恋よりも野心を、愛よりも大義を。


 そろそろ話が錯綜してきたので、「恋愛と女性人物」の話についてまとめておこう。

 まず、この話の前提となっているのは、何かしらヒロイックな魅力を備えている人物である。

 世界を救おうとしているとか、スポーツで頂点に立とうとしているとか、巨大な権力を握ろうとしているとか、とにかく常人にできないことをしようとしている人物。

 そういう人物が恋に落ちると、そのヒロイックな魅力が一気に色あせてしまうことがある。これをぼくの言葉で「堕落」という。

 なぜ色あせるのか。それはけっきょくヒロイックな目的よりも個人としての幸福を選択してしまったからである。

 もちろん、べつだん、個人の幸福を追求することが悪いわけではないが、ヒロイックな目的を捨て去ってしまった人物からヒロイックな魅力が薄れることは当然のことだろう。

 「堕落」は男性人物にも起こりうることであるが、ぼくの考えでは女性人物により多く起こっているように思う。ぼくにはそれがざんねんに思える、ということが、この話の骨子である。

 『グイン・サーガ』のイリスことオクタヴィアを例に考えてみよう。

 オクタヴィアは性別を偽り、皇子イリスを名乗ってケイロニア帝国の皇位を狙う野心的な女性であった。

 しかし、旅の吟遊詩人マリウスに恋に落ちることによってその野心を捨て、ひとりの妻として、母として生きる道を選ぶ。

 そうなったあとのオクタヴィアに、ぼくはイリスを名乗っていた頃ほどのヒロイックな魅力を感じない。むしろ、物語の登場人物としての「格」が落ちてしまっている印象がつよい。

 恋はオクタヴィアを幸福にしたが、そのおかげでイリスというひとりの魅力ある人物は死んでしまったのだ。

 それでは、もしオクタヴィアが恋よりも野心を選び、あくまでもケイロニア皇位を狙っていたとしたらどうだろう。

 彼女は男装が暴かれる恐怖とたたかいながら、ケイロニアの皇子として生きることになっただろう。

 おそらく、個人として、ひとりの女性としての等身大の幸福は、そこにはない。しかし、そのかわり、彼女はヒロイックな意味で魅力ある人物、つまり物語の主人公にふさわしい人物でありつづけたに違いない。

 吟遊詩人マリウスの妻オクタヴィアならぬ、ケイロニアの闇皇子イリス。ひょっとしたら、ゴーラ王イシュトヴァーン、草原の鷹スカール、パロの宰相アルド・ナリスといった男性たちと肩を並べ、中原に覇を唱える英雄になることすら可能だったかもしれない。

 そういう道を選ぶ女性人物がもっといてもいいのではないか、とぼくは思うのである。

 勘ちがいしてほしくないが、そういう選択をすることが偉いとか、正しいということではない。ただ、ぼくの趣味でいうと、大抵の恋するヒロインよりも魅力的に思えることはたしかだ。

 恋よりも家庭よりも、愛よりも幸福よりも、野心や大義を選ぶ女性人物がもっとたくさんいてもいい。

 それでこそ物語もおもしろくなる、と考える。

黒曜宮の陰謀―グイン・サーガ(21) (ハヤカワ文庫JA)

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