西の空に月が仄かに白くなりつつある頃、「カタハネ」と題されたその物語を終えた。
ぼくはとうに冷めてしまった珈琲を啜りながら、一人、小さく手を叩いた。拍手するに値する作品だ、そう感じた。
初めはそれほどの出来とは思わず、他愛ないファンタジィに過ぎないと考えていた。しかし、どうやらそれは誤りだったようだ。
その証拠に、物語が終わり、スタッフロールが流れた始めたその瞬間、切ないような余韻が胸を満たした。最も優れた物語が幕を閉じるときだけに感じる、曰くいいがたい想い。
そのふしぎな余韻は、夜明けが都市を明るく染めても、日没が世界を暗く閉ざしても、去ることはなかった。そして一日。ぼくはようやくその想いから醒め、この文章を綴っている。あなたに、この作品のことを伝えるために。
さて、どこから語りはじめたものだろう。物語の初めからか? 背景を成す世界の在りようからか? 否、つくり手の工夫に敬意を表して、話の構成から説明するべきだろう。
この作品はふたつの物語から成り立っている。ひとつは「シロハネ」。演劇に力を注ぐ少年少女たちを主役にした旅行劇。いまひとつは「クロハネ」。「シロハネ」の百年前、ふたつの大国に挟まれた小国を舞台にした陰謀劇。
物語はまず「シロハネ」から始まり、合間に「クロハネ」を挟み、そしてふたたび「シロハネ」へと戻っていく。
「シロハネ」の物語は、史学者を志す青年セロが、古い自動人形ココのメンテナンスのため、白銀の村ジルベルクへと赴くところから始まる。
セロの友人ワカバは、近く開催される演劇祭の役者を探すため、その旅に同行する。
ワカバが考えるシナリオは、いわく付きの悲劇『天使の導き』を正反対の内容に書き換え、逆賊とされる男アインを好漢として描き出すという奇抜な代物。
その内容故、役者を見つけられるかは不たしかだったが、幸運か運命か、主役を演じるにふさわしい少女、アンジェリナとベルを見つけ出すことに成功する。
そして、その時、真夜中の夢のなかで、ココの封印された記憶がよみがえる。それは百年前、彼女がいまは無き「白の国」の宮廷にいた時代の記憶。
そう、その頃、ココは、いまは逆賊とされるアインや、彼の手にかかったというクリスティナ姫とともに王宮で暮らしていたのだ。
それでは、なぜ、ココはその頃の記憶を忘れてしまったのか? アインはなぜ逆賊とよばれるようになったのか? いくつもの謎を孕みつつ、「クロハネ」の物語が幕を開ける。
初め、「シロハネ」と「クロハネ」の関係は伏せられている。ココ一人を除いて、共通する人物はいないし、物語の雰囲気も大きく違う。
しかし、話が進展するに連れ、次第に「シロハネ」と「クロハネ」を結ぶ糸が見えてくる。ふたつに見える物語は、本当はひとつの物語なのだ、と。その瞬間のカタルシスが、この作品の大きな魅力である。
『カタハネ』を称える者は、だれもがその伏線の妙を挙げる。一見すると無意味に見える展開、無関係に思える情報が、さいごには一箇所で結び合わされ、ひとつの模様を形づくる、その巧みさ。
しかし、この作品の魅力は、ただ伏線が巧く結び合わされるというだけのことではない。すべての伏線が結合した結果、見えてくる模様こそが『カタハネ』の真の魅力なのだ。
その模様について、ぼくの口から話してしまうわけには行かない。ただ、実に見事な模様だったと、それだけはいっておく。
先ほど述べたように、『カタハネ』は「シロハネ」と「クロハネ」から構成されているわけだが、物語の中核を成すのは初めに語られる「シロハネ」よりむしろ、「クロハネ」の方だろう。
「シロハネ」は無邪気な少年少女たちの旅行の物語である。その旅は楽しい。なぜなら、彼らには未来があり、可能性があるからだ。その希望こそが、物語を明るく彩っている。
一方、「クロハネ」は既に終わってしまった出来事である。「シロハネ」を読み終えた者にとって、クリスティナ姫やアインが非業の運命を遂げたことは既に分かっており、変えられる余地はない。あらかじめ悲劇を運命付けられた物語、それが「クロハネ」だ。
しかし、それだけに、「クロハネ」の面白さは、半端なものではない。
全国を旅して巡る「シロハネ」と異なり、物語の舞台は、赤と青、ふたつの大国に挟まれた白の国の宮廷に限られる。百年後にはなくなってしまっているこの国で、姫君と人形を巡る陰謀が繰り広げられる。
青の国からやって来た策士ヴァレリーと白の国の重鎮であるアインが繰り広げる、丁々発止の頭脳戦。陰謀あり、剣戟あり、純愛あり、と、エンターテインメントに必要なあらゆるものがここには揃っている。
何より、百年後には歴史と芝居のなかの人物となっているアインやデュアが、ここでは生きて、活躍しているのだ。
「シロハネ」の人物たちが無邪気であるのに対し、「クロハネ」の人物は総じて大人であり、その想いも内心に秘めていることが多い。
アインと女騎士デュアの関係には、じれったさを感じる読者が多いだろう。しかも、この二人は、未来では、主君を裏切った逆賊と、守り抜いた英雄として、正反対の評価を与えられるのだ。
いったいなぜそんなことに? 読者は興味に引きずられ一心に物語を読み進めていくことになるだろう。
そして、物語は、一直線に悲劇へと向かっていく。一人、また一人と、登場人物たちが倒れていき、さいごにひとりのこった男が静かに決断を下したとき、ぼくは思わず感嘆の吐息をもらした。そうだったのか! 明かされた真実が、心に重かった。
しかし、「クロハネ」が完全に幕を下ろしても、物語はまだ終わらない。話は「シロハネ」へと戻り、その後のことが語られる。
汚名を着て逆賊となったアインは、死後、どうなったのか? セロたちは真実を追いかけていく。
ジョセティン・テイに『時の娘』という作品がある。
怪我で入院中のグラント警部が、暴君として伝えられるリチャード三世の汚名を晴らそうとベッド・ディテクティヴを繰り広げる歴史推理小説だ。
ひょっとしたら、『カタハネ』はこの小説から影響を受けているのではないか、と思う。『時の娘』でのリチャード三世にあたるのは、もちろん、アインである。
果たしてアインの名誉は回復されるのか? それはご自分の目で確認してほしい。期待は裏切られないことと思う。
もうひとつ、この作品がいわゆる「百合」テーマであることにもふれないわけには行かないだろう。
この作品では、物語の実質的な主役であるクリスティナ姫とエファ、アンジェリナとベルはレズビアンの関係にある。
しかし、これは決して、同性愛を特別視して賛美したり、侮蔑したりしている作品ではない。作中に同性愛に対して偏見をもつ人物は登場しないし、その愛が、同性愛であるか、異性愛であるかはほとんど問題にもされない。
そして、同性愛と異性愛の、そのいずれが正しく、いずれが誤っているとも、いずれが真実で、いずれが偽りであるとも示されることはない。ここでは、同性愛も、異性愛も、等しく祝福されているのである。
その意味で、『カタハネ』は、狭い意味での「百合」作品とはいえないだろう。あるいは、少女たちがあそぶ楽園を見たい向きには、この作品は忌避されるかもしれない。
作中でクリスティナやベルと同じくらい重要な役割を果たすセロとワカバ、アインとデュアは異性愛者だからである。
しかし、ただ同性愛の物語を読みたいわけではなく、一作の優れた物語を読みたいと願うひとなら、この作品に満足できるのではないか。
ぼく個人としては、もっとこういう作品を読みたいと心から思う。このような、同性愛が、禁断の欲望としてではなく、単なる愛の一つのかたちとして語られる物語を。
そういうわけで、皆さんに『カタハネ』をお奨めさせていただく次第である。
作品全体を眺めわたせば、ささやかな瑕疵や、物足りないところがないわけではない。しかし、そういった点を差し引いても、まず、傑作と呼ぶことのできる作品だと思う。
ココの失われた記憶がよみがえり、彼女が亡きひとにさよならを告げる時、静かな感動がさざ波のように胸に満ちた。
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