気分で汗をかいていた。あたりまえだけれど、誰もぼくが男だとは気づかないらしい。
「はいはい。いまから説明するから静かになさい」
 沙耶は講談師のように机を二度ほど叩いて、教室をしずかにさせた。
「そう、二学期からの転入生よ。突然転入が決まったので、制服の支給が遅れてしまったけれど、きょうからあなたたちの仲間になるわ。春日さん、自己紹介して」
「は、はい」
 おどおどしながら一礼しようとすると、ふたたび教室のなかから声が上がった。こんどはざわめきではない。ひとりの少女がその場に立ち上がり、ぼくを指さしたのだ。
「薫ちゃん! 何でこんなところにいるの?」
 晴香だった。
 ぼくは必死に驚愕と困惑を隠そうとしたが、じっさいに隠し通せていたかどうかはわからない。たぶん、傍目にも困惑は露だっただろう。晴香がにいるかもしれないことは当然予想できていたが、こんなふうに指さされるとは思っていなかったのだ。あたりまえかもしれないけれど、晴香は女の子に変わったぼくをひと目で見抜いたことになる。
 沙耶が怪訝そうにぼくの顔を見下ろした。
「あら、春日さん、夏川さんを知っているの?」
「いえ、知りません。たぶん、誰かほかのひとと勘違いしているんじゃないでしょうか」
「でも、いま、あなたの名前を呼んだわよ」
「偶然でしょう」
 ここは偶然で通すしかない。晴香は不審そうな表情でその場に座った。あれは絶対に納得していない。あとでまた問い詰められることを覚悟しておかなくちゃ。
 ぼくはこんどこそ教室へ向け深々と一礼すると、名のった。
「春日薫です。きょうから皆さんと同じこのクラスで授業を受けさせてもらいます。仲良くしてくださると嬉しいです。どうかよろしくお願いします」
「そういうわけだから、皆さん、よろしくね」
 沙耶がいうと、それぞれに間延びした「はい」という返事が返ってきた。
「じゃ、春日さんは、えっと、夏川さんのとなりに座ってもらおうかしら」
 よりにもよって――いや、本来の目的を考えれば幸運なことに、ぼくは晴香のとなりの席に座ることになった。ぎこちない笑顔を作って、「よろしく」と微笑みかけると、彼女はじっとぼくの顔を見つめたまま、何も返さなかった。わ、疑っている。疑っているよ!
 そうして、ホームルームの時間が始まった。

                   ◆

 ホームルームが終わると、次は始業式だった。校長があいさつしたが、どこの学校でもここらへんの内容はあまり変わりばえしないものらしい。中国の古典を引用したごくあたりまえの内容だった。まわりを見ると、あくびをしている少女たちが見つかった。どうやら、こういうところも、ぼくが通っていた高校と大して変わらないようだ。
 始業式が終わると、その日はもう授業もなく、解散になった。そして、早速、ぼくは新しいクラスメイトたちに取り囲まれることになった。一斉に質問攻勢がはじまる。
「いままでどこに住んでいたの?」
「血液型は? 星座は?」
「何でそんなに肌理が細かいの?」
「髪の毛、さらさら。ね、シャンプー、何使っている?」
 女の子のお喋りというものは、男の子のそれとは、質的に何かが違っている。ぼくは顔をこわばらせながら、その質問にひとつひとつ答えていった。とにかく、「本当は男なんじゃないの?」という質問が飛んでこなかったことを感謝するべきだろう。それから、「生理用品は何を使っている?」なんて質問がなかったことも。そんなもの、生まれてからいままでいちども使ったことがないし、できれば使わずに済ませたいものだ。
 一通り質問が終わったときのことだった。それまでひとの輪の外からじっとぼくを見つめていた晴香が輪をかき分けぼくの机に寄ってきた。ぼくは視線を逸らしながら訊ねた。
「えっと。何でしょう?」
「ねえ」
 晴香はぼくを凝視すると、ど真ん中の直球を投げ込んできた。
「あなた、薫ちゃんでしょ。何で女の子の格好しているの?」
「な、何でしょう?」
 ぼくはなるべく動揺を顔に出さないようにしたが、たぶん大して巧くいっていなかっただろう。それほどポーカーフェイスが得意なほうではないし、それに、何といっても彼女はぼくのたったひとりの大切な少女なのだ。顔を見ると、あの失恋の痛みがよみがえってくることをとめられなかった。わたし、男らしいひとが好きなの――。
「薫ちゃんじゃないの?」
 晴香はぼくを疑わしそうに見おろした。
「えっと、薫ですけれど、あなたとは初対面だと思います」
 ぼくが答えると、小さくひとつため息を吐いて、手をのばしてきた。握手するつもりだろうか? そう思ってぼくが手をのばすと、なぜか彼女の手はそれを握らず、そのうえをめざした。それから、彼女は、まるでその柔らかさをたしかめようとするように、ぼくの乳房をつかんだ。そして、もんだ。ふしぎそうに首を傾げる。
「あれ? おっぱいある?」
 ぼくは生まれて初めて覚えるその形容しがたい感覚に、悲鳴を上げることも、逃げ出すこともできず、ただ硬直してされるがままになっていた。一瞬、周囲も何が起こったのかわからなかったようで、しんと静まりかえったが、そのあと、わっとさわぎが起こった。
「な、何やっているの、晴香!」
「ごめんね、春日さん、この子、ちょっと変わっているから!」
「ほら、晴香、その手を離しなさい」
「おかしいなあ」
 晴香は周囲の大混乱を平然と無視して、いぶかしげな表情を浮かべた。
「絶対、薫ちゃんだと思ったんだけれど、でも、この感触は天然もののおっぱいに間違いないよ。ねえ」
 彼女は真顔でぼくの顔を覗き込んできた。
「下もさわっていい?」
「だ、だめ!」
 ぼくは反射的に両手でスカートを押さえていた。この子はやるといったら本当にやる!
「そっか。ごめんね。薫ちゃんそっくりの女の子なんだ。てっきり薫ちゃんが女装してわたしのことを追いかけてきたのかと思ったよ」
 いくらぼくが女顔でも、ここまで完璧な女装ができるわけないだろう! そう突っ込んでやりたかったが、できないことがもどかしかった。そうだ。晴香はこういう子なのだ。やることなすこと、どこか、世間の常識とは少しずれている。いくら女同士とはいえ、ふつう、初対面の子の胸をもむか? いや、ぼくが男だと思い込んでもんだわけか。それはそれで問題があると思うけれど――。
「もう、この子は」
 周囲の女子生徒が、晴香のことをかるく小突いた。
「ほんとにごめんね、春日さん。この子、何か妙な思い込みをしていたみたい。よくあることなの。もうやらせないから許して」
「い、いえ。その、わたし、気にしていませんから」
 ぼくはなるべく自然に見えるよう、にっこり微笑みかけた。周囲からまた声が上がる。
「うわ、いい子ね」
「可愛いうえにいい子なんて、ちょっと無敵じゃない?」
「世の中って、ほんとにこういう子もいるんだねえ」
 ぼくは何ともいえない困惑を抱えながらその場に座り込んでいた。ぼくは男らしい男になりたいのだ。かっこいい大人の男になりたいのだ。しかし、どうやら、ぼくの性格も、容姿も、男性よりはるかに女性にふさわしいものであるようなのだった。いったいこの事実をどう受け止めるべきだろう? 思わずため息がもれる。
 そんなぼくを、晴香はまだ疑いを消しきれないようすでじっと見つめていた。
 とほほ。

                   ◆

「ところで」
 と、まわりの女子生徒のひとりがいった。
「春日さん、どこのへやに住むことになるの?」
 そうなのだった。この学園は全寮制だから、当然、ぼくも寮に住まうことになるのだった。そのへやがどこかは、ぼくの目的にとって重要なことだ。自由に行動を許してくれないようなひとと一緒だと困る。
「二一二号室です」
 ぼくがいうと、晴香が驚いたように顔を上げた。
「それ、わたしと一緒のへやだよ」
「え? ほんと?」
「うん。わたし、いままでひとりで住んでいたけれど、これからはふたりだね」
 そして、柔らかに微笑んだ。好きにならずにはいられないような、無邪気な笑顔。
 しかし、ぼくは悩まずにはいられなかった。偶然というにはできすぎた話だ。アズハルだろうか? アズハルがその力を使ってぼくと晴香を一緒のへやにしたのだろうか? アズハルはどこまで外の世界に干渉することができるのだろう? もし完全に自由にその力を使いこなせるなら、とっくにかれはランプから外に出ているはずだ。おそらく、かれは「願いを叶える」という条件にかこつけた形でしかその力を振るうことができないのだろう。今回の件でいうなら、ぼくの「桜花学園に入学してもおかしくない女の子の姿に変えろ」という願い事に乗っかる形で力を振るったのだと思われる。逆にいえば、ランプのもち主の願いを叶えるためなら、かなりのことができるということだ。アズハルに対し、迂闊なことを望んではならない。もっとも、今回はたしかに助かったが。
「じゃ、夏川さん。へやまで案内してもらっていいかな? あ、わたし、いまからもういちど教員室に寄らないといけないから、そのあとになるけれど」
「いいよ。付き合うよ」
 晴香はそういってくれた。彼女のその優しさは、ぼくの胸にとげになって突き刺さる。こんなに優しい子が、なぜぼくを振るときはあんな非常ないいまわしを選んだのだろう? ひょっとして、ぼくのことを迷惑だと思っていたのだろうか。もしそうなら、哀しい。
「ねえ、春日さん。あなたのこと、薫ちゃんって呼んでいいかな?」
 晴香の言葉に、ぼくは頷いた。
「はい。わたしもあなた晴香ちゃんと呼ばせてもらいますから。いいでしょう?」
「うん、いいよ、よろしく、薫ちゃん」
「こちらこそよろしく、晴香ちゃん」
 晴香ちゃん。
 そのいい方は何となく甘酸っぱく照れくさくてたまらなかった。
 晴香。ぼくの少女。必ずきみを守ってみせる。たとえ、きみが決してぼくのものにはなってくれないとしても。それが、ぼくがきみにしてあげるさいごのことだ。
 それにしても、晴香と一緒に暮らすということは、あれを覚悟しなければならないということか。仕方ない。元々中学まではしばしばやってきたことだ。やるしかない。
 そのあと、晴香に案内されて学生寮までたどり着いた。一千名を超す学生が暮らしているだけあって、一年生寮、二年生寮、三年生寮に分かれているのだが、そのいずれも、女の子好みの白い、瀟洒な、住み心地のよさそうな建物だった。最近建て直されたという話で、壁も柱も真新しい。ぼくはほっとため息を吐いた。すべてが巧くいけば長く滞在することはないだろうが、それでも住みやすいところに住めるほうがいいに決まっている。
 晴香とともに二一二号室のまえまで着いたときは、息を呑んだ。ぼくの予想が正しければ、この扉の向こうにはおそろしい光景がひろがっているはずだ。ひと目見るなり悲鳴を上げて逃げ出したくなるような、そんな光景が。しかし、ぼくはそれと対面しなければならない。逃げ出すわけにはいかないんだ。
「ここだよ」
 晴香は何気なく扉をあけた。
 そこに――
 〈混沌〉がひろがっていた。
 ぼくの語彙ではそうとしか表現できない。それくらい徹底的に散らかったへやだったのである。いや、散らかっているという表現ではその散らかりようを表しきれないかもしれない。とにかく、あらゆるものがその正しい場所からかけ離れた場所に置かれている、そういう一室であった。そこには本もあれば、洋服も、化粧品も、アクセサリーも、CDやDVDも、ぬいぐるみも、ほかの様々な日用品もあるのだが、それがすべてしかるべき場所に置かれておらず、床やらテーブルの上やらに放り出されているのである。足の踏み場もないとはこのことだった。いや、どうやら、一歩、また一歩とたどってベッドにたどり着くルートは何とか確保されているようだが、まさにそれだけがこのへやで露出した床なのだった。それにしても、いったい、どこで眠っているのだろう。ふたつあるベッドのその両方が物で埋まっているのだが。おそらく、寝るときそのたびに物をかき分けて寝ているのだろう。
「へへ」
 と、晴香は小さく笑った。
「ちょっと汚れているの。ごめんね。いま、片付けるからね」
 晴香のいう片付けるという言葉の意味を、ぼくは知っている。それは、いま床に置かれているものを、重ね合わせ、積み上げて新しい場所を確保する、ということなのだ。世の中の大半を占めるふつうのひとは、それは片付けるとはいわないだろう。少なくともぼくは絶対にそんな言葉遣いを認めない。防ぐべし、日本語の崩壊。
「晴香ちゃん」
 ぼくは怒鳴りつけたくなるをこらえて、なるべく穏やかにいった。
「このおへや、片付けさせてもらってもいいかな?」
「もちろん。全然オッケーだよ。だって、これからここは薫ちゃんのへやでもあるんだから」
 そうなのだった。ぼくはこれからこの〈混沌〉のなかで暮らさなければならないのだ。となると、何としても室内のエントロピーを下げる必要がある。大丈夫、いままでも定期的にやってきたことだ。何とかなる。そう信じるんだ。それにしても、高校生になっても全然変わっていないんだね、晴香。
「よし」
 ぼくは腕まくりした。
「じゃ、まずいらないものを捨ててしまうところから始めましょう。わたしがやるから、晴香ちゃんは邪魔をしないでね」
 戦闘開始!

                   ◆

 けっきょく、そのへやを納得いくほど綺麗に磨きあげるまで、二時間が必要だった。ぼくはべつにシンデレラの継母みたいに神経質ってわけじゃない。でも、どうせ住むなら綺麗なへやに住みたいというあたりまえの欲望は持ち合わせている。だから、どうしてもこのへやの状態には我慢ならなかった。そうなのだった。ぼくはいままでにもしばしば、こうして晴香のへやを片付けてきたのだった。晴香にはいいところがたくさんあるのだが、このだらしなさだけは我慢ならないものがある。どうして、定期的に少しへやを片付けて、住みよい環境を作り出そうと考えないのか、ぼくにはふしぎでならない。
 ちなみに、いつもそうなのだが、一連の掃除と片付けの作業のなかで、最も閉口させられたのは、へやのそこかしこに投げ捨てられた下着の処理だった。晴香はブラジャーやショーツを平気でそこらに放置するのだ。ピンクだったりブルーだったりし、フリルが付いていたり、予想以上のボリュームを想像させたりする、それらの可愛らしい下着を片付けるとき、ぼくはさぞかし赤面していたと思う。ああ、神さま、ぼくはいったい前世でどんな悪いことをした罰でこんな目に合わなければいけないんでしょう?
「綺麗になったねえ」
 すべてがひと段落ついたあと、ほとんど何もせず、座布団のうえに座ってぼくが掃除するのを眺めていた晴香がそう呟いた。
「薫ちゃん、わたしの知り合いの男の子みたいだよ。その子も、わたしが汚くしていると、こうやって片付けてくれたんだ。すごくいい子なの。わたしの大切な、幼なじみ――」
 晴香はどこか遠い彼方を見晴るかすような目つきをした。その、いつもどこかぼうっと霞がかかっているように見えるひとみが、さらにあいまいな表情になった。ぼくは胸の痛みをとめることができなかった。
 大切な幼なじみ。
 そう思ってくれているなら、なぜ、ぼくの告白を断った? 幼なじみとしては大切でも、男としてはそれほど魅力を感じなかったということか? ぼくは鏡に映ったじぶんの顔を思い出していた。あまりにも男らしくない、柔弱そうな、ぼくの顔。そんな顔が晴香の好みではなかったということなのだろうか。だとしたら――それはあまりに残酷だ。ぼくは克服したと思い込んでいたコンプレックスに復讐されたことになる。
 そのとき、晴香の目じりに、涙らしいものが盛り上がった。ぼくは驚いた。
「晴香ちゃん? どうしたの?」
 それで晴香はじぶんが泣き出しかけていることに気づいたらしい。制服の袖で涙をぬぐい、あきらかに無理をしているようすで、笑った。
「へへ、何でもない、何でもない」
 ばか。何でもない奴が泣くか。そういってやりたかったが、ぼくは沈黙するしかなかった。
「ところで、薫ちゃん、お昼食べに行かない? うちの学食はけっこう美味しいよ。わたし、ハンバーグが好きなの。あと、カレーとエビフライ。何だかお子様ランチみたいだね、ってよく笑われるんだけれど、でも、美味しいよね?」
「ええ」
 知っているよ、とぼくはこころのなかでささやいた。きみの好きなものも、きらいなものも、皆知っている。もう役には立たないと思っていた知識だけれど、そうでもなかったね。でも、こうしてきみといっしょに過ごす時間も、もう長くはないだろう。
「あ、それから、きょうのお風呂は六時からだから、いっしょに入りに行こうね」
「――はい?」
 晴香の何気ない言葉に、ぼくは思わず石化していた。
「お風呂だよ、お風呂」
 晴香はふしぎそうに続けた。
「いくらわたしがだらしないからって、お風呂にも入らないってわけにはいかないよ。楽しいよ〜。皆で入るお風呂は。ほんと、裸の付き合いって最高だよね。ね、薫ちゃん?」

(続く)

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