なおも続くタバコの話。

楽しみながら拝見させてもらっています。

僭越ながら先日の記事についての感想を送らせて頂きます。

>ただ、ぼくがいいたいのは、マナーが悪い人を基準にして喫煙者全体を非難することはおかしい、ということです。

これ、自分としては「おかしいのかな?」と思ってしまうのです。

ある集団に対してへの見方が最下層の存在を基準にして受け止められてしまうのはおかしくはなく、むしろ当然(必然?)のことなのではないかなーと考えてしまいます。

喫煙者が「マナー悪い人がいるけれど自分は違うよ? 良マナーだよ」と言ったところで、その状況改善には全く行動を起こさず「我関せず」の姿勢を取り続けている限り同罪ではないかと思います。

むしろ見知らぬ「誰か」に罪を押しつけているようにも思えてしまいます。

それを否定できるほど喫煙者はマナー向上のためになにか啓蒙活動を行っているのでしょうか?

ポイすてをしないよう携帯用灰皿を持ち歩くとか、歩きながらの喫煙をやめて喫煙所のみで吸うとか、そういう行動を個人で行っている人はいます。

でも、その活動を個人の限りに留めてしまい自分が所属する集団へ広げていかないのであれば全体のマナーの向上は認められず、ひいては集団が十把一絡げに「悪マナー」と見られてしまっても……それは受け止めて欲しいと思いますし、受け止めるべきだと思います。

(もちろん個人レベルでも活動していることは正しい行いだと思います。間違いではないですし、無駄にはなってません!)

>一部の罪を全体に着せるわけには行きません。

わかります。理性ではわかるのですけれど……なにか納得できないのですよね。

あちらが「マナーの悪い喫煙者の罪は自分が犯したも同じことだ!」と覚悟して受け止めているならば、こちらも「いやいや、そこまでは言ってないから」と打ち消すこともできるのですけれど……。

話は違いますが、オタクに対して世間の目は冷たいものです(最近は緩和された気がしますが、それでも!)。

それはオタク要素をもった人(マンガを所持していたというだけでも!)が犯罪を犯したため、悲しいかな集団として判断されてしまっていることだと思ってます。

罪を犯した人を「自分たちとは違う特殊な例」として除外するのではなく、オタクは誰もがそうなりうるのだと受け止めて、常に「社会に対して正しいことをやれているのか」と自分にもそして仲間にも問いかけていく意識が必要なのだと思ってます。

つまり、なんといいますか「人間は人殺しになる」という危機意識をもって生きていくべきですよね……と思うのです。

一部の人の罪なのかもしれないけれど、それは集団が持って生まれた原罪のようなものではないかと。

喫煙者は(オタクは!)生まれながらにして罪人である……と断じてしまうのは、いささかオーバーな反応かもしれませんが、でもそれくらいの意識を持つべきだと思ってます。

正気とは何かを問うたとき「それを考え続ける意志」と答えたのは片山憲太郎の『紅』でしたか。

誰かが犯した罪を自分の罪のように受け止められることができれば、世界はもう少し良くなるのかもしれません。

以上、長々と失礼しました。

これからも更新を楽しみにしています。

 ご意見、拝読させていただきました。以下、いくつかに分けてぼくの側の意見を述べて行きたいと思います。

ある集団に対してへの見方が最下層の存在を基準にして受け止められてしまうのはおかしくはなく、むしろ当然(必然?)のことなのではないかなーと考えてしまいます。

 ぼくは当然だとは思いません。

 一部の(「最下層」の)人間の行動なり言動を基準にある集団の全体像を捉えるような考え方を「偏見」と呼ぶのだと思います。偏見をもつことは良くないことです。

 たとえば、会社の女性社員が仕事をサボっているところを見て、「だから女はダメなんだ」と考えるような思考法はその典型でしょう。

 個人の罪は個人の罪、集団の罪とは分けて考えるべきだと考えます。

喫煙者が「マナー悪い人がいるけれど自分は違うよ? 良マナーだよ」と言ったところで、その状況改善には全く行動を起こさず「我関せず」の姿勢を取り続けている限り同罪ではないかと思います。

 これも、ぼくはそうは思いません。罪を犯していないひとと犯したひとが同罪であるはずがないと考えます。

 たとえば、一部のマナーの悪い登山者の行動によって、富士山がゴミだらけになってしまったことは有名な話ですが、だから「富士山のゴミをなくそうとしない登山者はすべて同罪だ」とはいえないでしょう。

 悪いのはじっさいにゴミを捨てたひとであって、そういう行為をしていないひとには罪はありません。

 もちろん、現実問題として、そういう一部の不心得者の行為によって日本の登山者のイメージが悪くなってしまうことはどうしようもないことです。

 しかし、どうしようもないからといって、正しいわけではない。喫煙の問題も同じことではないでしょうか?

 富士山清掃などの手段によって、登山者が悪化したイメージをよくしようとすることは尊敬すべきことだと思います。ただ、だれもがそうできるわけではないし、そうできないからといって軽蔑されるべきでもないでしょう。

罪を犯した人を「自分たちとは違う特殊な例」として除外するのではなく、オタクは誰もがそうなりうるのだと受け止めて、常に「社会に対して正しいことをやれているのか」と自分にもそして仲間にも問いかけていく意識が必要なのだと思ってます。

 罪を犯したひとを特別扱いせず受け入れることはすばらしいことです。しかし、だからといって、そのひとの犯した罪を背負うことができると考えるのは、欺瞞であり、傲慢ですらあるのではないでしょうか?

 たしかに、すべてのオタクなり喫煙者は罪を犯す「かもしれない」存在であるかもしれません。しかし、じっさいに罪を犯したひとと、そうでないひとには、やはり大きな違いがあります。

 自分が社会からどう見られているかを意識して襟を正すこと自体は悪いことではないでしょう。しかし、それを他人に強制しようとすることは正しいことだとは思えません。

 「自分もまた罪を犯すかもしれない存在である」と自戒することと、「あいつは罪を犯すかもしれない存在なのだ」と偏見を抱くことは別のことです。そしてぼくが問題にしているのは後者なのです。