非モテが死にたくなってもべつにいいんじゃね?


 少し前の話になるが、id:GiGirさんが映画『サマーウォーズ』を正面から批判していた。

 ぼく自身はこの映画を非常によく楽しんだので、異論を書くつもりだったのだが、巧くまとめられずにいるうちに、id:north2015さんが秀逸な感想記事をアップされた。

 ぼくはこの記事に全面的に賛成する。ただ、「賛成!」と挙手するだけでは芸がないので、ちょっと違う側面から書いてみたいと思う。

 さて、id:GiGirさんはこの映画に一定の評価を与える一方でこう評している。

 その一方でこの映画は、いわゆる非コミュ的問題を抱えた人や家族という形態に不信感を持つ人たちのアレルギー的な拒否反応を呼んでいる。そういった心象を持つ人たちが仮託すべきキャラクターがちゃんと用意されているにも関わらず。この映画の抱える欠陥の根はここに見ることが出来る。

 ここでいう「アレルギー的な拒否反応」とは、たとえばこのようなものであると思われる。

ちくちくと現実風味を効かせて来やがるくせに、


気付けば結局、世界を救うのは世界レベルの才能とコネあらばこそ。


そうでなくともオタク部に一輪の美人のセンパイ。東大、留学、甲子園。仲の良い大家族。


俺にはなーんもなかったなあ。


いい映画だよ。いい映画なんだよ。なのに吐きそう。


何この「耳をすませば」を凌駕する非モテ殺戮映画。(参考:「耳をすませば」「自殺」でGoogle検索)

 ぼくはこのような見方に賛成しない。というより、あまりに一面的な見方であると思う。

 この書き手はいう。

そうでなくともオタク部に一輪の美人のセンパイ。東大、留学、甲子園。仲の良い大家族。

 しかし、かれは、たとえば「東大、留学」のその裏にかくされた侘助の孤独を見ない。侘助と祖母栄とのあいだのコミュニケーション齟齬を見ない。たがいに愛しあい、思いあいながら、どうしようもなく傷つけあってしまうその切なさを見ない。

 つまり、かれは物事のプラスの側面しか見ず、マイナスの側面を無視するのである。これでは、映画の半分を見ていないに等しい。

 そしてまた、もし、自分より幸福な人物が出てくる映画を見て非モテの自分を哀れむことが正当だとすれば、論理的にいって、自分より不幸な人物が出てくる映画を見たときは、「ああ、ただの非モテで本当に良かった!」という反応が出てこなければおかしいはずである。

 そういう見方があるべきだ、といっているのではない。その理屈でいえばそういう見方が出てこなければおかしい、ということだ。

 しかし、そんな反応は見たことがない。ようするに、相手が自分より幸福だと思い込めるときだけ、映画と自分を比較する見方を持ち出すだけのことではないか。

 そもそも、それ以前に、仮に『サマーウォーズ』が「非モテ殺戮映画」であったとして、それは悪いことなのだろうか。

 そうは思わない。ぼくがこの記事を読んで思い浮かべたのは、曽田正人のバレエ漫画『昴』の一場面である。

 ある理由で刑務所に慰問に訪れた主人公昴は、そこで人生の歓喜を余すところなく表現するバレエを踊り、その先何十年もそこを出られない受刑者たちを絶望に落とし込む。

 そして昴は、そこでどれほどの阿鼻叫喚の地獄絵図がくりひろげられようとも、踊ることをやめようとはしないのだ。アートとは、表現とは、本来、こういうものではないだろうか。

 映画のなかである幸福な人物を描くとき、持たざる者に遠慮して、そこそこの描写でやめておこう、などと考える者がいるとすれば、その人物は本物ではない。たとえ見るものを絶望させるとしても、自分にできる最高の表現をするべきである。

 だから、ある映画を見ると死にたくなるというなら、そうなってもらうしかない。それは映画の問題というより、映画を見る者の問題であるように思う。

昴 (1) (ビッグコミックス)

昴 (1) (ビッグコミックス)