たとえ世界があなたを見捨てたとしても。

星守る犬

星守る犬

「また見てるのか…… 「星守る犬」だな 「守る」ってのは「じっと見続けてる」っていう意味 決して手に入らない星を物欲しげにずっと眺めてる犬のことだよ 慣用句で「高望みをしてる人のこと」を指すらしい 手に入らないものなど 眺めてるだけ無駄なのに」

 叶うことなら訊ねてみたい。

 どうして、と。どうしてですか、おとうさん、と。どうしてあなたはほかの道を選ぶことができなかったのですか、と。

 村上たかし星守る犬』は、病を抱え、余命いくばくもない「おとうさん」と愛犬の、短い旅のお話。

 物語は、その旅のおしまい、ふたりがものいわぬ亡骸と化して発見されるところから始まる。

 鑑定の結果、ひとは死後一年から一年半、犬は死後三ヶ月と判断される。そして、ここにいたるまで何があったのか、作者は時をさかのぼり、その経緯を辿っていく。

 だから、そう、これは、初めから悲劇であることを決定づけられた物語である。ふたりは、最後には、すこし林道を外れた草原に置かれた車のなかで、寄り添うようにして客死することになる。

 そこに救済はない。しかし、それでもこれは幸福についての物語だ。ひとにとって、あるいは犬にとって、幸福であるとはどういうことなのか、しずかに問いかける物語だ。

 だからこそ思う。もし叶うことなら訊ねてみたい。

 おとうさん、おとうさん、あなたは幸せだったのですか、と。すべてを失い、何もかも奪われて、それでも幸せだったのですか、と。おそらく確たる答えは返ってはこないだろうけれど。

 死という終点からはじまった物語は、おそらくは数年前、犬がおとうさんの娘に拾われ、ハッピーと名づけられるところへと続く。

 その頃はまだハッピーも幼く、おとうさんにも家族がいた。その家族のなかで、ハッピーはたくさんの愛情を受けながら育っていく。

 平凡な、しかし、おそらくは幸福な日々。それなのに、時は無情にすべてを変えてしまう。数年が経つうち、あどけなかった娘は不良になり、おとうさんは持病を抱え、仕事を失うことになったのだ。

 それだけなら、まだかれも耐えられたかもしれない。だが、そのとき、妻は追い討ちをかけるように離婚を切り出す。

 彼女はいう。「一緒にいたくないほど嫌いになったわけじゃないのよ ただ―― 持病をかかえて職を失ったあなたをね 支えていくほどの強い想いが 無いの」。

 おそらく、おとうさんにも悪いところがあったのだろう。妻が相談を切り出しても、いつもあいまいな答えを返すばかりだったのだから。

 悪意があったわけではない。世間の夫と比べて、それほどものぐさだったわけでさえないだろう。ようするに、おとうさんは少し不器用すぎたのだ。

 そして、時代は、社会は、そんなおとうさんを受け入れる余裕を失っていた。たぶん、きっと、そういうことだったのだろう。

 とにかく、おとうさんはこうして何もかも失くすことになった。財産分与請求によって家すら失ったおとうさんにのこされたものは、わずかばかりの金と、自動車、それに一匹の犬。

 そうしておとうさんは旅に出る。昔住んでいた田舎にたどり着ければ何とかなるだろう。そんな淡い期待を胸に、南へ。それがじぶんの人生を締めくくるさいごの旅になるとも知らず、ただひたすら、南へ。

 既に結末を見てしまっている読者の胸には、ここで切ないものがこみ上げるかもしれない。しかし、物語が本当に切なさとやるせなさを帯びてくるのは、ここから先である。

 行き着く場所のあてもなく、ただ南をめざして旅するふたりは、途中、様々な困難と巡り合う。

 万引きしていた家出少年を拾ったり、ハッピーが結石になったりと、いくつものトラブルが襲いかかって来る。まるで、もっていたものをほとんど失くしてしまったおとうさんが、まだ多くをもちすぎているとでもいうように。

 しかし、それでもなお、おとうさんとハッピーの「どらいぶ」は続く。もう、帰る場所もなく、ふたりはただ先へ進んでいくことしかできないのだから。

 やがて、ふたりは、さいごの場所へたどり着く。作品の冒頭、既に見たあの場所へ。おとうさんには、もはや、金も、力も、時すらものこされていない。

 世界に見捨てられたおとうさんにのこされているものは、ただ、ハッピーだけ。

 そして、疲れ切ったおとうさんは、眠りに就く。ありがとう、とただそれだけをいいのこして。

 それでもまだ物語は終わらない。そこからまだ、ハッピーが過ごした時が語られていない。

 しかし、すべてを述べてしまうことはよそう。連載時、多くのひとが涙したというこのクライマックスを読んで、ぼくもこみ上げるものを感じずにはいられなかった。

 漫画を読んで涙した経験など数えるほどもないぼくではあるが、ハッピーの健気さには、打たれずにはいられなかった。

 決して完璧な傑作だとは思わない。いかにもあざとい展開ではあるし、犬を擬人化して描写するやり方にも疑問がある。ハッピーの認識能力もいささか都合よく描写されているように思える。

 しかし、それでも、これほどつよく感情に訴えかける物語は稀だろう。家族に見捨てられ、会社に見捨てられながら、だれも怨まず、憎まずに死んで行くおとうさんはあまりに優しいし、そんなおとうさんにさいごまで付き従うハッピーはあまりに健気だ。

 いままでペットを飼いたいなどと思ったこともないが、この作品を読んでいると、動物のいる生活も悪くないかな、などと考えてしまう。

 いまならここで第一話が読めるので、それで何か感じるものがあったひとは、ぜひ購入して読んでみてほしい。それだけの価値がある作品である。

 「泣ける」といういい方で作品を薦めることは好きではないが、まず、めったにないほど泣ける漫画である。特に動物を飼っているひとにとって、これほど泣ける漫画はないだろう。

 この作品を読んでいて気づくのは、これが、一方通行の物語だということである。

 この物語のなかでは、すべてが一方通行だ。おとうさんは家族に対し深い想いを抱いているのだが、それは伝わらない。ハッピーはおとうさんのいうことを理解しているのだが、その言葉はかれには伝わらない。

 ここにあるものは、「個」と「個」のあいだにどうしようもない断絶、その苦しみである。それぞれが異なる視点と世界を抱える「個」が、相手にその想いを伝えられないことの切なさ。

 そして、その断絶はおとうさんの死によって完全なものとなる。もう、いくらハッピーが叫んでも、おとうさんが語りかけてくれることはない。

 ところが、物語の結末において、ひとつの奇跡が起こる。それは、あのマッチ売りの少女の見た夢にも似て、あまりに切ない、一瞬の、幻なのかもしれないし、あるいは、真実の光景だったのかもしれない。それはわからない。

 ぼくにいえることは、この瞬間、星守る犬のもとに星は降りてきたということだ。ただ見上げることしかできなかった星が、自ら地上に降りてきたということだ。

 だから、そう、叶うことならたしかめてみたい。

 ねえ、おとうさん、何もかも失くして、家族にも去られて、あなたは不幸だったのですか、と。おとうさん、ひょっとしたらあなたは、さいごまで幸せだったのではないですか、と。

 たしかに、あなたは世界に見捨てられたのかもしれない。会社も、家族も、社会も、あなたのことを忘れ去ってしまったのかもしれない。

 しかし、たとえそうだとしても、それでもハッピーだけはさいごまでいっしょにいてくれた。あの、ふしぎと何もかも見通すようなつぶらな瞳で、あなたのことを見つめていてくれた。それで十分だったのではないですか、おとうさん、と。

 そう訊ねたとしたら、照れ屋のおとうさんはどんなふうに答えたことだろう。おそらくは確たる答えはないだろう。でも、もしかしたら、しずかに微笑んで、ひとつうなずいてくれたかもしれない。

 『星守る犬』には、もうひとつ、おとうさんとハッピーが辿った軌跡を別の人物の視点から眺めた『日輪草』という物語が収められている。

 表紙でも描かれている向日葵畑は、その物語のなかに登場する。高い向日葵のあいだからハッピーが顔を覗かせていることかもわかる通り、この表紙は、現実の光景ではなく、夢の風景と捉えるべきだろう。

 不器用な優しいおとうさんとかれの忠実なハッピーは、そのたましいは、いま、向日葵のお墓でいっしょに眠っている。