ジョジョの倫理的な変遷。


 先日、『ジョジョの奇妙な冒険』のバトルは、「智慧の戦い」から、「覚悟の戦い」、「哲学の戦い」へと進化していったということを書きました。

 で、『ジョジョ』の内容的な変遷は、もうひとつ、「正義」と「悪」を巡る倫理的な葛藤に見て取れると思うのです。

 つまり、『ジョジョ』という作品は、勧善懲悪の物語から、次第に善悪定かならぬ、混沌とした物語へと変わって行っているように思えるんですね。

 既に描かれている七部のうち、第一部は完全なる勧善懲悪の物語でした。

 主人公ジョナサンは上流階級の紳士であり、悪役のディオは邪悪な吸血鬼。「善」と「悪」は対極のものとして描かれています。

 『ジョジョ』が並大抵の勧善懲悪ものと違うのは、悪の象徴であるディオの鮮烈さにあるでしょう。

 特に吸血鬼と化したあとのディオの悪辣さは、漫画史上にのこるものだと思います。

 しかし、第二部以降、この勧善懲悪の構図は少しずつ変わって行きます。主人公が表面的には必ずしも正義の味方に見えなくなっていくのですね。

 第二部の主人公ジョセフはジョナサンのような紳士ではなく、軽い性格の若者です。そして、第三部と第四部の空条承太郎東方仗助は反社会的な不良少年、第五部のジョルノ・ジョバァーナはディオの血を継ぐ身で、しかもギャングの一員、第六部の空条徐倫に至っては罪を犯し刑務所に閉じ込められてしまっています。

 『ジョジョ』の主人公は世代を重ねるに連れて、その反社会性を強めていくのですね。

 また、彼らジョジョたちに敵対する悪役の方も、次第に印象が変わって行きます。

 第一部から第三部で悪役を務めるディオやカーズはまさに邪悪そのものといった存在でしたが、第四部の吉良吉影は殺人癖をもちながら「平穏」を求める奇妙な人物で、第五部の「ボス」はむしろ臆病なほどの自己保身の怪物です。単に悪そのものとはいえない人格なのです。

 そして第六部のブッチ神父は、徐倫らに対抗するだけの大義を抱えた人物として描かれています。結果として神父は「悪」として退けられるわけですが、むしろかれの言い分の方に説得力を感じたひともいるのでは?

 とはいえ、それでもなお、かれらが自分の目的のために犠牲を厭わない「悪」であり、ジョジョたちが時に軽薄な表面のその奥に熱い「正義」の心を隠し持っていることは変わりありません。

 この「正義」を信じる心こそが、時に複雑難解になりがちな『ジョジョ』を少年漫画の枠組みのなかに留めていたといえるでしょう。

 第三部のクライマックス、ディオとの決戦のとき、ポルナレフは考えます。

 DIOは『黒』! ジョースターさんたちは『白』 『黒』と『白』がはっきり別れて感じられるぜ! 傷ついた体でも勇気がわいてくる 『正しいことの白』の中におれはいるッ!

 「白」と「黒」、「善」と「悪」は別物、時に交じりあい、時に区別が付かないようなことがあるとしても、主人公たちが「正義」で、敵対者が「悪」であることに変わりはない。それが『ジョジョ』を貫く構図だったといえるでしょう。

 ところが、第七部に至って、主人公ジョニィは遂にこう叫びます。

どうしても遺体を手に入れたいッ! 「生きる」とか「死ぬ」とか 誰が「正義」で誰が「悪」だなんてどうでもいいッ!! 「遺体」が聖人だなんて事も ぼくにはどうだっていいんだッ!!

 これこそ、歴代ジョジョたちが決していわなかったであろう魂の言葉です。

 ここに至って、完全に『ジョジョ』は勧善懲悪の構図を超えてしまったように見えます。もはや、ジョニィは「正しいことの白」のなかにいるとはいえません。

 かれは「正義」のためではなく、ただ「遺体」を手にいれるという自分の目的のために行動しているのです。

 もちろん、物語はまだ終わっていませんから、このあとどう展開するのかはわかりません。あるいは、いつか、巨大な「悪」を目前にして、ジョニィのなかに眠る熱い「正義」の心が目ざめるかもしれません。

 しかし、いずれにせよ、「白」対「黒」というようなシンプルな構図ですべてを語れる状況には戻らないだろうと思います。

 以前にも述べたように、変わりつづけることこそが荒木飛呂彦の天才の証。ジョジョの倫理的な変遷はこれからも続いていくことでしょう。

 第八部のジョジョがどのような設定になるか、いまから興味津々です。

スティール・ボール・ラン (1) ジャンプコミックス

スティール・ボール・ラン (1) ジャンプコミックス