藤子不二雄の名作『エスパー魔美』に、芸術と批評の関係を扱った「くたばれ評論家」という有名なエピソードがある。
主人公、魔美の父親は画家なのだが、あるとき、某評論家から手ひどい批判を受け、怒る。その姿を目にした魔美は超能力を使ってその評論家にいたずらするのだが、父は喜ぶかと思いきや、諄々と魔美を諭すのだった。
「公表された作品については、みる人ぜんぶが自由に批評する権利をもつ。どんなにこきおろされても、さまたげることはできないんだ。それがいやなら、だれにもみせないことだ」
魔美が、でも、さっきは怒っていた癖に、というと、父はこう答える。
「剣鋭介に批評の権利があれば、ぼくにだっておこる権利がある!! あいつはけなした! ぼくはおこった! それでこの一件はおしまい!!」
芸術家の矜持を見事に描き出した名エピソードである。であるのだが、もしかしたら既に通用しなくなっている考え方かもしれない、とも思う。
少なくとも、クリエイタたる者かくあるべし、とはいいがたいのではないだろうか。
このエピソードは、自分に批判を加えた相手の名前も素性もわかっていることを前提としている。この時代、まだ作品にかんする批評は大方そういう性質のものだったのだろう。
しかし、いまや、クリエイタたちは、高名な評論家の正々堂々とした批評以上に、ネットにあふれる批判や、時には誹謗としかいいようがない意見に頭を悩ませているように思える。
「あいつはけなした! ぼくはおこった!」といって済ませようにも、「あいつ」が何者なのかさっぱりわからないのが現実なのである。暗闇から射掛けられる矢に耐える精神が求められている。
もちろん、いまでもなお、「公表された作品については、みる人ぜんぶが自由に批評する権利をもつ」ことに変わりはないし、心が弱い者が創作を志すこと自体誤っている、ともいえるだろう。
でも、思うのだが、精神的に強い、あるいは図々しいひとばかりが、作家的才能を備えているわけではない。ネットから射掛けられる矢に耐え切れない天才がいないとも限らないだろう。
もし、いまの時代に、芥川龍之介辺りが生まれていたら、もっと早く自殺していたかもしれない、あるいはそもそも作家にならなかったかもしれない、などと思う。大変もったいない話である。
だからといってどうしようもない。ぼく自身、作品を批判することをやめようとは思わないし、そのことで作家が悩み、苦しんだとしても、申し訳ないとまでは考えないだろう。
ただ、「あいつはけなした!」といえるだけの個性は開示していこう、とだけは思う。べつだん、他人にそのことを強要するつもりはないけれど、ぼく自身は、自分の寄って立つところを包み隠さず開示していくつもりだ。
暗闇に隠れひそまないこと、クリエイタが「あいつはけなした!」と怒れるだけの「あいつ」であり続けること、それが、ぼくが自分に課す批判の条件である。
だれか、「くたばれネット評論家」という話を書かないかな。
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