三十年後の文芸を担うのはだれだ?

佐藤可士和×トップランナー31人

佐藤可士和×トップランナー31人

 今日はわけあって暇なので昼間からたくさん更新する。

 アートディレクターの佐藤可士和が、時代をリードする才人31人と対話した対談集。

 ぼくとしては、石田衣良の話が興味深かった。というか、白状します、石田衣良古田敦也のところだけ立ち読みしました。どうも申し訳ありません。

 だから以下は記憶で書くのだが、石田によると、現代文学の担い手は、ニュースクールとオールドスクールに分かれており、いま四十代の自分はその境界に立っているのだという。

 オールドスクールの作家たちは現実を重視しており、基本的にはリアルな物語を書く。それに対してニュースクールの作家たちは現実を軽視していて、たとえば近親相姦のような重い出来事もさらっと書いてしまう。

 両者のあいだには断絶があり、また対立がある。

 石田の意見では、ニュースクールの作家たちの弱点はモラルの問題にある。ラディカルでアンチモラルな作品ばかり書いていると、カルトで終わってしまい、アートにはなりえないのだ。

 この意見を保守的だと感じるひともいるだろう。しかし、ぼくには非常に納得しやすい話だった。

 ひたすらに先鋭的な表現は、マニアにもてはやされはしても、時代の主流にはなりえないものだ。新しい時代を主導するためには、ただ壊すだけでなく、築くことが必要なのだと思う。

 それにしても、こういう発言を聴くと、石田が広い読者層を意識して小説を書いていることがあらためてわかる。

 ここで思い出すのは、かれが冲方丁の『マルドゥック・スクランブル』を取り上げ、より広い層を意識して書いた方がいい、という意味のことをいっていたことである。

 あの作品に対し、そういう方向から意見を述べたひとは他にいないと思う。それがメインストリームを疾走する作家の視点なのだろう。

 ぼく自身もそうだが、その分野に腰まで浸かってしまった人間は、よりラディカルな表現を好む傾向がある。いわゆる王道を往く作品は凡庸に見えてしまうのだ。

 しかし、じっさいには、ラディカルな表現を成立させるためには、どうしても王道の作品が必要になる。

 もちろん、それは常時不変のものではありえないかもしれないが、とにかく、だれかが主流を担う必要があることはたしかである。

 いま、二十代、三十代の若手作家に、そのポジションを担う人材はいるだろうか? ちょっと思い当たらないが、もしかしたらいるのかもしれない。いてほしいと思う。

 たとえば、四十歳、五十歳になったときの乙一西尾維新がどういう作品を書いているかは非常に気になるところである。その頃にはかれらも大人になって、骨太の小説を書いているのだろうか。それとも、あいかわらず特異な作品を物しているのだろうか。

 三十年後の文芸を担うのはだれだ?