いつまでも少年のように残酷でありたい。

FLIP-FLAP (アフタヌーンKC)

FLIP-FLAP (アフタヌーンKC)

 これもペトロニウスさんが紹介していた一冊。めちゃくちゃおもしろかった!

 たぶん、ぼくは、これからも、折にふれてくり返しくり返しこの本を読み返すことになるだろう。それくらいスペシャルな作品である。いや、本当にすばらしい。

 物語は、「何もかも普通」の主人公がある女性に告白するところからはじまる。彼女は条件付きでかれの言葉を受け入れる。あるゲームセンターに置かれているピンボールマシンのハイスコアを抜いたら付き合ってもいいというのだ。

 主人公はしかたなくピンボールをはじめるが、次第にその奥深い世界に熱中していく。ペトロニウスさんはこれを「充実」の物語だと書いている。

この物語の脚本の構造は、この2つだけです。


1)彼女と付き合いたい


2)そのためにはUFOという人のスコアを超えること。


そして、短いながらよくテーマをうまくリンクさせているなーと思うのは、まず1)が目的だった主人公が、ピンホールにハマっていき、いつしか2)が重要な目的になっていきます。やればやるほど、この最高得点を叩き出したUFOという人のレベルは高いことがわかり、あきらめかけもするのですが・・・・いつの間にか、主人公は、UFOに勝つことも、彼女の付き合うことも、それはそれで目標なのですが・・・「ピンホール自体をやることを楽しむこと」それに「没頭していること」が楽しくなってきてしまいます。


そう、いつのかにか2)の目標が、


3)ピンホール自体を楽しむこと、その瞬間に没入していることにはまること


にスライドしていくのです。

 全くその通りで、付け加えることはない。

 主人公は、初め、愛する「山田さん」と付き合うという功利的な目的のためピンボールマシンへ向かう。しかし、日々、ひたすらにマシンと格闘するうちに、次第にかれの目的は「ピンボールそのもの」へとスライドしていく。

 いまどき、ピンボールでハイスコアを叩きだせるようになっても、何の意味もないし、自慢にもならない。そのことは作中でくり返し語られる。

 それでも主人公はピンボールに熱中する。やがて、かれのなかで山田さんと付き合うという当初の目標すら副次的なものになっていく。なぜか? こたえはひとつ。「楽しいから」!

 そして「何もかも普通」だったはずのかれは、極限の集中力を駆使してピンボールマシンと格闘する「変」な男へと変わっていくのだ。

 いうなれば、かれは、世間的価値観が支配する世界から、個人的価値観が支配する世界へと移り住んだのだといえる。

 こういった何の意味もない、何の役にも立たない目的に対する情熱を、ぼくは、「純粋動機(ピュアモチベーション)」と呼びたいと思う。

 純粋動機の定義は簡単である。それは何の役に立つのか、何の意味があるのか、と尋ねられたとき、何の役にも立たないし、何の意味もない、と答えなければならないような目的へ、それでもなお人を駆り立てる動機、それが純粋動機である。

 入江さんと話しているとよく「狂気」という言葉が飛び出すんだけれど、これはぼくのいう純粋動機と同じものだと思う。

 ひとの心のなかには、無意味な選択へ駆り立てる狂気が眠っている。それは理性を超越した子供じみた衝動だ。

 子供の頃は皆、純粋動機の世界に生きている。子供のすることの大半は何の役にも立たないことである。しかし、歳を取り、大人になるにつれ、次第にひとの動機はより功利的、社会的なものへと変わっていく。そうでなければ生きていけないからだ。

 たぶん、それが大人になるということなのだろう。しかし、なかには、年齢的には大人になってもなお、高い純度の純粋動機を保持している人間もいる。

 そういう人間は、ある意味、大人の皮をかぶった子供であるといえる。ひとはしばしば強烈な純粋動機のもち主を天才と呼び、称えるが、じっさいには才能の問題ではないのである。

 そしてまた、純粋動機は社会と対立することがありえる。田中芳樹の『マヴァール年代記』にヴェンツェルという名の人物が登場する。

 マヴァール大帝国の大貴族であるかれは、その上の位、つまり帝位を欲し、さまざまな陰謀を巡らし、最終的には国を真っ二つに割る内乱をひき起こす。

 で、おもしろいことに、作中、このヴェンツェルの動機の根源は全く描かれない。かれは広大かつ強大な帝国で皇帝に次ぐ権力と財力のもち主であり、本来なら帝位簒奪などという危険な賭けに乗り出さなくても良かったはずなのだ。

 もしかれが皇帝カルマーンと協力していれば、帝国の版図を地の果てまでも拡大することも可能だっただろう。功利的、打算的に考えれば、それこそが最善の選択だったに違いない。そして、ヴェンツェルは作中、最も怜悧な知性のもち主として描写されている。

 しかし、それでも、かれはあくまでも玉座を欲す。なぜか。それほどに権力がほしかったのか。二番手であることに甘んじられないほど誇り高かったのか。おそらく、違う。ようするにヴェンツェルはただ王様になってみたかっただけなのだ。それがかれの純粋動機だったのだ。

 ヴェンツェルのその野望のために、マヴァール帝国はいったん亡び、何十万という無辜の人々が死ぬことになる。英明なヴェンツェルはむろん、その重さを知っていただろう。知ってなお、帝位簒奪を目指し、行動せざるをえなかったのである。

 倫理的に見ればヴェンツェルの行動は「悪」であるに過ぎない。しかし、倫理を超えたところで、その野望はある種のひとの心を打つ。

 この子供じみた野心の描写こそが、田中芳樹という作家の本質であるとぼくは信じる。その意味で、かれは全くモラリスティックな作家ではない。そして、それと同時に、真の意味でアーティスティックな作家である。

 ここらへん、少し前に話題になったロックスミス問題(『プラネテス』に登場するロックスミスという科学者への倫理的批判に端を発する一連の議論。ここにまとめられている)とも絡んでいる。

 作中、ロックスミスは「宇宙船を飛ばしたい」という強固な純粋動機のもち主として描かれている。そのために、かれは数百人もの人間の命を犠牲にし、それでもなお、目的へ向け進み続ける。まさに「悪魔のような男」であり、作中でも多くの人々から非難される。

 『プラネテス』を批判する人はこのロックスミスが美化されすぎていると語る。本来、そういう非道はもっと卑小なものであり、そういうふうに描くべきなのだと。

 そうだろうか。その理屈でいうなら、『ベルセルク』のグリフィスなどももっと格好悪く描かれなければならないことになるだろう。

 かれは「ミッドランド王国の王になる」という目的のために、忠実な部下である鷹の団を皆殺しにしている。それなのにグリフィスは颯爽とした天才として描かれている。

 グリフィスはもっとかっこ悪く描かれなければならない。そんなはずはない。ある人物が倫理的に悪であるということと、審美的に醜悪であるということは別のことである。

 あたりまえだが、悪人が皆、矮小に描かれる必要はない。テレビの2時間推理ドラマじゃあるまいし。

 議論の発端となったid:sarutoraさんのブログでは、『DEATH NOTE』の夜神月ロックスミスが「ダークヒーロー」として重ねあわされて語られている。しかし、ぼくは両者には大きな差異があると感じる。

 単純なことである。夜神月は自分の正義を信じ込んで毛ほども疑わないのに対し、ロックスミスは対照的に自分の正義を全く信じていない、ということ。

 ロックスミスが正義を主張する場合、それは方便なのである。かれにとって最も大切なものは自分自身の純粋動機に過ぎないが、しかし、その純粋動機を社会で通すためにはそれが社会的利益と一致しているかのように見せかける必要がある。だから、かれは方便を使いこなす。

 その意味でこの男は詐欺師でもある。きわめて危険な人物であり、倫理的に非難を受けるのは当然だろう。また、個人的な趣味として好かないということも自由である。

 しかし、だからロックスミスは審美的に醜悪に描かれるべきだ、ということにはならない。

 あるいは、『プラネテス』が道徳の教書なら、ロックスミスはもっと卑小に描かれるべきかもしれない。教科書は教育のための道具だからである。しかし、じっさいには『プラネテス』は教育の道具ではない。ぼくは一芸術作品としての『プラネテス』を支持する。

 これは、純粋動機に依拠する行動こそが倫理的、政治的に正しいといっているのでは全くない。正しくなくても、愚かしくても、そういうものはあるのであり、時にひとの心を打つこともある、といっているのである。

 倫理や、社会や、政治がすべてではない。人間は、それらすべての前に、人間である。

「私は砂浜を散歩する子供のようなものである。私は時々美しい石ころや貝殻を見つけて喜んでいるけれど、真理の大海は私の前に未だ探検されることなく広がっている」

プラネテス(1) (モーニング KC)

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マヴァール年代記(全) (創元推理文庫)

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ベルセルク (1) (ヤングアニマルコミツクス)

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