社会VS個人。

 以前、「竜馬がゆく」についてメールを送った者です。


 その後の「いつまでも少年のように」の記事や、「非モテが死にたくなっても〜」の記事がとても参考になりました。


 竜馬については改革の正当性だけではなく、純粋動機に基づいて行動していたのやも・・と考えております。私の思い込みという可能性もありますが。


 私的意見ですが、バレエ漫画『昴』の昴ちゃんがひたすら表現しつづけるのも純粋動機にとり憑かれているからではないか、と思います。


 その上で、「天才だか、アートだか知らねえが、迷惑なものを撒き散らしやがって! いいかげんにしろ、コラ!」と叫んでくれるようなキャラクターに登場してほしいと思いました。


 天才やアーティストの類が自分の道を追求する動機は自然なことだと思いますが、ならば、その行為が別の動機に基づく行動によって打破されることも自然なことであると考えます。


 例えば、件の昴ちゃんが絶望の踊りを踊っていたとして、それに耐えきれなくなった人が昴ちゃんに石を投げたとする。


 私は石を投げるという手段は絶対的に否定しますが、石を投げたくなる気持ちは自然なものだと思うのです。投石以外の上等な手段で絶望ダンスの邪魔をしたならば、(昴ちゃんや彼女のファンは憤慨するかもしれませんが)それもまた自然な結果だと思います。


 スティール・ボール・ランについての記事にも類似の考察記事があったような気がしますが、とりあえず、私の考えです。長々と失礼しました。

 非常におもしろい問題ですね。このあいだスカイプで『シャカリキ』について同じようなことを喋りました。全く賛成は得られませんでしたが(笑)。

 ようするに、「個人」が「社会」と対立するとき、どちらを優先するべきか、ということだと思うんですよ。

 このあいだ曽田正人め組の大吾』を読み返したんですが、この作品の主人公は、自分のレスキューの才能が必要とされるのは、災害が起きたときだけであることと悩みます。自分の能力が必要とされるとき、そこには必ず悲劇が起きているのだと。

 しかし、この場合ですら、何だかんだいっても、「個人の動機」と「社会の利益」は一致している。大吾の行動は社会の利益に適っているのです。

 同じ曽田さんの『シャカリキ』や『昴』でもそうです。すれすれのラインではありますが、主人公の天才は、基本的には、人々を鼓舞し、社会に活力を与える性質のものとして描写されている。

 しかし、仮に同じような天才がもっと反社会的な動機を抱いたとしたらどうでしょうか? 森博嗣黒猫の三角』において、幼い少女を殺した犯人は、こうのたまいます。

「殺してみようかな、とふと思ったんですよ。(中略)そう、理由なんてありません。動機なんてないんです。だからこそ人間だ。ぼくは人間だ。違いますか? こんなことができる。それが人間の証しではありませんか?」

 つまり、ひとを殺すということが、この犯人の「純粋動機」だった。これは、あきらかに反社会的な行動です。

 しかし、それもまた、「人間の証し」であることもまたたしかなんですね。アートや運動、高度な学問など、生存に関係しない無意味なことに没頭することがまさに「人間の証し」であるように。

 もちろん、それが反社会的な行為である以上、「社会」はその「人間の証し」を圧殺しなければならない。これは当然のことです。しかし、「人間の証し」を圧殺するような「社会」は正しいのでしょうか?

 おそらく、正しいのだと思います。「社会」もまた、「社会」のエゴによって動くものなのだから。ただ、それでもなお、「個人」が自分の「個」を押し通そうとしたとしたら……。そこに、ドラマが生まれるのでしょうね。