こんにちは。失礼ながら、挨拶もそこそこに、早速本題に入らせていただきます。
「ジョジョの倫理的な変遷。」という記事を読みましたが、部分的に、考えがあまりに安直で軟弱ではないかと思います。
ジョルノがギャングだったり徐倫が囚人だったりするのは、反社会性をキャラクターとして持たせたものではないと思います。あれは、単なる苦境ではないでしょうか?
5部の文庫の後書きには、「不遇な生まれの人間が正義の道を歩むためにはどうすればいいのかを描いた」といううようなことが描いてありました。そして、同様に(事情はそれぞれですが)不遇な生い立ちのジョルノたちとボスは、それぞれ、正義となり悪となる。
ですから5部は、生まれついた境遇に勝つものと負けるものを対比して描かれた話だととるのが妥当ではないでしょうか。
また、徐倫が囚人なのは、ナランチャとトーキングヘッドとの戦いや花京院とデス13のエピソード、、バイツァダストの時の早人の置かれた状況などと同じ、作者がおそらく好んで使う逆境の、最たるものと思っていいのではないでしょうか。
つまり、「言いたいことを伝えられない」という。
これは、3部の文庫の後書きにありましたが、荒木先生は子供の頃、主に妹たちの連係プレーによって、無実の罪を着せられることが多くて悔しかった、と。
わたしは、そういった作者のトラウマ的エピソードが作品に反映されているんだと思います。もしくは、洋画好きだということなので、洋画にもよく見られる設定だからそちらの影響で使ってらっしゃるのかもしれませんが。
どちらにせよ、好んで使う主人公の苦境のひとつだと思います。
また、ラスボスについても、決して部を追うごとにその悪役性が弱くなっているなんてことはないと思います。その考え方はあまりに軟弱だと思います。
果たしてディオやカーズは他と比べてそこまで邪悪なのでしょうか?
ではディオは、あんな家庭に生まれついて、どう生きていけばよかったのですか? あの時代背景と彼の家庭環境を考えると、彼の生き方はそこまで悪辣とは言えないと思います。ただ、彼が普通より頭が切れて、且つ偶然にも強大な力を手にしてしまっただけで。
カーズだって、地上で堂々と暮らしたかっただけでしょう。赤石を手に入れ、生物として完全なものとなり、そうなれれば、人間を殲滅するようなつもりもなかったのではないでしょうか。ただ、目的のために人間の抵抗を退ける必要があっただけで。自分らの繁栄と天秤にかけて、、他の生物の命を果たして重んじたりするものでしょうか?
その他も、平穏を求める吉良吉影や臆病なディアボロを、それを理由に単に悪そのものとは言えはないなんていうのも、軟弱すぎる考えだと思います。
「邪悪」だとか「悪辣」だとか、そういう問題ではないのです。
ジョジョのラスボスたちは、「悪」なんです。
「天敵」と言い換えるといいかもしれません。他の大勢の存在を脅かす存在。命を懸けてでも戦わなくてはならない相手。
戦うべき相手を悪と言い切れないのは、軟弱です。そんな精神では戦えません。
荒木先生はどこかで答えてらっしゃいました。「他人に迷惑をかけるのが悪」(「迷惑」という言葉ではなかったかも)と。
ジョジョにおける悪というのは、結局のところそういうものなのだと思います。そういう意味では、どのラスボスも、紛れもない悪といえると思います。
読み手それぞれが何を正義・悪とするか、世間一般でどう思われているかは別の話です。
また、あれほどまでに前向きなラスボスたちを、「正義だ」と言ってしまうならともかく、「悪そのものとは言えない」なんて考えは、彼らに対しても失礼ではないでしょうか。(キャラクターに失礼って何だって考えはもちろんそのとおりなんですが・・・)
追従者や信者までも野望や目的のためには犠牲にする彼らに、そんな柔な同情や生半可な理解は要らないと思います。
全体的に、kaienさんの読み方は、文学的なのだと思います。文学作品は、そういう読み方をするものですよね。
全ての要素は何かの象徴であり、ハッキリ断言できない割り切れない混沌があるものですから。
でも、ジョジョはそういったものではないでしょう。
元記事を読んですぐに思うところはあったのですが、人それぞれの読み方があるのにわたしの考えをぶつけるのも・・・と二の足を踏んでいました。
しかし先日、感想を書く際の心構えについて語ってらしたので、そのくらいの自負があられるならと、したためることにしました。
<さっきのメールに追記>
でも、確かに7部は、正義対悪という構図がハッキリしていないと思います。7部は唯一。
あれはまさに、「人生という名のレース」なのでしょうね。
コミックスの折り返しにも、作者自身そう考えているんだろうと思えるコメントがあって、やっぱりなあと思いつつ呼んでいます。
ひとつひとつお答えしていきます。
ジョルノがギャングだったり徐倫が囚人だったりするのは、反社会性をキャラクターとして持たせたものではないと思います。あれは、単なる苦境ではないでしょうか?
なるほど。それでは、ぼくがどう書いたか読み返してみましょう。
しかし、第二部以降、この勧善懲悪の構図は少しずつ変わって行きます。主人公が表面的には必ずしも正義の味方に見えなくなっていくのですね。
第二部の主人公ジョセフはジョナサンのような紳士ではなく、軽い性格の若者です。そして、第三部と第四部の空条承太郎と東方仗助は反社会的な不良少年、第五部のジョルノ・ジョバァーナはディオの血を継ぐ身で、しかもギャングの一員、第六部の空条徐倫に至っては罪を犯し刑務所に閉じ込められてしまっています。
『ジョジョ』の主人公は世代を重ねるに連れて、その反社会性を強めていくのですね。
「表面的には正義の味方に見えなくなっていく」と書いています。これはもちろん、「表面的には正義の味方に見えなくなっていくが、実はそうである」という意味です。
作者が何をおもってそう描いたかはともかく、表面的に見ればギャングや囚人が英国の上流階級の紳士に比べ反社会的な存在であることはあきらかなのでは?
ここでぼくは「表面」の話をしているのであって、作者の意図の話をしているのではないのです。
また、ラスボスについても、決して部を追うごとにその悪役性が弱くなっているなんてことはないと思います。その考え方はあまりに軟弱だと思います。
ぼくは部を追うごとに悪役性が弱くなっていると書いた憶えはありません。読み返してみても、やはり書いていませんでした。誤読があると思います。
同様に、
その他も、平穏を求める吉良吉影や臆病なディアボロを、それを理由に単に悪そのものとは言えはないなんていうのも、軟弱すぎる考えだと思います。
「邪悪」だとか「悪辣」だとか、そういう問題ではないのです。
ジョジョのラスボスたちは、「悪」なんです。
と、ありますが、ぼくは『ジョジョ』のラスボスたちが「悪」でないとも書いていません。むしろ彼らは「悪」であるとはっきり書いています。
とはいえ、それでもなお、かれらが自分の目的のために犠牲を厭わない「悪」であり、ジョジョたちが時に軽薄な表面のその奥に熱い「正義」の心を隠し持っていることは変わりありません。
「白」と「黒」、「善」と「悪」は別物、時に交じりあい、時に区別が付かないようなことがあるとしても、主人公たちが「正義」で、敵対者が「悪」であることに変わりはない。それが『ジョジョ』を貫く構図だったといえるでしょう。
たしかに、こうも書きました。
第一部から第三部で悪役を務めるディオやカーズはまさに邪悪そのものといった存在でしたが、第四部の吉良吉影は殺人癖をもちながら「平穏」を求める奇妙な人物で、第五部の「ボス」はむしろ臆病なほどの自己保身の怪物です。単に悪そのものとはいえない人格なのです。
しかし、一読してわかる通り、これは、吉良やディアボロが、「悪」でないという意味ではありません。同じ「悪」ではあるとしても、ディオやカーズの「悪」とは異質な「悪」だ、という意味です。
ぼくにはやはりディオやカーズの輝くように強大な「悪」と、吉良などの「悪」とは、「悪」である点は共通していても、どこか異質なものに思えます。
もちろん、それは吉良やディアボロがラスボスとしてディオたちより迫力がないとか、魅力がないと述べているのではありません。ただ、より複雑なかたちの「悪」になってきているということです。
でも、確かに7部は、正義対悪という構図がハッキリしていないと思います。7部は唯一。
と仰いますが、ぼくは七部に入って急に荒木さんの考え方が変わったとは思っていません。『ジョジョ』は少しずつ少しずつ変わって行き、その結果、七部でひとつのブレイクスルーを遂げた。そう見る方が自然なのでは?
以上です。
ところで、上に「たまってから返事をすることにした」と書きましたが、実は返事をすること自体やめようかも考えています。
特に長文のメールの場合、丁寧に返事をしようとするとやはりこれだけの分量になってしまうわけで(これでもいくつかふれていない箇所がある)、なかなか手間を取られます。
たまに来るメールくらいは返事してもいいか、と思ってレスを付けていたのですが、最近はそれも「たま」ではなくなりつつあり、どうしたものかと考えているところです。
いや、メールをもらえること自体はうれしいのですが、返事を付けなければいけないという義務感を感じてしまうと良くないと思うのですね。さて、どうすれば良いのか。
うーん。