『リバースディテクティヴ』序章&第一章

 序章「〈月のランプ〉」

 失敗した。
 気がゆるんでいたのかもしれないし、ただ運が悪かっただけなのかもしれない。理由はわからないが、とにかく、三度目の行為で卓真は初めてミスを犯したのだった。〈獲物〉に抵抗されたうえ、その場面を目撃されたのだ。
 いままでの二度の行為を、卓真はほぼ一撃で終えていた。われながら感心するほどのあざやかな手並みだった。あいてが油断していたという事情もあるだろうが、卓真が心臓を狙って突き上げるようにナイフを滑らせると、〈獲物〉たちはほとんど悲鳴を上げることもなく、眠るように死の世界へ旅立っていったのだ。おそらく、その成功体験が驕りに繋がったのだろう。三度目の今回は、さいしょの一撃を避けられ、もみ合いになった。そして、その光景をある少女に見られてしまったのである。本来なら、それでチェックメイトになっていてもおかしくないほどの致命的な失策だった。
 じっさい、いくらかの機転と、そして幸運が味方してくれなければ、いまごろは塀のなかにいたことだろう。かろうじてその運命は免れたとはいえ、いまでも相当に危険な状況にいることは変わりない。そのことを思うと、こうして自室に返ったいまでさえも、心臓が激しいリズムを刻むほどだ。
 荒くなる呼吸を整えながら、テレビを点ける。
 どのチャンネルでも、同じ一枚の画像を流していた。ここ数ヶ月世間をさわがせる連続猟奇殺人事件の犯人の似顔絵とされるものだ。きつくつりあがった目元や、わずかに崩れた目鼻立ちは、卓真には似ていない。おそらく、警察がこの似顔絵を手がかりに卓真までたどり着く可能性はないと考えていいだろう。そしてまた、一連の事件が卓真の仕業であると知っているものは、いまのところ地上に存在しない。
 だから、安心してもいいはずだ。しかし、考えれば考えるほど不安は募っていった。いちど目撃者を逃してしまった以上、運命のダイスはいつ卓真に不利な目を出すかもわからないのだ。
 卓真は、うすぐらいへやで、テレビのチャンネルをでたらめに変えながら、あのときのことを思い出していた。あのたそがれの公園で、〈獲物〉を仕留めようとナイフを振るったものの避けられ、抵抗されながら、間一髪、事なきを得たときのことを。
 そのとき、あの少女に顔を見られたのだが、彼女はすぐに逃げ出したし、彼女が警察に正確な情報を伝えられていないことは例の似顔絵を見てもあきらかだ。しかし、それでも、完全に安心することはできない。不安という病魔は、いまも卓真の心をむしばんでいる。
 その不安を消し去るための方法は、ただひとつしか存在しないように思えた。不運にも事件の目撃者となってしまったあの少女に、この世から消えてもらうのだ。そのためには、〈彼女〉の力を借りる必要があるかもしれない。
 卓真はへやの押入れに顔を突っ込むと、その奥深くに隠してあるひとつのダンボール箱を取り出した。その箱のなかに、新聞紙で幾重にも包まれて〈それ〉はしまってあった。一枚また一枚とその新聞紙をはぎ取り、しばらくぶりに〈それ〉を取り出す。
 鈍い銀いろにかがやくひとつのふるめかしいランプ。
 卓真はそのランプを手に取ると、ささやきかけるようにして呟いた。
「ランプの魔人サミーラよ、お前の主人が用がある。出てきてくれ」
 しばらくは何も起こらなかった。壁に掛けられた時計が、一秒、また一秒と時を刻んでいく。まさか失敗したのだろうか、と考えた、そのとき。
 突然、ランプからひと筋の灰いろのけむりが立ちのぼった。その小さなランプから出てくるとは信じられないほどの膨大な量だ。そのけむりは、見る間にひとつの形を成していった。そして、わずか数秒のちには、そこに、アラビアふうのエロティックな装束を身にまとい、小麦いろの指で一本の黄金のキセルを持った、へやの天井に頭が付くほど巨大な女性が浮かんでいた。その顔は驚くほど整っていてうつくしかったが、その濃い紫いろの瞳に映っているものは、永遠の倦怠以外の何物でもなかった。
「わが主人よ」
 彼女――ランプの魔人サミーラは、黄金のキセルを弄びながら訊ねた。
「此度は何用じゃ? 叶えてほしい願いを思いついたのか? それとも、我に訊ねたいことでもあるのか?」
「そうだ、サミーラ。わたしはお前に訊ねたいことがある」
 魔人がかもし出すふしぎなほどの霊威に息を呑みながら、卓真は質問した。
「教えてくれ。あのときわたしを目撃した少女について。正直に答えてくれれば助かる」
 サミーラは紫いろの瞳をかすかに細めた。気だるそうな仕草でキセルを吹かす。
「初めて逢ったときに申したであろう。はるか古にかけられた呪いにより、我らジンはうそを吐くことができぬ。何でも教えてやろう。しかし、早く三つの願い事をすべて使い切ってほしいものじゃ」
「悪いな、サミーラ。それはまだ先のことになるだろう。しかし、お前がわたしの疑問に答えてくれるなら、いずれ願い事をすべて使い切って、お前をその百年にいちどの労役から解放してやると約束しよう。だから、ジンよ、教えてくれ。お前の力で例の少女を殺すことはできるか?」
「できぬ」
 いかにもそっけなく、魔人は答えた。
「わが力にも限界はある。むろん、本来はわが力は巨大にして無窮。しかし、いまは古に魔法使いにかけられた呪いにより、ひとに危害を加えることはできぬのだ。ほかの願い事にするがよい」
「わかった。元々期待してはいなかった」
 卓真は、舌先でくちびるを舐めながら続けた。
「偉大なるサミーラよ、お前なら知っているかもしれないが、あの少女はいま、私立桜花学園という全寮制の女子校にいる。男子禁制の女の園だ。そこなら殺人鬼も近づけないと思われているだろう。だが、そうじゃない。サミーラ、聴いてくれ」
 卓真は両手を広げ、いった。
「わが望みは――」

 第一章「〈太陽のランプ〉」

「ごめんなさい」
 そういって、晴香はぼくに向かい深々と頭を下げた。
「え?」
 ぼくが唖然と呟くと、彼女はいつものあの穏やかそうな表情のまま次の言葉を続けた。
「薫ちゃんとは付き合えない。わたし――そう、男らしい男の人が好きなの」
 その言葉は矢となってぼくの心臓に突き刺さった。
 もし、この世にたったひと言であいてのいのちを奪う呪いの言葉が存在するとしたら、このとき晴香が口にしたこのひと言こそまさにそれだっただろう。なぜなら、じっさいに胸の辺りに激痛が走ったからだ。ショックのあまり、一瞬、心臓が停止したに違いない。それくらい予想外の言葉だった。
 晴香の頭上では、この公園でいちばん大きな樹のこずえが風にゆらいでさらさらと音を立てている。初めての告白をこの場所にしようと決めたのはずいぶんまえだったが、それは彼女がこくりと頷いてくれることを前提にした計算だった。この樹のしたで、彼女をぎゅっと抱きしめ、その耳もとでひと言、好きだよ、とそう囁くつもりだったのだ。
 しかし、いま、すべての計算は崩れ、予定は消え去っていた。真昼だというのに、目のまえが文字通り真っ暗になる。まるで燦燦とふりそそいでいるはずの陽光が、ぼくの目のまえだけを避けて行っているかのようだった。
「どうして?」
 未練のあまり、ぼくはあとから思い出したとき自己嫌悪に浸ることになるに違いないひと言を口走っていた。
「いままで、晴香、そんなこといったことなかったじゃないか! ぼくは、晴香もぼくのことを思ってくれているものだとばかり――」
「勘違いね」
 ふたたび、晴香の言葉がぐさりとぼくの胸に突き刺さった。心臓がずきずきと痛む。そのとき、きっと、ぼくの顔は死人のように青ざめていたと思う。心臓が停まるくらいのショックなのだから、当然だ。
 ぼくは脳内で次の言葉を探して千もの言葉を検討したが、どれもこの場にふさわしくなかった。いや、この場にふさわしい言葉なんてものがあるとは思えなかった。失恋男に似合う台詞なんてないのだ。恋に破れた不幸な男は、ただ、何もいわずその場を立ち去ることしかできない。それは千年も前からそうなのだ。
 しかし、それでもぼくは未練を捨てきることができず、必死にひきつった笑顔を浮かべながら、ひとつ頷いていた。
「そう。じゃ、仕方ないね。ぼく、どう見ても男らしいってタイプじゃないし、晴香の好みじゃないんだよね。うん、これからもいままでみたいに友達でいてくれると嬉しいな。だって、ぼくたち――」
 そのとき。
 ぼくの、忌々しいことに子どものように円らなひとみから、一条の涙がこぼれ落ちた。
 ぼくはシャツの袖でその涙をぬぐい去り、それ以上は何もいわずにうしろへ駆け出していた。ようするにそれ以上、晴香の前にいることに耐えきれず、逃げ出したのだった。
 ぼくはその公園を飛び出し、商店街を駆け抜け、そして――そして、どこをどう走ったのか、気づくと、息を切らして川原の草原に寝そべっていた。
 のび放題の雑草が頭や首筋に刺さってこそばゆい。情けないことに、涙がこみ上げてくることを止められなかった。生まれてからいままで数えるほどしか覚えたことがないどうしようもない哀しみに、ぼくはひとり、泣きじゃくった。きっと、胸がはり裂けそう、とはこういうときに使う形容なのだろう。頭のなかでは、ひとつの言葉が延々とリフレインしていた。
 なぜだ、なぜだ、なぜだ、なぜだ、なぜだ……。
 うまくいくはずだった。いまごろ、ぼくは世界でいちばん幸福な男になっているはずだった。もちろん、不安がなかったわけじゃない。でも、きっと、彼女もぼくのことを好きでいてくれると思っていたのに!
 すべては、彼女のいう通り、ぼくのひとり芝居の勘違いに過ぎなかったというのだろうか。ぼくは、そうとは気づかぬまま、ナルシシズムの檻でひとり踊っていたに過ぎないというのだろうか。そんなことは、信じたくなかった。
 ぼくは、晴香のさらさらと風にそよぐ少し栗色がかった髪を思い出した。いつも少しぼうっと霞がかったように見える、深い色合いの瞳を思い出した。そして、いつもぼくの指に絡まってきた、ひどく華奢で繊細で、少し力をこめれば簡単に折ってしまえるように思える指を思い出した。その唇、その鼻、その腕、その足、何もかもが、忘れることなど不可能なほどに、ぼくの心に刻印されていた。
 晴香。
 ぼくはその場に座り込み、なぜかひどく暗く見える川面を眺めた。その底に沈んで永遠に浮かび上がってきたくないような気分だった。しかし、もちろん、そんなことはできない。あしたも、あさっても、ぼくの人生は続いていくのだ。
 晴香抜きで。
 そんな人生がどんなに暗いものになるか、想像もできない。きっと、灯かりもない暗い夜道をただひとりで歩きつづけるような人生になるのだろう。ぼくには晴香しかいないのだから、当然だ。
 晴香。晴香。晴香。
 ぼくは本当に目のまえが暗やみにとざされたかのようなみじめな気分で、彼女の名前を呟いた。じぶんにはもう、彼女の名前を呼ぶ資格すらないのだと思うと、いっそうみじめになった。ふしぎだ。これ以上みじめになりようがないほどみじめだというのに、まださらに下があるなんて。いったいどこまで落ちれば底にたどり着くんだろう?
 ぼくは間抜けなじぶんを罰しようとするかのように、一から記憶を辿りなおしてみた。
 一体全体、どうしてこんなことになったんだろう?

                   ◆

 ぼくの名前は春日薫。
 何だか朗らかそうなのん気そうな名前だけれど、名は必ずしも体を表しはしないようで、ぼくはどちらかといえば神経質な秀才肌だ。じぶんで秀才というのは厭味かもしれないが、事実なのだから仕方ない。少なくとも、いま通っている高校では、ぼくは一、二を争う学力を誇っている。もちろん、世の中は広いから、いくらでも上はいるのだろうが、この地区では相当優秀な部類に入ることはたしかだ。そんなこと、べつにたいして自慢になることでもないけれど。
 ぼくは今年十七歳になる。しかし、ひとにいわせると、じっさいの歳より若く見えることがあるらしい。いや、正直にいおう。ぼくはじっさいの年齢通りに見られたためしがない。高校生になったいまでも、中学生としか見てもらえないのだ。その理由はたぶん、いや確実に、アベレージより5センチばかり低い身長と、ぼくの人生を呪縛しつづける童顔にあるだろう。ぼくの顔立ちは、つまり、その、何というか――「女の子のよう」とよくいわれる。ようするに、母親似の女顔なのだ。おかげで、可愛いといわれることはしょっちゅうだが、かっこいいといわれたためしはない。男らしい、という評価は夢のまた夢だ。じぶんでも、もしぼくが女の子だったらそれは可愛らしい顔立ちだっただろう、と思わないことはない。子どものように円らなひとみといい、小さな桜いろのくちびるといい、もしぼくが女の子だったら、文句なしに美質で通ったものだろう。
 しかし――ぼくは男なのだ。
 はっきりいって、ぼくはじぶんの顔がきらいだった。大きらいだった。ぼくの人生のコンプレックスはほとんどすべて、この少女めいた容色に根ざしているといってもいい。可愛い顔に生まれて得をしている、というひとも大勢いるし、顔立ちのことで妬まれることはしばしばだ。ひとから見れば、ぼくはさぞかしうらやましい身の上なのだろう。しかし、ぼくとしては女の子から「薫くんってば、可愛い」などとハートマーク付きでいわれるたびに、胸に傷を負ってきたのだった。ぼくは可愛い中性的な少年になんかなりたくない。かっこいい大人の男になりたいのだ。
 そのために、ぼくはさまざまな努力をしてきた。ひげをのばそうとしたこともある。ほとんど生えない体質(何だそれは?)と、校則(ぼくは破ったことがない)のためにあきらめた。髪をとがらせたこともあるし、身長をのばすためと試みた、様々な涙ぐましい努力については、ここでは書きたくない。とにかく、すべては無駄に終わり、ぼくはあいかわらず「女の子のように可愛い」という評価をもらいつづけていたのだった。
 しかし、その劣等感も、いいかげんに慣れ、克服したつもりだった。たったひとりのひとが認めてくれさえすれば、あとはだれに女のようと陰口を叩かれても平気なはずだった。だから、ぼくは一生に一度の勇気をふりしぼって、晴香に告白したのだ。
 風にそよぐ樹のしたで、ぼくはいった。
「きみが好きだ。つきあってほしい」
 と。
 しかし――その結果は、あの有様だ。
 ほんとに、いったいどうして、こんなことになったんだろう? もしぼくのデスクの引き出しがタイムマシンになっているなら、すぐさま乗り込んで過去のじぶんに忠告してやるのに。告白なんかするんじゃない、と。その道は断崖に通じている、と。そうすれば、少なくともこんな想いをする羽目にはならなかっただろう。
「くそ」
 ぼくは下品なひとり言を口走った。幼い頃からずっと見てきた晴香の様々な姿がとめようとしてもとまらずに思い浮かんで、やり切れなかった。
 ぼくが晴香と知り合ったのは、いまから六年以上まえ、つまり、小学五年生の頃のことだ。その頃、ぼくはひどく気が弱い子どもで、クラス替えで知らない子どもたちと同じクラスになることが不安でたまらなかった。いじめられたらどうしよう、とうじうじ考えたことを憶えている。また、その頃のぼくはまたべつの辛いことを抱えていて、そのことで悩んでもいた。ようするに、ぼくは空気をいれすぎたタイヤさながら、パンク寸前の状態だったのだ。
 そのぼくを救ってくれたのが、となりに座った晴香だった。
 といっても、晴香が特別、ぼくに優しくしてくれたわけではない。むしろ、彼女はぼくに迷惑ばかりかけてくれた。もし生まれながらのトラブルメーカーというものがいるとしたら、それは晴香のことだっただろう。忘れ物をしてくる生徒はほかにもいたが、授業があることそのものを忘れ去ってしまって道ばたの花をじっと眺めていたのは晴香くらいのものだった。ぼくはとなりの席になった義理から、彼女のそのトラブルを一々解決してまわる羽目に陥った。
 当時の先生はいったものだ。薫くんはしっかり者だから安心して晴香ちゃんのことを任せられるわ、と。じっさいには少しもしっかり者でなどなかったのだが、試練はひとを成長させるということだろうか、ぼく以上にしっかりしていない彼女のことを世話するうちに、いつのまにかしっかり者になっていた。
 そして、ある出来事をきっかけにして、彼女のことを女の子として好きになっていたのだ。神さまは、そんなぼくの純情に対して、なかなか粋な計らいをしてくれた。それから中学校を卒業するまで、ぼくはずっと晴香と一緒のクラスだったのだ。
 そして――いつしか、ぼくと晴香は、クラスの連中に「夫婦」とからかわれる関係になっていた。ぼくが元々は色白の頬を紅く染めて晴香を見ると、彼女も照れくさそうに頷いてくれたものだ。ぼくは、晴香もぼくのことを好きなのだろうと思っていた。彼女が全寮制の女子校に入ってしまったときはがっかりして、ずいぶん落ち込んだが、晴香はそこに通うあいだもメールを送ってくれた。
 そこで、ぼくは晴香が夏休みに帰って来たこの機会を利用して、告白したのだ。その先に人生最大の失望が待ち受けていることなど知らずに。能天気に成功を夢見て。そのあとの展開すら考えて。しかし、よりによって晴香はいった。男らしいひとがいいのだと。ぼくとは正反対のタイプじゃないか! ぼくはけっきょく、ただひとりの姫に対するただひとりの王子どころか、じぶんが姫のこころを射止められたと信じるあわれな道化に過ぎなかったのだ。
 ぼくはばかだ。
 世界一の大ばか者だ。
 どうしようもなく暗い絶望と自虐、自嘲に頭の先まで浸りながら、ぼくはその川原に一時間も座っていた。
 死にたい。

                   ◆

 いくら辛い出来事があっても、どんなに川底に沈んでしまいたいような気分でも、そのまま永遠に川原で風に吹かれているわけにはいかない。ひとは生きているかぎり、行動しないわけにはいかないのだ。
 ようやく涙が止まってくれた頃、ぼくはとぼとぼと歩いて自宅へ帰った。ぼくが生まれたときに建てられた、一戸建ての家だ。財布から取り出した鍵で錠をあけ、なかに入る。
「ただいま」
 一応いってみたが、この家にはぼくに「おかえり」といってくれるひとはいない。母はずいぶん昔に亡くなっているし、父は仕事仕事でこの時間に家にいることはないのだ。
 ぼくはひとりだった。ひとりぼっちだった。
 ベッドにうつ伏せに寝そべって、枕に顔を埋める。ふたたび涙がこみ上げてきそうになったので、ティッシュを取り出してぬぐった。鏡を見てみると、目が腫れ上がっていた。このままだと、あした学校で何といわれるやらわからない。
 いまでもまだ、現実が受け入れられない。あの晴香があんなことをいうなんて。晴香は、すこし変わったところはあるけれど、優しい子だ。ぼくを振ることはともかく、もっと穏やかないい方をしてくれなくてはおかしい気がする。
 いや――やはり、どうにも納得がいかない。冷静になって思い出してみると、きょうの晴香はどこか晴香らしくなかった気がする。何より、いちどもぼくと目を合わせようとしなかったことが不自然だ。いつもじっとあいての目を見つめる子なのに。
 ぼくの視線は、自然とへやの天井に向かった。もしかしたら、〈あいつ〉に頼めば真相がわかるかもしれない。そう思ったのだ。〈あいつ〉も、ひとの心の内側まで見透かすことができるわけではないようだが、何しろ全知全能を名のる〈あいつ〉のことだ。多少の事情を知っていてもおかしくはないだろう。しかし――
 いままでにも、何度か〈あいつ〉を呼び出そうと思ったことはある。しかし、そのたびに初めにあいつと逢った頃のことを思い出して、やめることにしたのだ。〈あいつ〉の口車に乗ったら、どんなひどい目に遭うことになるのか、ぼくは忘れてはいない。だが、それでも、今回ばかりは――
 そうやって、どれほど逡巡したことだろうか、ぼくはけっきょく、いままで何年間も耐えつづけてきた誘惑に負けた。ベッドのうえに立ち上がって、天井板を外したのだ。そこに、それを隠してある。それ――全体に薔薇の蔦が絡み合っているようなアラベスク模様が彫りこまれた、金いろにきらめく古びたランプを。
 少し不安だったが、ランプはやはり、子どもの頃に隠したその場所に置いてあった。
 ぼくは数年ぶりに見るその色かたちに、すこし呆然と見入った。いまならもういちど天井裏に隠せば済む、とも思う。しかし、ここまで来て、そうすることはもはや不可能だった。
「アズハル」
 ぼくは低く囁いていた。
「〈太陽のランプ〉に宿るジンよ。もう気づいているんだろう? 出てきてくれ!」
 静寂のうちに数秒が過ぎ去った。まさか、とぼくは不安を抱いた。すべては幼い頃の夢、まぼろし、空想好きの子どもによくある夢想に過ぎなかったとでもいうのだろうか? このランプはただの古い骨董品に過ぎないのか?
 そうではなかった。
 次の瞬間、ランプから黄いろのけむりが立ちのぼり、ぼくの視界をふさいだかと思うと、そこに、〈かれ〉が悠然と立ちふさがっていたのである。〈かれ〉――はるかなアラビアの魔人、アズハルが。

                   ◆

「アズハル――。ひさしぶりだな」
 ぼくは額にしたたる汗をぬぐいながら呟いた。
 数年ぶりに見るアズハルの姿は記憶にある通りだった。
 その巨躯は、何とかへやに入りきるのが精々というところ、上半身すべてが裸で、下半身にはブラックのズボンを履いている。その頭はあたりまえのように純白のターバンに覆われているが、そこからひと筋の金いろの髪がこぼれていた。また、その炯々たる眼光は町の不良など及びもつかないほどの迫力を秘めていて、幼い頃のぼくが天井裏に封印できたことが信じられないほどだった。顔立ちそのものはきわめて端正で男性的だが、ひねくれた唇はねじ曲がった性格を表しているようにも思える。そうだ。こいつはまともな奴じゃない。油断してはならないんだ。
「わが主人よ」
 アズハルはきついまなざしでぼくを見おろしながら、低い、よく響く声でそういった。
「本当にひさしぶりだな。ずいぶん歳をとったものじゃないか? このまま一生、おれを天井裏に放置しておくつもりなのかと思ったぜ。どんな願いでも叶える力を持つこの〈太陽のランプ〉の魔人、アズハル様ともあろうものを」
 間近で見ると、アズハルの威厳は圧倒的だった。外見は若く見えるものの、何百年生きているのか見当もつかないのだ。そこらの大人たちなど問題にもならない。
「さあ、どうした」
 あいさつしたきり沈黙してしまったぼくをいぶかしむかのように、アズハルは続けた。
「叶えてほしい願いがあるんだろう? いってみたらどうだ。それが、神の摂理――お前らのいう物理法則に逆らうものでないかぎり、そしてひとに直接危害を与えるものでないかぎり、何でも願いを叶えてやるぞ。ほしいのは巨万の富か? 夢のような美女か? それともお前だけの城か? 何でも望むがいい。すぐさま叶えてやろう」
「確認しておく」
 ぼくは冷や汗をぬぐった。
「お前はうそはつけないんだったな。はるかな古の大魔術師ソロモン王の呪いによって、お前はそのランプに封じ込められた。そして、いくつかの制約を受けた。一つ、ひとに危害を加えたり、ひとの心をねじ曲げることはできない。二つ、うそを吐いたり、誓いを破ったりすることはできない。三つ、他のランプ使いの願いを妨げることはできない。そうだな?」
「そうだ」
 アズハルは尊大に頷いた。とてもじぶんの主人に対する態度とは思えない。もちろん、本心ではぼくのことを主人だなどとは思っていないのだろう。
「それで、何の願いを叶える?」
「いや、今日お前を呼び出したのは願いを叶えてほしいからじゃない。ひとつ、聴きたいことがあるんだ。晴香のことだ」
「晴香? ああ、お前が餓鬼のころ執心だったあの小娘のことか。お前ら人間はあっというまにでかくなる。いまごろ、さぞかしいい女になっていやがるんだろうな」
 アズハルはその頬に邪悪な微笑を浮かべた。なまじ秀麗な顔立ちだけに、そういう表情をすると、本当に凄みがある。この魔人を封印してくれたソロモン王に感謝するべきだろう。ランプの外に出したら、何をするかわかったものじゃない。
「それで」
 アズハルは好奇心の眩めく瞳でぼくを見おろした。
「その夏川晴香の何を知りたい? 内容によっては答えてやらんこともないぞ」
「なぜ」
 ぼくは唇を血がにじむほどきつくかみ締めた。この邪悪なジンに失恋したことを知られたくはない。しかし、ここまで来た以上、もう隠し通すことはできなかった。
「なぜ、晴香がぼくの思いに答えてくれなかったのか。晴香は本当は何を考えているのか、教えてくれ」
 アズハルはぼくの言葉に、一瞬、きょとんとした顔になった。そして、すぐに笑い出す。まるでこの世でいちばんおもしろいジョークを耳にしたとでもいうように、かれは、空中で腹を抱えて笑った。ぼくは深刻な憎しみを感じたが、言葉にしては何もいわなかった。ようやく笑い終わると、アズハルは目尻の涙をぬぐいながらいった。
「そうか、そうか。薫、お前、あの小娘にふられたのか。そういうことなら、いいだろう。あの小娘にどんな事情があったのか、ただで教えてやる。このアズハルさまの力は神そのひとに次ぐ。知ろうと思って知れんことなどないのだからな」
「御託はいいから、早く教えてくれ」
「待て。そう急かすな。いま、あの小娘の過去をさぐってい――」
 と、アズハルは大きく目を見開いた。
「ふむ。ふむふむふむ。何と、そうであったか! こいつは可笑しい。何とばかげた運命! 神も時にはこんな悪戯をなさるものか」
 かれはふたたび大笑すると、ぼくに視線を据えた。その瞳には冷たい嘲弄がある。ぼくは気圧されかけたが、このジンにはどうせぼくに危害を加えることはできないのだと思い直して、キッとかれを睨み返した。
「何だ、アズハル。何が見えた? ぼくに教えろ」
 アズハルは薄く刃物のように危険な微笑を浮かべた。何かよほど邪悪な企みを巡らしているのかもしれない。要注意だ。
「いいだろう、わが主人よ。おれが見たものをお前に教えてやろう。だが、聴けばお前は正気ではいられなくなるかもしれんぞ。いや、確実に正気を失うことだろう。まこと、神もおもしろいことをなさるもの。運命を操るそのご意思の皮肉なことよ」
「もったいぶるな。早く教えろ」
 ぼくがあくまでくり返すと、アズハルは危険な微笑みを浮かべたまま、こういった。
「それでは、教えてやろう。この夏、お前の想い人の夏川晴香は、ある猟奇殺人鬼を目撃した。そして、その殺人鬼はいま、晴香の命を狙っている。薫よ、いっそふられてよかったかもしれんぞ」

                   ◆

 ぼくがこの魔人アズハルが宿る〈太陽のランプ〉を拾ったのは、小学四年生の頃、晴香と出逢う少しまえのことだ。前述したように、その頃、ぼくはごく気弱な子どもで、しかも少し空想癖があった。授業が終わると、毎日のように様々な本を読み耽り、その空想の世界に遊んで時を過ごしていたものだ。
 そのなかでも最も好きだったのが、世にいう千夜一夜物語アラビアンナイトの秘話たちだ。子どもが読むのには長すぎる物語だったから、ぼくが読んだのは子ども向けにアレンジされた抜粋版に過ぎなかったが、それでもはるかな異郷に住む冒険者アリババやシンドバッドのエキゾティックな冒険の数々は、ぼくの胸を躍らせた。ぼくもいつかアラビアの地に行ってやろうと思っていたものだ。
 そして、そのアラビアンナイトの物語のなかでもいちばん心を惹かれたのが、アラジンと魔法のランプのお話だった。魔法のランプのなかに住み、何でもいうことを聴いてくれる魔人! それはぼくが夢みる世界の象徴だった。ぼくはその物語をくり返しくり返し読み耽り、しまいには本を破ってしまった。そのときはずいぶん哀しかったものだ。
 そして、ある日のこと。ぼくは近所のごみ捨て場にひとつの古びた、しかし華麗なランプが捨てられているところを見つけた。大量のごみの奥に埋もれていたにもかかわらず、そのランプはふしぎとぼくを惹きつけた。べつだん、それが魔法のランプに違いないと思い込んだわけじゃない。ただ、何というかその、とにかく惹かれたのだ。アズハルにいわせればすべては星座のさだめた運命で、ぼくは生まれたときからアズハルの主人になるよう決められていたのだという。ジンはうそを吐けないそうだし、じっさい、アズハルがぼくを騙したことはないから、本当のことなのだろう。あるいは、だからこそぼくは遥かなアラビア夜話の世界に惹きつけられたのかもしれない。ぼくはごみをかき分けてそのランプをへやに持ち帰った。その後のことは、ご想像の通り。ランプのなかから現れたアズハルをまえに、ぼくは気絶しそうになった。アズハルはそんなぼくを冷ややかに見おろしながら、いった。神の摂理に背くことでない限り、どんな願い事でも三つだけ叶えてやる、と。そして――そして、ぼくはある願いを叶えてもらい、そのあと、ある事情でアズハルを封印することにしたのだ。
 そのまま永遠に封印しているつもりだった。しかし、いま、こうしてぼくはこの魔人を呼び出し、そして、その報いとしてとんでもないことを知らされたわけだ。
「晴香が――殺人を目撃した?」
 かれの言葉を鸚鵡返しにくり返したぼくに向かい、アズハルは余裕たっぷりの仕草で頷いた。
「そうだ。夏川晴香は、その殺人鬼が獲物を殺そうとするところを見てしまった。そして警察でその殺人鬼について証言した。それどころか、似顔絵を描いて協力さえした」
「あの事件!」
 ぼくは最近、テレビでくり返し報道されている事件のことを思い出していた。それは無残きわまりない殺人事件だった。既に若い女性がふたり犠牲になっていた。最近、事件の目撃者が出て、似顔絵が公開されたということで、すぐに捕まると思っていたのだが、まさかその似顔絵を描いたのは晴香だというのだろうか?
「そう、その事件だ」
 アズハルはぼくの困惑を楽しむように続けた。
「それだけなら問題なかったかもしれん。が、そのあと、殺人鬼は彼女のことを調べ、そしてその素性を知った。いま、殺人鬼は彼女の身柄を追いかけている。いうまでもない、口封じのためだ」
「本当なのか?」
 ぼくは一縷の希望にすがりついた。
「ぼくをだまそうとでたらめをいっているんだろう?」
 アズハルは肩をすくめた。
「信じるか信じないかはお前のかってだ。しかし、お前も知っているはずだ。ランプの魔人はうそを吐けん。大昔にソロモン王がそうさだめたんだ。そうでなければ、とっくの昔にお前をだましてこのランプから解放されているだろう」
 その通りだった。
 古に生きたソロモンという人物はよほどの賢者だったらしい。魔法のランプに封印したジンが、もち主をだましてランプから解放される可能性をちゃんと考慮にいれていたのだ。ジンは、ランプのもち主が三つの願いのうち一つを使って「ジンよ、お前を解放する」といえば解放される。だからアズハルはもしうそを吐けるなら、その達者な口先でぼくをだまし、解放させれば良かったのだ。しかし、かれはそうしなかったばかりか、じぶんに不利になる条件を説明しさえした。幾千年の時を超えかれを縛る呪いがそうさせたのだという。その意味で、アズハルのいうことは信用できる。
 それでは、信じられないことだが、晴香は、本当に殺人鬼に狙われているのだ。それも、たまたま事件を目撃してしまったという不幸な偶然によって。しかも、殺人鬼は既に晴香の素性を知っているらしい。くそ、警察は何をやっているんだ。事件の目撃者を保護する義務があるはずだろう。保護? そうだ。
 ぼくはほっとため息を吐いた。安堵の余り、全身からどっと汗が吹き出る。
「大丈夫だ」
 ぼくはじぶんにいいきかせるように呟いた。
「犯人は晴香を殺せない。だって、きょうが夏休みの最終日なんだからな。あしたから、晴香は私立桜花学園に帰る。桜花は男子禁制の女子校だ。教師や用務員にいたるまで、男性はひとりもいない。いくら犯人でも、あの学園に忍び込むことは不可能だ。とりあえず、次の冬休みまでは晴香の身は安全だ。そのうちに犯人も捕まるさ」
 アズハルはふたたび嘲笑を浮かべると、軽く爆弾を投げてきた。
「犯人が男ならな」
 ぼくの心臓が大きくタップした。
「どういうことだ? テレビも新聞も犯人は男性に間違いないといっている。それに、そうだ、晴香が描いたっていう似顔絵も男性のものじゃないか。いいかげんなことをいうと空き地にでも埋めて永遠に出てこれないようにしてやるぞ!」
 しかし、憎らしいことに、アズハルの余裕は崩れなかった。
「たしかに、報道されているのは男だ。しかし、お前はそういう事情を変えてしまう力の存在を知っているんじゃないか?」
「まさか――〈月のランプ〉?」
「その通り。晴香の命を狙う犯人は、〈月のランプ〉の所有者だ」
 ぼくは愕然として声も出せなかった。
 〈月のランプ〉。
 それは、アズハルの宿る〈太陽のランプ〉と対になっているというもうひとつの魔法のランプだ。このふたつのランプは百年に一度、星のさだめる主人と出逢い、その願いを叶えるよう決められているのだという。どこかに〈月のランプ〉を拾った人間がいることを、ぼくはアズハルから聴かされて知っていた。しかし、そのことについて気にかけたことはなかった。ぼくとは無関係な人物だろうと思っていたのだ。いま、このときまで!
「アズハル、願い事だ! その犯人の名前を教えろ!」
 ぼくが叫ぶと、アズハルは皮肉そうに笑った。
「ざんねんながら、わが主人よ、それはできん。我々は呪いにより、他のランプ使いの名前を教えないよう縛られている。殺人鬼だという素性を教えるだけでも苦しいくらいなのだ。感謝してもらいたいものだな。すべてお前を思ってのことなんだぞ」
 ぼくは憎しみを込めてアズハルを睨みつけた。
「答えろ、アズハル。一連の事件の犯人は、女なのか?」
「そう、女だよ――いまはな」
 ランプの魔人は唇の端を皮肉そうにつりあげた。ぼくはかれを憎しみを込めて睨みつけたが、アズハルは痒くもなさそうだった。
 そうか。そういうことか。犯人は〈月のランプ〉の力を使って女性に、おそらくは少女に変身したのだ。そして、堂々と桜花学園に入学するつもりなのだろう。身元など、いくらでもごまかせる。そして、だれも警戒しない少女の身体を使って、また殺人をくり返すつもりなのだ。ランプの力では直接ひとに危害を加えることはできないが、間接的に殺人の力を手に入れることはできる。それに、そうだ、そうすれば、男の顔の似顔絵が流通していても全く問題はない。かれは完全に自由になれるのだ。
「晴香に知らせないと」
 ぼくが立ち上がりかけると、アズハルはとうとう声をあげて笑った。
「おいおい! 何ていうつもりだよ? 殺人鬼がお前を狙っていると、魔法のランプで聴いたとでもいうつもりか? だれが信用する? 無駄だよ、無駄。ふられた腹いせにおかしなことをいいだした妙な奴だと思われることが落ちだ」
 ぼくは舌打ちした。くやしいが、アズハルのいうことは筋が通っている。いまから忠告したところで、無駄だ。犯人が男だと思っている晴香やその家族、警察にとっては、桜花学園は他のどこよりも安全に思えるだろう。それは間違いではない。ただし、魔法のランプの存在がない限り。
 くそ。どうする? どうすればいい?
「アズハル、願い事で晴香の身の安全を守ることはできるか?」
「おお、わが主人よ。できるとも。ただ、その場合、犯人は他の犠牲者を生みつづけるだろうな。お前は愛しいあの子を守る代わりに、ほかの連中を見殺しにすることになるわけだ。それはちょっとばかり寝覚めが悪くないか?」
 ぼくはふたたび舌打ちした。その通りだ。しかし、どうする? アズハルから犯人の名前を聞き出すことも不可能。直接アズハルに守らせることも不可能。そして、ぼくが男である以上、あの学園に入り込んで晴香を守ることも不可能――いや、待てよ。
「アズハル」
 ぼくは訊ねた。
「ぼくを女にすることはできるか?」
「おお、わが主人よ」
 ランプの魔人は莞爾と微笑んだ。
「ようやくそこにたどり着いたか。もちろん、できるとも。少々肉体を作り変えるくらい、神の摂理に反してはいない。そうだ、飛びきりの美少女にしてやると約束しよう。いや、お前ならほとんどいじらなくても真珠のような少女になれるさ。ただ、考えてみろ。そんなことをして、お前に何の利益がある? 幼い頃、お前は既にひとつ願いを叶えている。のこる願いはふたつだ。少女になって、元に戻ったら、それだけで願いを使い果たしてしまうぞ。その気になればどんな美女をはべらせることも可能な力を、あんな尻の青い小娘ひとりのために使いきってしまっていいのか? いままでの主人たちのなかにも、そこまで愚かな願いの使い方をしたものはいなかったぞ」
 ぼくは晴香のことを思い浮かべた。つい先ほど、ぼくをすげなく振ったときのあの冷たい態度を。きつい言葉を。あの子はぼくのことを好きじゃないといった。男らしい男が好きなのだといった。そのいい方がぼくを傷つけることを知っていて、そんな言葉を選んだのだ。そんな子のために、どんなことでも叶う願い事をふたつも使ってしまう意味があるのか? 考えろ、薫。考えるんだ。
 そして――
 ぼくは目をとじ、またひらいた。
「それでも」
 ぼくはいった。
「ぼくが晴香を好きなことには変わりない。だから、ぼくは晴香を救う。アズハル、ふたつ目の願いだ。ぼくを桜花学園に入学してもおかしくない女の子の姿に変えろ!」
 アズハルはわざとらしく目を瞠った。かるく笑いながら、答える。
「大した純愛だな! よし、サービスだ。桜花学園の入学手続きのほうも任せておけ。あしたから学園に転入できるようにしておいてやる。それにしても、わからんものだな。世界を支配するも可能な力を持ったお前が、おれを封印したかと思ったら、ふたたび出してすぐ願い事を叶えてほしいというとは! 世の中は、全くふしぎに満ちている! いやはや、退屈する暇もないわ」
 ぼくはアズハルのことを睨んだ。
 この邪悪な魔人が善意で何かをするなんてことはありえない。あえて余計なことまでやるからには、必ずその奥に何かしらの姦計が存在しているはずだ。たとえば――〈月のランプ〉のもち主にぼくが殺される展開を狙っているとか。十分にありえることだ。アズハルを信用してはならない。しかし、その気になればぼくはアズハルをふたたび封印することもできるのだ。すぐにぼくの怨みを買うようなことをするとも思えない。とにかく、注意するんだ。注意してしすぎるということはない。
「よし」
 アズハルはひとつ頷いた。
「それでは、行くぞ! わが主人よ、願いはうけたまわった。お前の身体を女のものにしようではないか! さあ、天地に宿る精霊たちよ! わが望みを叶えるがいい!」
 そして――
 アズハルの指さきから雷光のようなものが閃いたかと思うと、その光がぼくの目を射った! ぼくはまばゆい光のなかでじぶんの身体がふわりと宙に浮き上がるのを感じた。それに、そう、その感覚をどう表現したらいいのだろう。じぶんの身体が内側から変化していく! そして、ぼくは意識を失った。

                   ◆

 何ともいえない気だるさを覚えながら、ぼくは薄く目をひらいた。天井が目に入る。ぼくはその場に寝そべっていたのだった。アズハルの姿はどこにも見あたらない。はっとして起き上がると、床の絨毯のうえに〈太陽のランプ〉が置かれていた。その内部から、アズハルのものらしい声がきこえてくる。
「わが主人よ。たしかに願いは叶えたぞ」
 ぼくはハッとして、へやの端に置かれている姿見にじぶんの顔を映す。
 そこに――
 見たこともないうつくしい少女が映っていた。その顔立ちは、たしかに男だった頃のぼくの面影をのこしている。円らなひとみ、桜いろのくちびる、よく整った目鼻立ち。しかし、男としてはわずかに違和感を感じさせたそれらの要素は、いまや、完璧としかいいようがないバランスで華奢なりんかくのなかにそろっていた。そして、男の頃短く刈っていた髪は、いまや肩までとどくほど長くのび、そしてゆるやかなウェーブを描いている。ぼくはじぶんの顔であることも忘れて思わず見惚れた。アズハルの言葉はうそではなかった。紛れもなく、真珠のように神秘な美少女だ。
 これがぼく?
 そのとき、ぼくはシャツの胸部がきついことに気づいた。そして、腰の辺りに感じる、何とも形容しがたい違和感。それでは、ぼくは、本当に女の子になってしまったのだ。何てことだ。じぶんで望んだこととはいえ、信じられない。信じたくない。
 ぼくはその場に座り込んで、うつろに笑った。これで、犯人を見つけ出して第三の願い事を叶えてもらわないかぎり、女として生きていくしかなくなったのだ。しかし、いままで男として生きてきたぼくが、本当に女に化けることが可能なのだろうか? そして、名前も顔もわからない犯人を見つけ出すことができるのだろうか? 不安材料は山ほどある。
 しかし、それでも――
 ぼくは胸に甘酸っぱいものがこみ上げてくることをとめられなかった。あしたから、晴香と同じ学園に通い、彼女を守ることができるのだ。さしあたって、彼女が狙われていることにも気づかず、彼女の死体と対面させられるより、はるかにましな運命ではないだろうか?
 そうだ。そんなことになっていたら、ぼくは気が狂ってしまっていただろう。晴香を守り、男に戻れば済むことなのだ。ぼくはべつに、願い事なんて惜しくはない。世界征服も、巨万の富も、べつに望みはしないのだから。
 ぼくが望むのは晴香だけだ。その心はもう永遠にぼくの手にとどかなくなってしまったけれど、せめてその命だけは守ってみせる。
 晴香。
 待っていて。いま、ぼくが助けに行くよ。必ず、守り抜いてみせる。
 ぼくは魔法のランプを手に取りながら、とりあえず、女物の私服と下着を買いに行かなくちゃ、と考えた。さすがに、この姿でトランクスは何かが間違えている。そう思わずにいられなかった。

(続く)

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