漫画家は図々しくなければならない。


 きよさん(id:kiyolive)が今週号の『ハヤテのごとく!』を取り上げて批判している。

 今週、物語の舞台がイタリアでありながら、背景が草津であったことを取り上げ、「最初読んだときは一体何を考えているのだろうかと、というかこれはあまりにもひどいだろうと思ったのですが、まんが家バックステージを見て「ああ、そうだったんですか。」というところまで落ち着いた」と語っている。

 「まんが家バックステージ」とは、『サンデー』連載陣による自作その他にかんするコラム集、いわば「ネットあとがき」とでもいうべきものである。

 『ハヤテのごとく!』の作者はその「バックステージ」を頻繁に更新することで知られている。

 しかし、その「バックステージ」を見て初めて納得できた、というところが問題なのだときよさんはいう。

 なぜなら、このネタはネタとして面白いとはとても思えない。ただ混乱するだけだ。それを「ネタなんですよ、ずっとあたためていたんですよ」と「バックステージ」で解説することは、「ある種の言い訳」であって、「無粋」だ、というのである。

 さて、ぼくは以前、作家の「言い訳」を肯定的に捉える記事を書いた。

 もちろん、作者の「読み」が絶対に正しいという保証はない。創り手としての立場を離れて自作を「読む」とき、作者ですら読者のひとりであるに過ぎない。

 しかし、逆にいうなら、それは、作者もまた単なる一読者として、自作の「読み」を巡る議論に参戦してもかまわないということである。

 作者だから自分がいちばん深く読めているといいはらないのなら、作家の「言い訳」は完全に正当なのだ。

 そういう意味で、作家は読者の批判を全面的に受け入れろ、反論するなどもってのほか、という意見は問題だと考える。それはひとつの言論の可能性を封殺する思想ではないか。

 作家は「言い訳」してもいい。いや、むしろ、どんどん「言い訳」してもらった方がおもしろいことになるとぼくは思う。ま、なかなか現実にはむずかしいでしょうが。

 いまもこの意見が間違えているとは思っていない。しかし、きよさんがいうことも一理あると思う。この矛盾をどう繕うべきか。

 いや、本当は矛盾しているとは思わない。問題は作家が「言い訳」することではなく、「言い訳」の中身にあると考えるからだ。

 ぼくは作家はそうしたければ「言い訳」してもかまわないと思う。しかし、その「言い訳」の内容がおかしなものであったら非難されることだろう。あたりまえのことである。

 今回の畑さんの「言い訳」に問題があるのは、「労力」の話をしていることではないだろうか。

今週はふざけているようで全然ふざけてないというお話。
今週は本当に描くのに凄い苦労しました……。

ていうか二泊三日で行ったよ!草津!!
スタッフが!

……ボクモイキタカッタ……

今回の話を読んで
わー、本当に手を抜いたんだー、と思われたなら
それはとっても辛いのです。

 こういいたい気持ちはわからないでもないが、「手抜きじゃないよ」という「言い訳」は意味がないと思う。

 なぜなら、「手抜き」であるか否か、それは読者にとってどうでもいいことだからである。読者にとり重要なのはその作品がおもしろいかどうかであって、どれほど労力をかけていても、作品がおもしろくなければ、読者は納得しない。

 逆に本当に「手抜き」をした作品であっても、それが魅力的なら受け入れられる。

 作家が「手抜き」してもいい場合、それはそのことによって作品がよりおもしろくなる場合である。

 そもそもギャグ漫画一般には「手抜き」に見えかねない前衛的な表現がしばしば見られる。それを堂々と「表現である」といいはるところに漫画家の心意気があるのであって、「実はこんなに苦労しているんです」と苦労話を打ち明けることには価値がない。

 畑さんは自分のアイディアに自信があるなら、それが「手抜き」と見られるかどうかなど心配せず、ただ作品を信頼すれば良かったのだ。

 昔、萩原一至が『BASTARD!!』でその週のラスト2ページを文字で埋めたことがあった。あれは締め切り直前での苦肉の策ではあったのだろうが、非常におもしろかった(怒ったひともいたみたいだけれど)。

 作家には、表現者には、時にこういう「図々しさ」が必要である。作品の制作背景を逐一説明してしまうような気弱さは、表現者にとって美点とはいえないだろう。