その作品はあなたのためにあるわけじゃない。


 ネットを眺めていると、しばしば、ある作品への不評、批判、あるいは誹謗を目にすることがある。

 誹謗はともかく、不評や批判をもらすことはそのひとの権利であり、一概に否定できることではない。

 しかし、個人的にはいかがなものか、と思う批判のスタイルもある。今回はその話をしようと思う。

 ぼくが好ましくないと考える批判とは、自分の趣味、あるいは欲望を唯一の基準としたものである。つまり、自分の趣味に合っていないものを、だからダメだ、と即座に否定してしまうような批判、それは良くないと思っている。

 なぜなら、その作品はそのひとの趣味に合わせて作られてはいないからである。

 どんな作品も、商業出版されている以上、ある個人のためにあるわけではないわけだ。それはいわば人類全体への贈り物であって、特定の個人の欲求に沿うものではない。

 ところが、読み手はしばしば、その作品を自分のためにあるものであるかのように思い込む。そして、自分が好まないということと、客観的に価値がないということを、混同してしまうのである。これは良くない。

 もちろん、ぼくにも嫌いな作品はいくらでもある。しかし、そもそも作り手にはぼくが好むような作品を作る義務はない、ということは自覚しているつもりである。

 ただ自分が好きではないというだけの理由で、その作品を否定しきることはない。というか、ないよう努力している。

 ごく親しい友人とのあいだの会話ならともかく、ネットのような公共の場所で作品の良し悪しを語るときは、単に自分の欲望に合う合わないではなく、その作品がどれだけの価値を秘めているのかを基準に語るべきだろう。

 ある作品が自分のためにあるという錯覚は、だれも幸福にしない。

 しかし、皮肉なことに、優れた作品ほど、そういう錯覚を生み出す。なぜなら、優れた作品とは、受け手に、まさに自分の理想に合わせて作られたかのようだ、と思わせる作品のことだからである。

 そういう作品の内容が受け手の欲望から逸れたとき(いつかは必ず逸れる)、受け手はしばしば「裏切られた」と感じる。

 だが、その考え方はやはりおかしいだろう。裏切られたも何も、作り手は初めからその受け手と何も約束していないのだから。

 小説でも漫画でもアニメでも何でも同じことである。エンターテインメントとは、最大の努力を払って受け手をもてなすことだ。しかし、決して受け手に媚び、ひたすらにその欲望を実現しようと努力することではない。

 どんな作品もある個人のためだけにあるわけではないのだ。そう思っていれば、作品なり作家なりに「裏切られた」と感じることを回避できるだろう。

 そう考えるべきだ、と信じる。