ロマンティスト宣言。


 先日の夜、例によってスカイプで長話したのだけれど、これがおもしろかったので、とりあえずメモしておく。

 さて――何をどう書いたらいいだろう、話のきっかけはLDさんが書いた二本の記事だった。

http://blog.goo.ne.jp/ldtsugane/e/3b6faa922eec158b89c0e4f65c711feb
http://blog.goo.ne.jp/ldtsugane/e/c213e7526f8d40d76c1e59888058822a

 NHK放送の『坂の上の雲』と絡めて、「政治」と「物語」について語った記事である。

 一見すると、ある政治的見地から、『坂の上の雲』を擁護しているようにも見えるが、そのように受け取るべきではないであろう。

 これは、ひとつの史観、ひとつの政治思想を墨守しようとするような記事ではなく、むしろどのような思想からも、「物語」の豊かさを守り抜こうとする記事である。

 自身深く「物語」の魔力に心捕らわれているぼくとしては、心打たれる内容であった。しかし、同時に、思わずにはいられなかった。この記事の趣旨を心底理解し、賛同し、共感するひとは、やはり稀であろう。と。

 というのも、「物語」の豊かさ、おもしろさと、「現実」の重さとを天秤にかけたとき、「物語」を、「幻想」をわたしは選ぶ、と宣言する人は、やはり少数派であろうと思うからである。

 大半のひとは、やはり、「現実」こそが重要なのだ、否、それこそがすべてなのだ、と考えるもののようである。

 が、我々幽明の住人、幻想と現実の境をまたぎ越える旅びとたちにとっては、「物語」はきわめて重要である。それは、ただ単に話の筋がおもしろい、興味深い、あるいは、一個の芸術作品としてよくできている、という次元を超えたところでそうなのだ。

 いうなれば、我々にとって物語とは、生きる糧、からだではなく魂を活かす架空の酸素にほかならぬ。

 それにしても、なぜ、我々はこうも「物語」を求めずにはいられないのだろう? 何が、我々をして、「物語」のその波乱万丈の世界、あらゆるものが激しく、ものすさまじく、すべての人が活き活きと冒険の道を闊歩している、そんな世界へ誘い込むのだろう?

 ぼくは長いあいだ、疑問に思っていた。いまにして思う。おそらく、それは、我々が不完全であるためなのだと。おそらくは我々は、生まれたときから何かしら魂の欠落を抱えているのだ。

 何かが欠けている――その思いは、ぼくの場合、幼い頃からあった。じぶんには、じぶんをじぶんたらしめる何かが、致命的に欠けている、という、曰くいいがたい思い。それは成人し、いささか成長し、また成熟しても変わることはなかった。

 ぼくは常に「物語」に飢えていた。「幻想」に渇いていた。一冊を読めばもう一冊、一作を味わいつくせばまた新たな一作、と求めずにはいられなかった。

 それは評論家が美味なる作品を味わい、楽しむのと似て、実は全く異なる行為であるのだと、いまならわかる。ぼくにとって、それは趣味などではありはしなかった。人生の余裕の産物などであろうはずもなかった。

 ただ、ぼくは、魔女の呪いに捕らわれたひとのごとく、「もっと」と望まずにいられなかっただけなのだ。もっとおもしろい、もっとすさまじい、もっと狂おしく、もっと偉大な、あるいは純粋な物語を、もっと!と。

 それはぼくにとってまさに血を吐く叫びであった。だから、ぼくは、必ずしも一般にいう優れた物語、秀でた作品のみを賞用してきたわけではない。

 いかに巧みに拵えられていても、ぼくのいう魂の飢餓を満たさない作品もあるし、逆に、技巧の面では未熟、稚拙であっても、ふしぎと飢えを癒やしてくれる作品もあるのだ。

 だから、ぼくは優れた批評家とはいえないだろう。けっきょくのところ、ぼくは単なる「読みたがり」の化け物、幼く、未熟な魂を抱えた、「もっと」の化身に他ならぬのかもしれぬ。

 それは、おそらく、正しく十全な魂をもって生まれたひとにとっては、あるいはその欠落を現実の出来事で埋められるひとにとっては、正しくは理解してもらえないことであろう。しかし、たしかにそうなのだ。我々は、「物語」なくしては生きてはいけないのだ。

 なぜなら、我々が求めてやまぬ真実なるものは、「物語」のなかにしかないからだ。それは全き理解であり、完全な愛であり、炎のような狂恋であり、あるいは、世界を燃やす野心である。

 とにかく、この世の則に収まりきらないものをこそ、我々は求めてやまない。

 LDさんがいいたいことも、ぼくはそのような文脈によって受け取った。

 つまり、政治と歴史の大問題を解決せんとするその道の研究者たちにとっては、「物語」は、たかが「物語」に過ぎないかもしれぬ、それよりも遥かに大切に思えることがあるかもしれぬ。

 しかし、我々にとっては――幻想界の放浪者にとっては、それはまさに生死にかかわる(もちろん、魂の生死のことだ)大問題なのだ、と。

 我々はいうだろう。豊かな物語世界なくしては生きていくことはできない、と。肉の身はむろん生きながらえることができるだろう。しかし、心は、魂魄は死ぬのだ、と。

 それは我々にとって単なる事実である。ひとはパンのみにて生きるに非ず、と古人はいった。それは全くの真実だ。そしてまた、ある種の人々は、そのほかの「現実」の、それなりに豊かな物事ですら満足できないのだ。

 富貴でも栄光でも、あるいは愛でも真実でも、満たされることができないのだ。なぜなら、それらは、すべて「現実」のサイズに見合ったかたちにカットされているからだ。

 その種の人々は、愛を求めるなら、本物の愛しかいらない、と考える。一切の不純物のない、純粋な愛しか欲しない、と思う。完全なる理解、世界との一切の妥協なき和解、そんなものを彼らは求める。

 むろん、彼らの理性は、それが不可能ごとであることを知っている。そんなものはこの世にありえないことを知り尽くしている。それはこの世界にあっては「奇跡」と呼ばれる出来事であるのだと。

 だが――だが、それでも彼らはそれでなくては充足しえないのだ。むろん、彼らも世間のほかの人々と同様、あたりまえの日常生活を送るだろう。そして、そこに何かしらの価値を見出し、それなりに満足することだろう。彼らもまた、幸福と充足と、そして癒やしをしることだろう。

 けれど、彼らはそれでもなお、やはり飢えたままであり、欠けたままなのである。なぜだろう。なぜ、彼らはそうなのだろう。それはわからない。とにかくひとついえることは、彼らの――否、ぼくらの胸は、「物語」と、そのファンタジーによってしか満たされえないということである。

 リアリズムでは、だめだ。現実では、ぼくたちを満たすことはできない。現実を直視しきった先に見える「奇跡」が、どうしても必要なのだ。

 それは、理解できた、あるいは理解された、という至福の思いであるかもしれないし、あるいは、世界のなかで、連綿たるつながりのなかにじぶんはある、という、歴史感覚の実感であるかもしれぬ。が、とにかく、ぼくたちは、現実の果てに「奇跡」を求めてやまない住人なのだ。

 以前、かんでさんと、昨今のオタク漫画、『げんしけん』や『ヨイコノミライ!』への違和感を語ったことがあった。それは、けっきょく、じぶんは違う――という、苦い思いに他ならなかったのであろう。じぶんは違っている、この人々とは異質だ、というその苦すぎる思い。

 なぜなら、けっきょく、その作品のなかの人たちは、現生の理のなかで、幸福と充足とを見出しえる人種であるように思えるからだ。

 彼らは、恋と、仕事と、仲間と、あと趣味さえあれば、十分に幸福に生きていけるように見えた。その価値観はやはり世間では受け容れられづらいものであるかもしれぬ。しかし、彼らには彼らなりのコミュニティがあり、「世間」があり、つまり世界がある。彼らの飢餓は、よりカジュアルなアイテムで十分に埋められえるものに見える。

 ぼくは違う。ぼくたちは、違う。そう思わずにはいられなかった。ぼくの魂は、それでは満たされえない。ぼくの病は、それほどに重い、と。

 あるいは、それらすべての思いは、単なる自己愛の一種、自己を特別な選民のたぐいと見る幼いナルシシズムに過ぎないと笑われるだろうか。

 そうかもしれない。そうでないといい切るほどの確信はぼくにはない。けれど――ああ、いまもぼくの心は飢えている。「もっと」と叫びつづけている。

 なぜかは知らず、ぼくはそのように生まれた。そして、この世に少数ながら仲間がいることを知った。だから、ぼくはきょうも生きている。これからも、生きていける。

 胸の欠落が埋まる日は来ないだろう。しかし、ぼくはひとりではない。そして「物語」がここにある。ここにあって、その優しい歌ごえでぼくを慰めてくれる。

 ぼくの物語、ぼくを癒やすふしぎの小夜啼鳥よ、ぼくに世界を見せてくれ。この現実の灰色の世界ではなく、すべてが原色で、より激しく、より活き活きとした真実の世界を。ぼくはそれなしでは生きていくことはできないのだ。

 あるいは、そのすべては、心あるひとにとっては、愚かしい現実逃避としか見えないかもしれぬ。それならそれで良い、逃避できるものなら、ぼくは、世界の果てまでも、その彼方までも逃げつづけることだろう。現実を嫌っているのではない、ただ、それだけでは満たされえないのだ。

 そしてぼくは眸をとざす。今宵も、ふしぎな反世界の夢を見れますように。夢のなかでだけ、ぼくは生きているのだ、とそう思いながら、きょうも、ぼくは生きていく。