『サマーウォーズ』と『東のエデン』はコインの裏表なのかもしれない。


 以下、『サマーウォーズ』と『東のエデン』の決定的なネタバレがあります。

「不たしかな情報や 自分にとって都合のいい噂で 簡単に自分の意見を変えてしまう無責任な大多数 滝沢くんはいちばん守りたかった人たちに裏切られ絶望し それで記憶を消すしかなかったんだよ」

 このあいだ、例によってスカイプで話をしていて、『サマーウォーズ』のクライマックスの話になった。

 ネットの仮想都市OZをゆるがす大事件の最中、ヒロイン夏希は、自分と家族のOZアカウントを賭けて、無敵のAI「ラブマシーン」に挑む。しかし、一瞬の油断が命取りとなり、絶体絶命のピンチに追いやられる。

 そのとき、世界中の人びとが自分のアカウントを差し出し、夏希に協力してくれる。「わたしたちの大切な家族を守ってください」というメッセージとともに。

 感動的な名場面。しかし、べつの見方もできるのではないか、という話になったのだった。

 つまり、ここで夏希にアカウントを差し出した人々は、自分で事件を解決しようと努力するのではなく、夏希にすべての責任を押し付けて自分は傍観者の位置に回っただけだ、という見方もできる、ということ。

 映画では人々の意思を託された夏希がみごと逆転勝利を遂げるわけだが、もし、ここで彼女が敗北していたらどうなったか?

 おそらく、彼女は世界中の人々から糾弾されることになっただろう。本来、アカウントを託した時点で夏希にじぶんの権利を委任しているわけで、彼女には責められるいわれはない。

 しかし、それでもなお、「傑出した個人」を責めることによって自己満足に耽るのが大衆である。おそらく、そういうことになっただろう。

 『サマーウォーズ』のなかでそういう大衆の負の側面を感じさせるのは、カズマ少年が操るキャラクター、「キング・カズマ」にかかわる描写だ。

 キング・カズマがラブマシーンに敗北すると、有象無象の群集はかれに向け罵詈雑言を浴びせかける。ある日の英雄が別の日には敗残者として軽侮される、そのネットの現実をよく表現した場面だと思う。

 そして、いざ、ラブマシーンがOZを崩壊させようとするそのときになると、かれらはキング・カズマの名を呼ぶのだ。大衆の底知れない身勝手さが垣間見える。

 しかし、『サマーウォーズ』は、そういった描写を挟みながらも、さいごにはネットと人間関係の賛歌を高らかに謳い上げる。

 ネットには、いや、すべての人間関係には、正の側面と負の側面がある。『サマーウォーズ』はこの負の側面を極力見えないように演出している映画だといえるだろう。

 反対に、大衆と人間関係の負の側面に焦点をあてたのが『東のエデン』である。

 この物語には「救世主」たることを求められた12人の男女が登場し、100億円の電子マネーで日本を救うことを求められる。キーワードは「ノブレス・オブリージュ」。選ばれた者の高貴なる義務を意味する言葉だ。

 その12人の「セレソン」の一人である滝沢は、あるとき、他のセレソンが行ったミサイル攻撃から大衆を救い出すものの、その大衆に裏切られ、絶望する。

 そして、自分自身にすべての敵意と憎悪を集めるよう操作し、記憶を消してしまう。かれはいう。「この国には頭のいい連中はいっぱいいるのに、損な役回りをする奴がいないんだ」と。

 この展開は『攻殻機動隊 S.A.C. 2nd GiG』終盤における「水は低きに流れる」という言葉を引きずっているようにも思う。

 水が低いところに流れるように、ひとの心も安易な方向に流される、そういうものだ、という意味である。

 『東のエデン』でも「水は低きに流れた」。大衆はより安易な選択肢を選んだのだ。ここには、「個人」として「名もなき大衆」から突出した人間が、その大衆によって足をひっぱられるという構図がある。

 これは現代の実相をよく反映した展開だと思う。現代社会において、「傑出した個人」であることは、散々に責められ、嬲られ、足をひっぱられるリスクを抱え込むことを意味する。

 「名もなき大衆」の一員であるほうがはるかに楽なのだ。大衆は「傑出した個人」の力を必要としながら、かれらを妬み、憎むものだから。

 しかし、当然、集団から傑出することが過剰にリスキーであるような社会は不健全である。我々の社会は、「傑出した個人」の力によってこそ、前進する。

 『東のエデン』テレビ版のクライマックスで、滝沢は「この国の王様」になることを選ぶ。

 そう、たぶん、我々には「王」が必要なのだ。ここでいう「王」とは、もちろん、古典的な意味での専制独裁君主ではない。強烈な指導力で山積する問題を解決していくプロジェクトリーダーのことである。

 それでは、現代における「王」の役目とは何か。それは孤立する各人に正しい役割を与え、埋もれた才能を引き出し、その引き出された才能を「直列につなぐ」ことではないだろうか。

 『東のエデン』には、板津という天才的な頭脳をもつ男が登場する。かれはきわめて優れた頭脳をもちながら、その才能を活かす道がないことに絶望し、ひきこもる。

 そうなった板津は世界の秘密に接近しながらも、単なる傍観者であることしかできない。ところが、滝沢はその板津に役割を与え、その才能を引き出す。

 「王」の条件とは、だれかほかの個人に嫉妬しないことだ。社会は、大衆は「傑出した個人」を妬み、憎む。平均的でない才能を疎外し、攻撃する。

 だから、強烈な個性をもつ板津は現在の社会のなかでは居場所を見つけられない。しかし、滝沢と出逢うことによって、かれは自分の才能を活かす道を見出す。

 滝沢は、自分に対して攻撃的な態度を取る板津の才能を正当に認め、評価することによって、かれの協力を得る。これこそ、「王」の仕事である。

 「王」は自分で何もかもできればいいというものではない。他人をいかに活かすことができるかが、「王」の価値を決めるのだ。

 『Landreaall』のDXが、「王」としての将来を嘱望されるのも、かれが他人の才能を引き出す能力を持っているからだろう。

 そういえば、『コードギアス』のルルーシュも、自ら、「王」になることを望み、選んだ少年だった。そして、かれはさいごに悪の皇帝として、世界中の人々の憎悪を集め、倒されることによって、世界を救う。

 ある意味で、ルルーシュと滝沢の選んだ選択肢は同じである。「自分自身にすべての悪意と憎悪と嫉妬を集中させ、消え去る」。ノブレス・オブリージュ。救世主の義務。

 しかし、本当にこれでいいのだろうか。ぼくには一抹の疑問がのこる。ルルーシュや滝沢は、いわば大衆が背負うべき荷物を肩代わりしてみせたことになる。

 その結果、大衆はあいかわらず愚かなままのこされることになった。結局、問題は先送りされただけで、本質的には何も解決していないのだ。

 ルルーシュの犠牲によって『コードギアス』の世界に築かれた平和は、そう長続きはしないのではないか、とぼくは思っている。

 「水は低きに流れる」。それはどうしようもない現実なのだろうか。滝沢にしろ、ルルーシュにしろ、自分が作り出した集団に裏切られながら、それでもかれらを救いぬいた失意の「王」である。

 それでは、現代の「王」にはこんな最期しか許されていないのだろうか。「王」が「王」として、だれにも足をひっぱられずに、社会を改革していくことは不可能なのか。

 いまのところ、ぼくはこの問題に適切な解答を与えることができそうにない。畢竟、大衆が「傑出した個人」を妬み、攻撃することをやめるしかないのではないだろうか。

 なるほど、「傑出した個人」もまた、ときには失敗する。滝沢やルルーシュがしばしば失敗しているように。そこだけを見れば、かれらは無傷の「名もない大衆」よりはるかに傷だらけにすら見える。

 しかし、ここで必要なのは、「傑出した個人」の業績を総合的に判断し、認めるべきところは認め、評価すべきところは評価することなのだ。

 これはいうほど簡単なことではない。嫉妬がすべてを阻害する。「王」であるということは、まさに「損な役回り」なのである。しかし、だれかがそれを引き受けなければならない。

 『サマーウォーズ』に話は戻る。この物語のなかで、主人公の健二は期せずして「王」の役割を果たしている。

 「ラブマシーンを倒す」という目的を設定し、そのことによって大家族の各人に役割を与え、その能力を引き出しているのだ。

 ラブマシーン打倒を掲げる健二のモチベーションは大家族の面々に「感染」し、かれらの、一見目的とは無関係に見える能力は引き出されていく。

 この映画が感動的なのは、ひとは、その集団は、各人がその役割を正当に果たしたならば、これほどのことができるのだ、ということがわかるからである。

 『サマーウォーズ』は正しく「直列につながれた」集団の賛歌だ。ここには『東のエデン』ふうにいえば、「日本を救う」ヒントが隠されているように思う。

 希望はある。まずはぼくたち個々人が自分の責任と能力を自覚することだ。ぼくたちはたぶん、自分が思っている以上の存在である。だれかを妬んだりする必要はない。