掌編小説「さがしもの」。


 それは必然であった。
 少なくとも、内藤加奈当人にとってはそうであった。
 いつか、近い将来、そのときを迎えることはわかっていたし、心の底からそれを待ち望んですらいた。
 しかし、そうにもかかわらず、彼女が五階建てのビルから投身自殺を試みたとき、周囲の人間は皆、驚き、慌て、彼女の意思を挫こうとし、それに失敗すると、コンクリートに叩き伏せられた彼女を救命するため、懸命な努力を払ったのである。
 そして、幸運にも、あるいは不運にも、その努力は、成功した。加奈は二度とは元に戻らぬほどぐしゃぐしゃに折れ曲がった右足を代償に一命を取りとめ、なみだする両親に抱きしめられることとなったのである。
 そのとき、彼女の心によぎったものは、軽い失望、そして形容しがたい倦怠感と徒労感であった。ひと言でいえば、彼女は、うんざりしていたのだ。
 しかし、そういってもだれにも理解してもらえないことはわかっていたので、カウンセリングの場では、もっとわかりやすい絶望感を訴えた。優等生であることに疲れていたと、いささか優秀すぎる成績が落ちる恐怖に怯えていたと、ためらいがちに(そう見えるように)訴えてみると、カウンセラーは、心からの(あるいは、そう見えるだけの)共感を示し、でもね、と命の大切さを切々と訴えた。
 退屈きわまりない説教であったが、彼女はそれに耐え抜き、遂にはカウンセラーに抱きついてみせさえして、ふたたび自由を得た。もちろん、足の自由は失われ、一生を車椅子に縛られて生きることになりはしたが、加奈にとって、それはどうでもいいことであった。
 足など、道具に過ぎない。気に入りの綺麗な皿を割ってしまったからといって、いつまでもめそめそと泣く人がいるだろうか。しかも、加奈は、この道具を、大して気に入っていたわけでもないのである。
 そして、春を経て、夏を通り過ぎ、秋を駆け抜け、ふたたび冬と出逢った。
 その頃、両親をふくめた加奈の周囲の人間は、すっかり安心するようになっていた。彼らの目に、加奈は一時の心の暗やみを、自己洞察と反省と努力によって克服したように見えた。
 花の十七歳を車椅子に縛られながら、健気に、明るく、朗らかに生きる、聡明で秀麗な少女、彼らの目に、加奈はそう見えた。呆れたことに、彼らは忘れていたのである。投身自殺を試みる前の加奈も、いまと同じように明るかったことを。
 ようやく、両親の監視の目がゆるんできたので、加奈はふたたび自殺を試みることにした。幸い、両親が揃って留守にする一日があったので、その日をじぶんの命日にしよう、と決定した。
 方法は? やはり、手首を切るべきだろうか? 悪くないが、確実性に欠ける。仕方ない、首を切ることにしよう。そうすれば、まず、確実に死ねるはずだ。加奈は、じぶんの首からあふれ出た血が、床にあかぐろい薔薇を描く光景を夢想して、少し、微笑んだ。ひさしぶりに浮かべる、心からの微笑であった。
 そして、その日。加奈は、自室で、両親に隠れて入手していた包丁を手に取り、さすがに少し陶然としながら――何しろ、自殺未遂からいままでの日々の退屈さに飽き飽きしていたのだ――首筋にあてた。
 それを引こうとした、まさに、そのとき。
 へやのドアをノックする音がした。そのまま、行為を遂行しきっても良かったはずだが、加奈はやはり、躊躇した。いったいだれがノックしたのか、気になったのだ。
 両親ではないはずだ。友人が訪れる予定もない。そもそも、友人たちなら、玄関のチャイムを鳴らさずにここまで上がって来たりしないだろう。では、いったいだれが? 仕方なく彼女は包丁をかくすと、訊ねた。
「だれ? 入ってきていいわよ」
「失礼します」
 加奈は何度か瞬きした。驚いたことに、ドアをあけて入室してきたのは、ひとりの小さな子どもだったのである。歳は十歳前後だろうか。一人前の大人のような格好をしていて、男の子か、女の子か、それすらもよくわからない。子どもは、加奈を見つめていった。
「内藤加奈さんですね? ぼくは死神と呼ばれるものです。よろしくお願いします」
 子ども――死神は、優雅に手を胸に置き、九十度に腰を曲げて一礼した。加奈は思わず「よろしく」と返していた。かれ、あるいは彼女のいうことを理解したわけでは、全くなかったのだが。
 死神は、加奈の動揺にかまわず、言葉を続けた。
「それでは、率直に申し上げます。あなたにいま死んでもらっては困るのです。あなたの命数は、まだ尽きていないんですからね。あなたは、あと四十七年後、喉頭がんで亡くなる予定なんです。それなのに、いま自殺されては、スケジュールが狂うんですよ。いったい、何だって、こんな予定外のことをしようなんて思いついたのですか?」
「あなた――あなた、本当に、死神なの?」
 加奈が問うと、死神はあたりまえのように頷いた。
「そうですよ。この地域一帯の死を管理しています。しかし、それはすべて、スケジュール通りの死で、完全に管理されているんです。病死であれ、事故死であれ、自死であれ、そうです。しかし、あなたはその予定にないことをしようとしている! これは、我々にとっては、非常に困った事態なんです。何十年も先まで決まっているスケジュールが狂うことになるわけですから。いったい何でスケジュールで決まっていない行動に出ようなんて思ったんです? いや、いわないでください。わかっているんです。どうせ、〈真世界〉のことを思い出したんでしょう? あなたたちが天国とか楽園と呼ぶ、あの世界のことを」
「――そうよ」
 ようやくじぶんを取り戻して、加奈は頷いた。
「驚いた! 本当に死神なんているのね。しかも、こんな子どもだなんてね! まあ、天国があるんだから、死神くらいいたっておかしくないか。あなたのいうとおり、わたしはあの世界のことを思い出したの。ある日、突然、すべての記憶が降ってくるように取り戻せていたの。じぶんは元々あの世界にいたこと、この肉体と人生を与えられてここに落とされたこと、何もかも思い出した。で、自力であそこへ戻ることにしたの」
「やっぱり、バグだ。最近、多いんですよね」
 死神はうんざりしたようにため息を吐いた。
「本当はすべての魂は一生、〈真世界〉のことは思い出さないはずなのに、時々、あなたのように思い出してしまうひとが出るんです。〈天使〉どものミスなんですが。そして、〈真世界〉のことを思い出したひとは、たいてい自殺してあそこに戻ろうとするので、我々がやめさせる羽目になるんですよ。スケジュールが狂いますからね。前回の試みは失敗することがわかっていたので、放置しましたが、今回はそうは行かない」
「なぜ?」
 加奈は、これも形容しがたい、狂おしい思いに駆られて、いった。
「なぜ、戻ってはいけないの? ここよりずっと素晴らしい、美しい、何もかも完璧な、あの――」
「わかっています。わかっていますよ」
 死神は何度も頷いた。
「あなたのように完全に思い出す人は稀だが、薄っすらと憶えているひとはたくさんいるんです。そういう人たちは、可哀相に、「じぶんはここにいるべきではない」という違和感を抱えて、一生を過ごすことになります。ひとはそれを才能と呼んだりしますが、とんでもない話です。ただのシステムバグなんですから。さて、申し訳ありませんが、あなたにもそういう人生を歩んでもらいます。これから、あなたの記憶を消させていただくので、薄っすらとした違和感のほか、〈真世界〉のことを思い出せなくなるでしょう。あなたはご希望されないでしょうが、仕方ありません。スケジュールは――あなた方はそれを〈運命〉と呼んだりしますが――絶対なのです。それでは――」
「いや!」
 加奈は叫んだが、無駄だった。死神は、そのまま、ふわっと宙に浮いたかと思うと、彼女の頭に手を翳したのである。それで、それだけで、すべては完了していた。次の瞬間、だれもいないへやにひとりとりのこされていた加奈は、もう、死神のことなど、何も憶えてはいなかったのだ。それどころか、じぶんが自殺しようとしていた理由も、全く思い出せなくなっていた。彼女は、毛布のしたに包丁を見つけると、悲鳴を上げて、それを投げ捨てさえした。あっというまに、彼女にとって、現実は現実の価値を取り戻していた。そう、かすかな、何ともいえない違和感のほかは――。
 加奈が、童話作家として人気を獲得することになるのは、それから十五年も経った頃のことである。何ともいえないふしぎな郷愁をかき立てる彼女の作風は、子どもたちよりむしろ大人のあいだで評判となり、大きくはないが、確実な支持を得た。彼女の童話を読むものは、その悲壮なまでのノスタルジーに涙し、何度となくくり返しページをめくった。
 あるとき、彼女はひとつのインタビューに応じたことがあった。
「何かが欠けているんです」
 そう、加奈は語った。
「何か、大切な――決して失くしてはならないものを失くしてしまっていて、一生懸命、それを探している。そんな気がするんです。時々、ふっと取り戻せそうになるんだけれど、でも、あっというまに見失ってしまってしまう。あなたには、わかりますか? わたしが何を探しているのか。それさえ取り戻せれば、どうすればいいのかわかるはずなんですが、どうしてもわからない。本当に、知っているなら、教えてほしいです。わたしはいったい、何を探しているんでしょうね?」


END