人間の四分類と、ぼくが『ラブプラス』にはまらない理由。


 昨日の夜、スカイプで話した会話が例によっておもしろかった。このところ、次々とおもしろい話ができて、ぼくとしては楽しい。で、例によって、記事としてメモしておこうと思う。

 はじまりは例によってフィクションに耽溺せずにいられない人種の話。ぼくら、そういった人種にとっては、重要なのは「事実」よりも「真実」だよね、という話が出た。

 この場合の「事実」とは客観的に計量可能なファクトのこと、「真実」とはひとの心のなかにしかない主観的な「本当のこと」だ。現実と理想ということもできるだろう。

 で、世の中には、ただ単によくできているという次元を超えて、ぼくら幽明の民を惹きつける作品がある。なぜか。そこに「真実」が描きこまれているからだ、という話になった。つまり、そこには「真実なる世界」があるのだ。

 この場合の「真実なる世界」とは、すべての願望が満たされる楽園を指しているわけではない。どういえばいいのだろう――それは、すべてがより本当である世界なのだ。

 この世界にあるごまかしや虚飾がことごとく剥ぎ取られた世界。すべてがより鮮明な、より若々しい、より燃えるような世界。たとえば、初期の『グイン・サーガ』にはそれがあった、とかんでさんとぼくの意見は同調した。

 そこでは、愛することはより切なく、憎むことはよりどす黒かったのだ。巻数が進むにつれてその濃密さは薄らいでいくのだが、しかし、初期の何十巻かは、紛れもなくぼくが憧れる「真実なる世界」を指し示していた。

 これは、事実として『グイン・サーガ』のどこかしこに矛盾がある、設定の欠損がある、といったことと矛盾しない。たしかに事実として見ればこの作品にはいくらかの欠点があるだろう。しかし、ぼくにとってより重要なのは、そこに真実が描きこまれているということなのだ。

 たとえば『AIR』でも同じことだ。『AIR』の物語を、ただ事実だけ抜き出して見れば、そこにあるものは、病気の少女が死んでしまうというただの哀しいお話だ。何だくだらない、と事実を重視するひとはいうだろう。ただのお涙ちょうだいものか、と。

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 しかし、真実を見晴るかす目で見れば、そこには魂の孤独と、世界との和解の物語が存在するのである。観鈴は周囲とのディスコミュニケーションを抱えた少女であり、理解されることによって救われて死んでいく。真実のレベルでは、この物語はハッピーエンドなのだ。

 むろん、真実とはひとの数だけ存在するものだから、事実のように簡単に共有はできない。しかし、事実よりも真実がより重要な人種も存在するのだ、ということはいっておきたい。

 さて、事実と真実という分け方が可能だとすれば、いずれを重視するかによって、人種を分けることができるだろう。具体的には、以下の四種類の人種が想定できる。

1.事実○ 真実○
2.事実○ 真実×
3.事実× 真実○
4.事実× 真実×

 さらに各人種に名前を付けてみると、このような表になるだろう。

1.真実○ 事実○ アイデアリスト(理想主義者)
2.真実× 事実○ リアリスト(現実主義者)
3.真実○ 事実× ロマンティスト(空想主義者)
4.真実× 事実× ニヒリスト(虚無主義者)

 ぼくとかんでさんは「3」のロマンティスト(空想主義者)である。事実よりも真実が、現実よりも理想が大切な人種。なので、ぼくたちは話が合う。互いの抱える真実を理解しあうことができるのだ。

 ぼくはかんでさんを通じて『AIR』の真実を見ることができたし、かんでさんはぼくから『グイン・サーガ』の真実を学んだ。たがいに得るものが大きい関係である、と感じている。

 もっとも、同じロマンティストとはいっても、かんでさんはぼくよりもっと「真実寄り」だろう。かれにとって重要なのは真実だけで、事実は全く重要ではないのである。

 したがって、かれにとって『AIR』は全く悲劇ではない。事実として観鈴が死んだということは、かれにとってはたいして重要ではない。魂の救済という真実のプロセスこそが重要なのだ。

 さて。知人でいうと、ペトロニウスさん(id:Gaius_Petronius)とかs(id:skerenmi)さんあたりはアイデアリストなのではないか、という話も出た。

 ペトロニウスさんが事実と真実の双方を追求していることはいうまでもない。が、もっというなら、ペトロニウスさんが『Fate』の遠坂凛を偏愛する理由はここにあるのではないか、とぼくは思う。凛もまた、優れたアイデアリストだからだ。

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 彼女はリアリスティックに行動しようとするが、心には理想の炎が燃えている。そして、ロマンティストである衛宮士郎やセイバーを愛し、桜のニヒリズムを嫌う。ペトロニウスさんは、同じアイデアリストとして、凛に共感を覚えているのではないか。

 また、sさんは物語に「祈り」を求めるという。かれは事実を重視するから、物語のなかにご都合主義的な奇跡が起こることを許せない。現実ではそんなことはありえないではないか、と考える。

 しかし、同時に真実をも重視しているから、そこに理想がなければ魅力を感じない。そこで、奇跡が起きない非情な世界に、なお「祈り」だけはある、というヴィジョンを好むことになるのだ。

 sさんが『ディバイデット・フロント』を偏愛するのは、その意味では当然のことである。あれはまさにアイデアルな作品だからだ。

 逆にくろさん辺りはリアリストなのではないかと思う。かれにとってより重要なのは、共有可能な「事実」である。だから、かれが賛美するのは、事実として優れた作品、たとえば『ハイペリオン』であり『氷と炎の歌』ということになる。

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 ニヒリストは? これは「Something Orange」には集まって来ないだろう。なぜなら、「Something Orange」はロマンティストのブログだからである。ニヒリストは高みからロマンティストの無邪気を笑うことをこそ好む。したがって、かれらは2ちゃんやブクマで「Something Orange」を非難することだろう。

 で――先ほどのように、フィクションのキャラクターをこの四分類にあてはめてみるとおもしろい。

 たとえば、司馬遼太郎の『燃えよ剣』。近藤はロマンティスト、土方はリアリスト、沖田はニヒリスト、とみごとに分かれる。

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 もっというなら、『コードギアス』はさらにわかりやすい。ルルーシュはアイデアリスト、スザクはロマンティスト、シュナイゼルはリアリスト、シャルルはニヒリスト、である。

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 ルルーシュはアイデアリストであるが故に理想を信じ、「明日」を選び、シュナイゼルはリアリストであるために「今日」を、現状維持を選択し、ニヒリストであるシャルルは「昨日」を選び取った、ということがわかる。

 いくらでも例が浮かぶのだが、『SWAN SONG』でいうと、司はアイデアリストで、柚香はリアリストだ。司は理想と現実を一致させようと苦闘するが、柚香はそのかれに向かって現実はそう巧くはいかない、と囁きかける。

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 柚香はニヒリストだ、という見方もあると思う。しかし、ぼくはそうは思わない。彼女はあくまでリアリストであり、だからこそ司のアイデアルな行動を嫌うのだ。

 また、『グイン・サーガ』のアルド・ナリスというキャラクターは、ひとりでこの四つの分類にあてはまる人格を使いこなしていた、という凄まじいキャラクターである。

 かれは通常はリアリストとして振る舞う。そして親しくなったものにはアイデアリストとしての顔を見せる。しかし、それすらも実は仮面であり、この仮面に騙されないヴァレリウスにだけはニヒリストの顔を見せる。だが、かれ自身すらも自覚していないことには、その裏には、さらにロマンティストの顔がある。

 そして、リアリストであるスカール黒太子はひと目でナリスのニヒリストの顔を見抜き、かれを嫌うが、アイデアリストであるグインはその奥のロマンティストの顔までも見通す。

 このように、上記の四分類を頭に入れておくと、現実の人物も、フィクションのキャラクターも、非常に楽に把握することができる。お勧めである。

 さて、作品そのものにも、事実を重視する作品と真実を重視する作品があるだろう。ここでは、事実を重視する作品をリアリズム、真実を重視する作品をファンタジーと呼びたいと思う。

 この分類でいうなら、『AIR』は全くのファンタジーである。ロマンティストであるかんでさんが愛するのも当然のことだ。対して、リアリズムの作品である『キラ☆キラ』をかれが好まないのも、全くあたりまえの話だ、ということになる。

 そして、何度も名を挙げている『グイン・サーガ』という作品は、初め、ファンタジーとして始まった。これは、怪物が出てくるとか、魔法が登場するといった意味ではない。より「真実なる世界」を描こうという傾向がつよい作品として始まった、ということである。

 しかし、それは、次第にリアリズムへと移行していく。その時点で、ロマンティストであるかんでさんの、作品への「接続」は絶たれる。これも当然すぎるほど当然の話。

 だが、もう少し「事実寄り」のロマンティストであるぼくや、アイデアリストであるペトロニウスさんは、それでも作品への「接続」が絶たれなかった。それもまた、自然なことなのである。

 さて、ここで時おり非難を受ける栗本薫のボーイズ・ラブ作品の話になる。栗本はさいごまで、商業的にはより実入りの少ないBL作品を書くことをやめなかった。それどころか、彼女の代表作である『グイン・サーガ』すら、その題材に選んだ。なぜか。

 ニヒリストならいうだろう。栗本はやおい好きのあまり、妄想と現実を区別できなくなったのだ、と。ロマンティストであるぼくはそうは考えない。こう考える。BLとは、彼女にとって、最大のファンタジーに他ならなかったのだ、と。

 長大な『グイン・サーガ』がリアリズムに移るにつれ、おそらく、彼女のなかは、ファンタジーを書きたい、というフラストレーションがたまっていったのだろう。そして、書いた。

 何度もいうが、ここでいうリアリズムとファンタジーとは、その世界設定などのことではない。世界設定の話でいうなら、『グイン・サーガ』はさいごまでファンタジーであるし、BL作品は、一応現実世界を舞台にしているという意味において、リアリズムである。

 そうではなく、ぼくはその世界の根底にある「理」の話をしているのだ。ファンタジーにおいては、奇跡は起こる。不幸なシンデレラは救われる。醜いあひるの子は白鳥に成長する。しかし、リアリズムにおいては、奇跡は起こらない。現実は、どこまでも白々と、現実であるままだ。

 BL作品は、栗本にとって、ひととひととの完全なる相互理解、という奇跡が起こりうるファンタジーの世界であった。なるほど、事実だけを見るなら、それはただ男同士のセックスを延々と描いただけの作品である。しかし、真実においては、そうではない。それは、存在の生存闘争と、魂の救済の物語だったのだ。

 くり返す。ぼくはロマンティストである。だから、その作品が真実の世界を描いているかどうかこそ、重視する。かんでさんほど極端に真実だけを見ているわけではないが、真実が描かれていない作品には、あまり心惹かれない。

 『ラブプラス』では満足できないのはそのせいだ。『ラブプラス』は事実の欠乏を補填する。しかし、真実を満たしてはくれないのだ。

ラブプラス

ラブプラス

 ぼくの物語、ぼくの真実、それはたしかにある。しかし、その世界は、「愛がなければ見えない」。故に、ぼくは愛することをやめないだろう。

「さようなら」とキツネがいいました。
「さっきの秘密をいおうかね。なに、なんでもないことだよ。心で見なくちゃ、ものごとはよく見えないってことさ。かんじんなことは、目には見えないんだよ」

星の王子さま―オリジナル版

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