もしも『ラピュタ』がムスカ視点だったら。


 色々な作品の悪役/敵役について語った先日のラジオに絡めて、かんでさんが新しい記事を書いている。

 「天空の城ラピュタ」に登場する、ムスカというキャラクターは、典型的な悪役の類型を内にふくんだ造形になっている。

 ムスカは、少女シータを利用するため、誘拐し確保しようとし、パズーと対立することになっていく。

 彼の目的はラピュタの力による世界支配。

 劇中終盤においてラピュタの力を得て、彼はその力におごり高ぶり、その醜悪さを見せたように見える。

 名台詞「見ろ、人がゴミのようだ」が象徴。

 最終的に、シータとパズーに拒否され、滅びの言葉「ヴァルス」によって敗れるのだけど、それが納得のいくように、悪役として演出された感がある。

 独学で古文書を解読し、ラピュタの謎に単身迫ったムスカ

 軍に入り、政府を動かして、密命を受けて、ラピュタを探索する、その過程で、彼がどれだけの努力を重ねたか、計り知れない。

 本居宣長とか前野良沢とかと似たような苦労を重ねたに違いない。

 新井白石的な天才かつ努力家だったのかもしれない。

 おそらくその過程で彼を馬鹿にする者もたくさんあっただろう。

 パズーの父親が詐欺師扱いされて死んだ、というパズーの言葉からも、それは推察できます。

 その辺りがトラウマとなって、彼は少しずつ微妙に歪んでいったのかもしれません。

 「独裁者としての悪」とは、ぼくが使った言葉で、悪の様々な類型の一つとして、悪の独裁者というイメージがあるのではないか、という意味です。

 ご存知の通り、二〇世紀はヒトラーを初めとする幾多の凶悪な独裁者を生んだ時代でした。その「独裁者の時代」への反省が、「独裁は悪である」とする価値観と、そして悪の具現としての独裁者のイメージを派生させた、と思っています。

 『ラピュタ』におけるムスカはその典型的な一例でしょう。しかし、ムスカは本当に単なる悪党なのか。シータの思想が正しく、ムスカのそれは間違えているのか。

 かんでさんの記事は必ずしもそうともいえないんじゃないか、という問いを孕んでいるように思います。

 もちろん、作中の描写を見る限り、ムスカはあくまで悪役でしかないのだけれど、そこから想像を働かせてみると、ムスカにも一分の理がある可能性が見えてくるんじゃないか、

 これもラジオで話したことですが、ムスカのキャラクターは夜神月ルルーシュランペルージといったゼロ年代のダーク・ヒーローたちと重なるところがあります。

 ムスカのような、世界の支配と独裁をめざすキャラクターが、いまの時代においてはヒーローとして描かれていることになります。

 特にラピュタで世界を睥睨しようとするムスカの構想は、空中要塞ダモクレスで世界を支配したルルーシュと重なります。

 たしかに、月やルルーシュのやり方は作中で最終的に否定されていることを見れば、ムスカのやり方も時代が変われば正義になる、とはいえないでしょう。

 しかし、見方を変えてみれば、ムスカにもまたヒーロー性がある、ということが見えてくるのではないでしょうか。

 これもラジオで語ったことですが、一口に「悪」といっても、二種類あると思うのですね。

 ひとつは、最近、ペトロニウスさんやLDさんがここら辺のことに凝っているみたいですが、絶対悪、究極の悪、悪のための悪、とでも呼ぶべき、一切の感情移入を拒絶する、純粋な悪そのもの。

 これはもう半神か、あるいは災害みたいなもので、人間的な共感の対象にはなりえません。だから、「彼にもこういう事情があって」と背景を説明しはじめた途端、陳腐になってしまう。

 『羊たちの沈黙』のレクター博士がたぶんこのパターンだと思います。『Fate』のギルガメッシュもこれかな。

 それに対して、野心や理想、あるいは欲望のために悪をなす「人格としての悪」があって、そういう人物は視点を変えればヒーローになりうると思う。ムスカはこの「人格としての悪」にあたるのではないか。

 だから、もし『天空の城ラピュタ』がムスカ視点だったら、と夢想してみることもそう突飛なこととはいえないでしょう。

 その場合、『ラピュタ』は夢に憑かれた男の野望を描く絢爛たるピカレスク・ロマンになっていたかもしれない。

 天空の城の王家の血をひくことを知ったことから、人生を狂わせ、ただひとり、暗い野心と供に出世の階段を上っていく男、その波乱の人生。ある意味で、それは、健気な少年主人公パズーの陰画です。

 すべては夢想に過ぎませんが、そういう物語もありえたかもしれない、と考えてみることは、ちょっとおもしろい。

 おもしろいと思うんだな、ぼくは。