『十二ヶ月』。


 栗本薫『十二ヶ月』をパラパラと読みかえしている。

 SFから私小説まで、ジャンルから文体からすべて異なる十二の短編を十二ヶ月かけて発表し、一冊にまとめ上げた異色の短編集である。

 一冊の本としての洗練を問うならともかく、一時期の栗本が小説家としてどんなに巧かったか、そのことを知りたいとねがうなら、この本を読むのが一番だと思う。

 何しろ、たしかに一人の作家が続けざまにものした作品であるにもかかわらず、十二の短編それぞれが、まるで異なる個性と蠱惑をそなえているのだ。

 たとえば、社会派ミステリを扱った「三月」の冒頭はこんなふう。

「うわあ」
 早田はやにわにペンを放り出して両手を上につきあげた。
「ネタ切れだあ」
「うるせえな」
「ネタ枯れはこっちも同じだよッ」
 たちまち、まわりから、怒声がとんでくる。
「静かに悩んでろ」
「こっちなんざあ三年ごしのネタ切れだぞ」
「さっき云ってたのは、やめたの」
 副デスクの林だけが、いくらかまともに相手をした。

 見るからに簡潔。

 ところが、「七月」の青春小説の冒頭はこうなのである。

 ぼくはいまでも覚えている。それは短い夏の夜の夢、ふしぎな甘いおとぎ話―――そのあとも、何もかわらず、ぼくはやっぱり公園通りへやってきて、たまにとおくから、いつもひとりでぼんやりしているあの人を見るのだが、そのたびに、ぼくは、まるで映画の一(ワン)シーンみたいだった、あのおとぎ話のラスト・シーンを思い出すのだ。ぼくとフウがいて、そしてあの子、ポニーテールのお姫さま。黄色いサーキュラースカートがくるくるまわり、こがね色の光のうず巻き、かるいステップ、ピンクのリボン、ポニーテールの姫ぎみから、黒メガネとヒゲのナイトへ放られた、子供っぽい別れの花束。キャストはぼく、フー子、それに神(じん)さん―――甘くせつないローマの休日
 結局、何もおきなかったし、一日の夢だからこそすてきなのかもしれなかった。でもぼくは、そんなおとぎ話が好きなのだ。BGMは「いつも通り」いつもの町へとび出して、笑ってとび出して。雨はてのひらにいっぱいさ。そうさぼくの心のなかまでも―――これは達郎。そんな話があったこと―――きみはききたいと思うだろうか。

 リズミカル、としかいいようがない。

 その話の目的に従って自在に文体を変え、細かな雰囲気をも調整しうる、たぐいまれな技量と才能が、少なくともこの時期の栗本にはあった。

 惜しいひとを亡くした、といまさら嘆いても仕方ない。しかし、ほんとうに、世にも稀な作家であった。

 同じ時代に生まれ、同じ時を過ごせた奇跡を、ヤーンの神に感謝しよう。

十二ヶ月―栗本薫バラエティ劇場 (新潮文庫)

十二ヶ月―栗本薫バラエティ劇場 (新潮文庫)