ペトロニウスさんが〈戯言シリーズ〉の面白さがわからないと言っているので、少し解説してみる。
もっともぼくが『クビキリサイクル』や『クビシメロマンチスト』、『クビツリハイスクール』を読んだのは既に数年前のこと。記憶があいまいな点も多々あるので、うっかりいいかげんなことを書いてしまうかもしれないが、そのときはツッコミよろ。
さて、『クビキリサイクル』に始まる〈戯言シリーズ〉は、いまに至るも西尾維新の代表作である。
正直、『化物語』が楽しめて〈戯言シリーズ〉が全然おもしろくないというのはよくわからないのだけれど、あれですかね、あの青臭く殺伐とした空気を受け付けないのでしょうかね。それとも、ミステリ仕立てになっているせいでしょうか。
該当記事のコメント欄でid:genesisさんが詳しく解説している通り、西尾は初めミステリ作家として登場し、周囲もかれをそう遇した。
しかし、当時流行っていたエロゲ系の萌えキャラを十倍に濃縮して殺伐分を大量に投入したようなキャラクタが無数に登場するその作品は、ミステリとしてはあまりに破格だった。
そこで笠井潔は、『本格ミステリクロニクル300』において、西尾が代表する一派を「脱本格」と名づけた。
「清涼院から西尾にいたる「本格読者に物議をかもすタイプの作品」を、いずれも本格形式を前提としつつ、形式から逸脱する傾向が共通していることからここでは便宜的に「脱本格」、略して「脱格」系と呼んでおくことにしよう」と、笠井は書いている。
この時点での西尾のポジションはミステリ業界の鬼子だったわけだ。
しかし、西尾がその素質として、純粋なミステリ作家とは程遠いことは、〈戯言シリーズ〉が進むに連れてあきらかになっていく。
〈戯言シリーズ〉のなかで本格として評価できる作品が、『クビキリサイクル』と『クビシメロマンチスト』くらいしかないことは衆目の一致するところだろう。
完結編の『ネコソギラジカル』に至ってはどこからどこまでミステリではない。
西尾は、結局、エンターテインメントの一形式としてミステリを使いこなすことができる作家ではあっても、ミステリに命を捧げた作家では全くなかったのだ。
その意味で笠井が「脱本格」と名づけたのはたしかな判断だったといえるだろう。
それでは、〈戯言シリーズ〉の魅力はどこにあるのか。
初め、このシリーズの特徴は、一般的な意味での情緒が欠落した、ある種、非人間的な登場人物たちがくり広げる殺伐としたドラマにあると見られていた。
先述の『本格ミステリクロニクル300』で、笠井はこうも書いている。
第一次大戦の大量死を背景として生じた、二○世紀の探偵小説形式にとって、「人間失格」を自認する西尾作品の登場人物は、むしろ正統的である。「脱格」系新人の個性は、深いところで本格ミステリの精神に共鳴する。逆にいえば、この奇妙な小説形式がはらむ非人間性に、だからこそ「脱格」系新人は魅力的なものを感じ、多様な仕方で本格形式を前提とする作品を書きはじめたのかもしれない。
とはいえ、同じように非人間的なものに惹かれながらも、三十代作家と二十代作家のあいだには、世代精神的な落差もまた否定しがたい。綾辻行人をはじめ、第三の波の新人に多大の影響を与えた竹本健治『匣の中の失楽』には、人形の名前で呼ばれる登場人物が幾人も描かれている。本当は「人間」なのに、「人形」のようにガランドウで、なにかに操られるしかないという生の不全間、空虚感、失調感が、この作品の全編を支配している。綾辻以降の本格復興運動は、『匣の中の失楽』を継承し、「人間だった時代の記憶を忘れることのできない人形たち」のドラマを描き続けてきた。
しかし二十代の「脱格」系新人は、竹本=綾辻的な地平からさえ追放されている。おそらく「人間だった時代の記憶」などカケラもない、たんなる「人形としての人形」の時代が到来している。東浩紀の『動物化するポストモダン』を踏襲し、「人形としての人形」化を「動物」化と定義することもできる。
人形としての人形。動物。いずれにしろ、生身の人間からは程遠いイメージだ。
ところが、『サイコロジカル』、『ヒトクイマジカル』『ネコソギラジカル』と、話が進むに連れ、作品の雰囲気は変わって行く。
ヒトとしての感情をもたないように見えていた西尾の「人形」たちは、次第にその奥に秘めていた感情をあらわにするようになり、「人間」へと変わって行くのだ。これを、「壊れた」人間たちが「直った」と見ることもできるかもしれない。
ひとによっては、この展開を西尾の変質、あるいは後退と捉えるだろう。
最近作の『めだかボックス』に至っては、何と、少年漫画の王道を行くヒューマンな内容である!
西尾維新は、変わったのだろうか。ぼくは、そうは思わない。初めから、西尾はかれなりのやり方で「人間」を描いていたのだと思う。
ただ、それは最も無邪気な意味での「人間性」に対して疑義を叩きつけるものであったことはたしかだろう。
たとえば、ひとを殺すたびに悩み、苦しみ、もがくような葛藤を、「人間らしい」とは、西尾は考えないのだ。ある条件に対する常識的な反応を返すことが「人間的」であるという認識を、かれは、もたない。
いい方を変えるなら、ある条件に対する常識的な反応、たとえば人殺しを無条件に残酷だと感じるような感性を、信用していないということになる。
〈戯言シリーズ〉全九巻を通して西尾が試みたものは、あたらしいかたちでの「人間性」の再構築だったのではないか。
本当に信用できる「人間」を描くためには、従来の意味での「人間」を、いちど、完膚なきまでに壊す必要があった。『クビキリサイクル』、『クビシメロマンチスト』で西尾がやったことはそれだったのだと思う。
ペトロニウスさんはつまらなかったと書いているけれど、たしかにいかにも青臭い描写ではある。しかし、それは後半の展開を導くために必要なことだった。
いま考えると、〈戯言シリーズ〉は、ある意味で、ひとりの少年の葛藤と成長を描く、センチメンタルな青春恋愛小説でもあったのだね。
未読の方はちょうど文庫版が出ているので、ぜひ、読みましょう。ゼロ年代必読のライトノベルを一作選ぶとすれば、それは〈戯言シリーズ〉以外にありえない。
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