パラレルワールドジェットコースター『紫色のクオリア』。

紫色のクオリア (電撃文庫)

紫色のクオリア (電撃文庫)

 ドライブ。

 物語を推進させ、展開を加速させる、強烈なドライブ。

 うえお久光紫色のクオリア』全編を貫いているものはまさにそれである。

 やけに世評が高いから読んでみたのだけれど、なるほど、これは傑作。最近読んだライトノベルのなかでは傑出した出来。というか、むしろ、オールタイムベストに挙げたいくらい。

 うえお久光というと読みにくい印象があったのだけれど、この作品はリーダビリティ抜群、いったん読み始めるとあっというまに衝撃の結末まで連れていかれる。さすがに作家も二十冊以上出すと成長するものである。

 そういうわけで、筋金入りの読書オタにも、ふだんライトノベルしか読まない向きにも、遠慮なしに薦められる快作なのであった。

 主人公は特筆すべき能力をもたないありふれた少女、波濤マナブ。

 あるとき、彼女は、紫色の瞳をもつ少女、毬井ゆかりと友人になる。ゆかりは夢のような美しい外貌のほかに、もうひとつ、「すべてのヒトがロボットに見える」という奇妙な特長を備えていた。

 もちろん、本当にゆかりの目にヒトがロボットに見えているのか、それは確かめようもない。しかし、事実、彼女の周辺には奇妙な出来事が起こっているようでもあった。

 と、書いてもこの物語の魅力はまるで伝わらないことだろう。この『紫色のクオリア』は「毬井についてのエトセトラ」、「1/1,000,000,000のキス」、「If」の全三話から成り立っているのだが、いま話したのは「毬井についてのエトセトラ」の序盤に過ぎない。

 物語が本当にドライブを開始するのは「1/1,000,000,000のキス」の中盤からで、その内容についてはネタバレなしで語ることはできない。

 そういうわけなので、失礼して、以下、いくらかネタバレを含む話を行いたいと思う。より新鮮な状態で読みたい向きはいますぐ書店へ行くかAmazonでポチするかして本書を入手するといい。

 大丈夫、ライトノベルがいける口なら、まず、この作品を読んで損をすることはないと思う。それくらい、抜きん出た出来である。

 さて、これくらいはいってもかまわないと思うのだが、本作は平行世界(パラレルワールド)ものである。

 物語の中盤、マナブは、ある事情で平行世界を行き来する能力を手に入れる。

 といっても、自由自在に平行世界を飛んで歩けるというわけではない。ただ、無限に(文字通り無限に!)広がる並行世界に存在する「もうひとりの自分」と接触し、「適切な自分」を「選ぶ」ことができるだけである。

 マナブの唯一絶対の目標は、「ジョウント」と呼ばれる組織に殺され死んでしまった友人、毬井ゆかりを救うこと。そのためにマナブはありとあらゆる方策をためしながら、目的を遂行していく。

 この「ありとあらゆる」が文字通り「ありとあらゆる」であるところが『クオリア』のすごいところで、自分の目的のため、マナブは法も倫理も物理法則すらも無視して、すべての可能性をためしていく。

 「ジョウント」は世界的な巨大組織であり、マナブは一女子中学生であるにすぎない。しかし、彼女には無限が味方に付いている。一万回失敗しても、一万一回目に成功すればかまわないのだ。

 マナブは時をかけ、空間をわたり、次第にヒトを超越した存在へと変貌しながら、目的を果たそうと試みる!

 平行世界ものはもちろん過去に無数にあるが、『クオリア』のスピード感、ドライブ感はすさまじいものがある。

 この作品の成功の理由は、ひとえに、一冊の本に物語を詰め込んだところにあるだろう。しかも物語が平行世界ものへ踏み出すのは後半だけなので、実質的に一○○頁強のあいだで物語は途方もない彼方へたどり着く。これはすごい。すごいよ。

 もっとも、どれほど策略を巡らし、どれほどヒトであることを捨てたとしても、マナブはゆかりを助けることはできない。

 いくら助けようとしてもそのたびに不条理な出来事が起こって死んでしまう展開は、西澤保彦の『七回死んだ男』を思わせる。

 しかし、この作品で毬井が死ぬのは七回どころではない。マナブは、愛し、裏切り、世界を支配し、物理法則をねじ曲げて、ゆかりを救おうとするが、どうしてもゆかりは死んでしまう。

 あたかも、それはこの世を支配する絶対の法則、世界律、運命そのものであるかのように。

 それでもマナブはあきらめない。無数のトライ&エラーをためしながら、彼女は少しずつ真相へと近づいていく。

 こういう内容の作品であるから、『クオリア』を読んだ読者は、何かしら過去の作品の名前を思い浮かべると思う。ぼくの場合は、萩尾望都銀の三角』と、小松左京『果しない流れの果に』だった。

 じっさい、論理の階段を二、三段飛ばしで駆け上がっていくような『クオリア』のスピード感は、小松作品を思い起こさせるところがある。

 作中でベスターが引用されていることからもわかる通り、何ともワイドスクリーンバロックな感じ、なのである。

 ネットではそのほかにグレッグ・イーガンテッド・チャンの名前も挙がっている。たしかに、『クオリア』にはイーガンを思い起こさせるところがある。

 本書をひと言で表すなら、「「無限の暗殺者」@電撃文庫」というコピーがいちばんかもしれない。

 しかし、イーガンにあってうえお久光にあるものがひとつある。キャラクターである。

 無限の平行世界を駆け巡る冒険のなかで、それでもなお、マナブやゆかりのキャラクターが維持されていることによって、『クオリア』はギリギリ、ライトノベル、そしてエンターテインメントの範疇に留まっている。

 そもそも、この種の平行世界/量子力学SFは、突き詰めると、次第に「何でもあり」に、「あらゆることが可能なのだ」という世界に近づいていく。

 そこで、想像力の限りを尽くし、その「何でもあり」の世界を描いて見せたのがイーガンだった。それは、当時としては圧巻というほかない想像力だった。

 しかし、それはある意味で、SF的想像力の果てを描き出してしまっていたのではないだろうか。

 「十分に発達した科学は魔法と区別がつかない」。イーガンが描き出したのは科学が魔法と化す世界、「あらゆることが可能になる」世界だ。

 かれはその万能世界を、独自の詐術的疑似科学レトリックで活き活きと描き出すことができた。イーガンは本当は魔法に過ぎないものを科学に見せかける天才だったのだ。その擬似科学理論の説得力が、イーガンの作品をSFに留めていたといえるだろう。

 一方、『クオリア』の科学理論にそこまでの説得力はない。一応、それらしい理論は登場するが、SF考証と呼べるほどのものではない。

 だから、一歩間違えていたら、『クオリア』は文字通りの「何でもあり」に、あらゆることが許される物語に堕してしまっていただろう。それは単なるナルシシズムの迷宮、万能感の檻である。「何でもあり」は退屈なのだ。

 そこで物語は「枷」を必要とする。マナブは無限の平行世界を旅しながら、ありとあらゆる可能性をさぐっていくが、ゆかりを救うという目的を見失うことはない。

 これがこの物語の第一の「枷」である。そして、最終的に提示される倫理、マナブがゆかりを救うことができない理由が第二の「枷」だといえる。

 それが提示されることによって、『クオリア』は万能感の物語から倫理の物語へと変貌を遂げる。正直、SFとして見るとこの倫理は面白みを欠くと思う。

 しかし、この「枷」があることによってかろうじてこの物語は小説として、物語として成立しているともいえるであろう。

 そして第三の「枷」が、キャラクターである。『クオリア』では、無限を旅し、あらゆる経験を積みながら、マナブはマナブであり続け、あらゆる世界でアリスはアリスであり、ゆかりはゆかりである。

 その同一性、あるいは同一性の幻想がいかにして保持されているのか、興味深い話だが、今回はそれは措く。

 とにかく、マナブは無限世界を冒険したあげく、さいごにはあたりまえの日常に帰ってくる。このとき、彼女はゆかりというお釈迦様の掌の上で無限世界を旅した孫悟空であるといえる*1

 そういう意味で、これは全くクラシックな物語である。クラシックであることをどう評価するかがこの作品の評価の決め手になるだろう。

 とにかく読んでびっくりのおもしろい小説には違いないので、一読をお奨めする次第である。無限を往来するジェットコースターにも似た興奮があなたを待ち受けている。

*1:ペール・ギュント』パターンとでも呼ぼうかな。『ペール・ギュント』見たことないけれど。