追悼、栗本薫。


 栗本薫さんが亡くなったそうである。

 何といったらいいのか……。何といったら……。今度ばかりは、言葉も出ない。

 追悼のために何か書かなくては、と思うのだが、どう書けばいいのかわからない。

 ひと言だけ言葉を選ぶとすれば、「ありがとうございました」になるだろう。人生の辛く長い道程のなかで、彼女の作品にどれほど助けられたことか。

 『グイン・サーガ』があったからこそ、ぼくはいままで生きてくることができた。そういい切ってもいいほどだ。

 大げさだと思うひともいるだろう。言葉を飾っているだけだと感じるひとも。しかし、ぼくと同じように、優れた物語の存在を杖として人生を歩いてきたひとなら、きっとわかってもらえるはずだ。

 そこに面白い物語があるということ、それがどれほど人生を豊かにしてくれるかということを。

 ぼくはいま、打ちひしがれている。言葉を選んで書くことができない。だから、率直に記すのだが、いま感じる最も深い哀しみは、もう『グイン・サーガ』の続刊を読むことはできないのだ、といういい知れぬ哀しみである。

 おそらく、いま、何万という人がその寂しさを抱えて嘆いていることだろう。あまりにも早すぎる。もっと、もっと読めるものと思っていたのに、と。

 もうイシュトヴァーンの覇業の果てを知ることはできないのだ。ヴァレリウスがどんな未来を選ぶのか知ることもできないのだ。永遠に失われたものの、その、何という大きさ!

 涙が出て来る。神よ、運命を司るというヤーンの神よ、なぜ、あのひとをこんなに早く逝かせたのですか。あのひとは、この世界に必要なひとだったというのに。

 しかし、そう、わかっている。どんなに惜しまれるひとであっても、ひとは必ず死ななければならない、その運命を受け入れることことこそが、真の意味で生きるということなのだ。それこそが栗本薫が生涯をかけて主張してきたテーマだったということを。

 栗本薫は、「死」に取り憑かれた作家だった。彼女の書くものには、いつも「タナトスの翳り」が感じ取れた。

 それは、おそらく、感じないひとにはそれと知れないものだっただろう。しかし、ぼくのような暗い人柄の者にははっきりと読み取れるものだった。

 ぼくが特別だ、といいたいわけではない。そんなことでは全くない。ただ、彼女の作品はぼくと非常に波長が合うものだった、というだけのことである。

 すべてのひとはやがていつかは逝く――そのだれもが抱える根源的宿命を正面から見据え、受け入れること、それが栗本薫が考える「生」だった。

 トーラスのオロはそうやって生きた。アルド・ナリスはそういうふうに逝った。死を、運命を受け入れて、ひとは、初めて安らぎを知る。栗本薫はそのことを知っていたのだろう。

 『グイン・サーガ外伝』の解説を書けたことは、ぼくにとって、一生の誇りとなると思う。

 あの解説を、ぼくは、何十回となく書きなおして書いた。その時点での、最高の文章になったと自負している。もちろん、それでもなお拙い文章である。しかし、愛情と敬意が詰まっていたことだけはたしかだ。

 栗本薫は逝った。逝ってしまった。何ということだろう。何ということだろう! あのひとはいなくなってしまったのだ。

 たしかに何もかも完璧な作家だったとはいえないだろう。いまとなっては早すぎる晩年となった後期の作品に、批判が集まっていたことも知っている。しかし、ぼくにとっては、地上最高の、そして永遠に唯一無二の物語作家である。

 ご冥福をお祈りする、などという決まり文句で彼女の死を穢すことはしたくない。彼女が、死を予期し、それを強靭な精神で受け入れていたことは、中島梓名義でのさいごのエッセイとなった『ガン病棟ピーターラビット』を読めばわかる。

 そこには、嘆きも、恨み言もなく、ただ生きてあるかぎり物語を書きつづけるという、真に作家として生まれた者のみが吐ける、魂の言葉が記されていた。

 彼女の代表作にして、個人が書いたものとしては人類文学史上最長の作品である『グイン・サーガ』は、一二○巻余りを費やして、いま、ようやく外伝一巻『七人の魔道師』の時点にまで辿り着いたところである。

 最終巻となるはずだった『豹頭王の花嫁』が書かれる事は、もう、ない。

 豹頭の戦士グインの故郷ランドックの秘密は、これで、永遠のなぞとなった。これからも、多くの読者が、この世界に入り、そして未完に終わってしまったことを嘆くことになるだろう。

 そしてまた、たとえばディケンズの作品の失われた解答を巡っていまも論争が絶えないように、『グイン・サーガ』の、数しれぬとわに奪われた秘密を巡って、議論が続くことだろう。その謎に答えを記すことができるただひとりのひとは、もう、涅槃に旅立ってしまったのだ。

 彼女が亡くなったことで、グインたちが棲む世界、遥かなる神秘の中原が消滅した、とは考えない。考えたくない。しかし、その世界とこの世界を結ぶ、ただ一本の糸は途絶えてしまった。

 もう二度とこんな小説を書くひとは出てこないだろう。文字通りの不世出の作家だったのだ。

 『グイン・サーガ』、『魔界水滸伝』、『真夜中の天使』、『翼あるもの』、『終わりのないラブ・ソング』、『絃の聖域』、『猫目石』、『天狼星』、『レダ』、そしていくつもの中短編。

 彼女はあらゆるジャンルであらゆる種類の小説を書いた。そのすべてが、彼女にしか書けないものだった。もう二度と出ないだろう。二度と。

 彼女の死と直面して、ぼくは、「獅子」と題する短編のことを思い出している。末期がんにかかった若き歌舞伎俳優を主役にした作品である。

 この短い物語のなかで、その役者は、死と直面することによってその芸を開花させて行くのである。ぼくの読書人生で五指に入る短編だと断言できる。

 あるいは、『絃の聖域』の、あの、静かなるクライマックス。あるいはまた、『蜃気楼の少女』で描かれた、月光のカナン。

 栗本薫は、ひとがいつか死ななければならないということを、嘆くひとではなかった。グインそのひとがそうだったように、常に運命を雄雄しく受容するひとだった。だから、ぼくが彼女の死を嘆く必要も、本当はないのだろう。しかし、それにしても――。

 栗本先生、いまだけは先生と書かせていただきます、本当に、本当にありがとうございました。あなたの書かれた作品はぼくにとって希望の光、この辛い、苦しい、暗黒の現世のなかで、灯台のように輝くルアーの光明でした。

 もし、この世に〈向こう側〉があるとしたら、あなたはそこでも書き続けられるのでしょうね。そう考えると、少しだけ、ほんの少しだけ慰められるような気もします。

 そういえば、あなたが尊敬してやまなかった手塚治虫も、『火の鳥』を完結させることなく逝ったのでした。あなたの死は、世界と人類にとって、手塚の死に匹敵する大きな喪失だとぼくは信じます。

 栗本先生、いまはお眠りください。あなたの作品によって深い魂の慰めを得た何万という読者の一人として、心から追悼させていただきます。

 ありがとうございました。そして、さようなら。それが可能なのだとしたら、〈向こう側〉で『豹頭王の花嫁』を読める日を楽しみにしています。

 もう二度と、このような三味線をひくものはあらわれぬだろう――その、冴えかえった、きくものの心をえぐり、語りかけてくるひびきに全身をゆだねながら、伊集院大介はいまはじめて安藤藤野の心を理解し、そして思っていた。むろん、これからも、名人、天才と呼ばれるものはあらわれてくるだろう。喜之助が運がよければ、精進しだいでは、あっぱれ名人と呼ばれもするだろう。
 しかし、これは――安藤喜左衛門の芸、それは、その人と共に死ぬのだ。レコードも、ビデオ・テープも記録することのできぬもの――それは、いま、まさしく、そこでその人がひいている、という奇跡なのだ。いかに多くの名人上手を、ひとびとは、ひきとめ、永遠(とわ)にわれらと共にあれよと祈り念じたことだろう――しかし、人よりも数倍、数十倍のつよさ深さで世にはびこったあと、かれらですら、死んでゆく。人として、できうるかぎり神のわざに近づき、それでもなお、かれらですら、滅び、そのきわめたわざは無にかえり、誰もそれを継承するものはいない。人は、つねに、また、ひとりひとりが一から出直して、そして少しでも先人の通った道をとおり、先人に近づき、それを超えなくてはならないのだ。

『絃の聖域』