もしも世界の王様だったら。


 良く想像するのだけれど、もしもぼくが世界の王様だったとしたら、はたしてそれで幸福になれるだろうか。

 ここでいう世界の王様とは、ありとあらゆる権力を併せ持ち、しかも責任は負わない、という夢のような地位のことである。

 その地位に就くことさえできれば、すべての望みは叶うのだろうか。

 おそらく、そうではないだろう、と思う。ひとはどこまで行っても満たされることをしらないものだ。仮に夢の権力を得たとしても、必ず不満は出てくるだろう。

 たとえば、物語について考えてみよう。

 物語を愛する王様のもとに様々な作品が献上されて来る。それは王様ひとりを満足させれば良いのだから、かれの趣味に合わせて制作されたものになるだろう。

 そしてもし王様を失望させれば罪に問われるのだから、王様の期待を裏切るような内容は排除されるだろう。

 そういう物語はおもしろいだろうか。

 もちろん、おもしろいに違いない。それはある意味で夢の物語だ。自分ひとりのためだけに作られる、完璧な作品。失望や期待はずれがなくなることはないにせよ、それは最小限に留められるに違いない。

 しかし、とぼくは思う。そこには、予想をはるかに上回るものと出逢う興奮もまたないのではないだろうか。

 期待はずれの失望と、予想を超えられることの興奮とは、裏腹のものだと思うのだ。受け手に遠慮し、媚びる作品には、一定の限界があるのではないか。

 物語の、アートの魅力とは、畢竟、それを生み出す人間の魅力である。

 もちろん、作り手の人格がそのまま作品に反映される、といいたいのではない。そうではないが、物語もまた人間が生み出すものである以上、それを読み込むことは、その作り手と間接的に対話するようなものだとはいえるだろう。

 自分に対して過剰に配慮する相手との対話は、やはりどこかしら退屈なものなのではないだろうか。

 ひととのかかわりから、一切の失望や、不快感を排除してしまったら、本当の意味での興奮や感動もまた薄らいでしまうように思う。

 王様は退屈なのだ。

 逆にいうと、ぼくが物語にふれるとき、時に心から感動することができるのは、世界の王様ではないからである。

 作り手がぼくに対して遠慮せず、時に裏切り、時に失望させるからこそ、そこに真の感動があるのだ。

 それは全く異なる思想や価値観にふれ、自分自身の枠組みを揺り動かされる感動である。その作品にふれるとき、もはやいままでの自分ではいられなくなってしまう、そういう感動である。

 それはある意味で不快なことであるかもしれない。いまここにいる自分を否定されることに等しいのだから。しかし、その不快と、物語の歓喜とは、分かちがたく結びついていると感じる。

 ぼくは世界の王様ではない。だれもぼくに遠慮はせず、作りたいものを作りたいように作る。だからこそ、ぼくはその作品とを通して世界と出逢うことができるし、この世に異質なものがあることを知ることもできるのだ。

 退屈な王様であるよりは、心ゆたかな一観客でありたいと思う。