喫煙を巡る小論考。


 115さんからのメール。

はじめまして。少し前からこちらのブログを拝見している者です。

先日の「禁煙バトルロワイヤル」に関する記事への他の方々の反応にビックリしたので、わたしもメールを送らせていただくことにしました。

わたしは嫌煙家ですが、件の記事を読んで思ったことは、端的に言うと「へえ、そういう考え方もあるんだ」程度のことです。

そうそう実践できる生き方ではないけど、自由業の人ならアリかもなあ、と思いました。

だって、記事を読む限り(引用元の本の全容は知りませんが)、単に自己の健康と喫煙習慣だけについて述べたものですよね。その範囲だけで愚考か否かを討論しているだけで。

受動喫煙だとか喫煙マナーだとか、そういう他者への迷惑はまた別の話ですよね。

なのにその記事について、悪と決め付けて断罪したり、非難したり、罵倒したりという、そんな意見が寄せられるということにビックリしました。

わたしは嫌煙家です。あの煙を吸うと気分が悪くなって立っていられなくなるなので、極力喫煙家とは行動しません。それくらいですから、マナーの悪い喫煙家を見ると、正直「死ね」と思うこともあります。煙草なんかこの世から消えてくれればありがたいです。

それに個人的に、あんな不味い煙に依存しないと精神を保てない人間を、信用はできないんです。

だから、かなり喫煙には否定的です。

でも、今回の他の方々の反応を読んで、嫌煙家のマナーもひどいなあと思いました。初めて知りました。こんな一方的な嫌煙家がいるということを。

「喫煙=悪」が絶対で、これはまるで脊髄反射ですよね。喫煙を肯定する意見はとにかく許さないと。

他人の喫煙の被害で大事な人を亡くした経験があるとでも言うならまだわかるけど・・・。そうでもないなら、個人のブログの記事にそこまで噛み付けるというのは、人間として不安定すぎると思います。

長々と失礼しました。

自分と違う人間の意見として、こちらのブログの更新を楽しみにしております。

では。

 ご意見ありがとうございます。

 当サイトに寄せられた意見にびっくりされたとのことですが、ぼくも初め、タバコを巡るやり取りを目にした時は驚きました。いったいなぜ、たかがタバコのことでなぜこれほどいがみあい、争いあわなければならないのか、と。

 先日読んだ北村薫の小説『鷺と雪』に、こんな台詞がありました。

「(前略)――身分があれば身分によって、思想があれば思想によって、宗教があれば宗教によって、国家があれば国家によって、人は自らを囲い、他を蔑(なみ)し排撃する。そのように思えてなりません。(後略)」

 この台詞に倣うなら、「タバコがあればタバコによって、人は自らを囲い、他を蔑し排撃する」といえるでしょう。

 愛煙家であれ、嫌煙家であれ、同じことです。なぜなら、問題はタバコを吸うか否かという点にあるのではなく、自分と異なる立場の人間に対し想像力を巡らすことができるかという点にこそあるのですから。

 くり返しますが、たかがタバコのことです。しかし、その「たかが」のことですら、ひとはこれほどまでにかたくなになる。そうだとするなら、人種問題だの、宗教対立だのが解決できないことはあまりに当然といえるのではないでしょうか。

 ここにはひとが抱える不寛容といがみあいにかかわる、何か根本的な問題が横たわっています。自分の気にくわない相手にレッテルを貼り、軽蔑し、排撃する、人間の本質があらわになっています。

 逆にいえば、この対立を乗り越えられるなら、他の対立もまた乗り越えられるかもしれない、ということです。そういう意味で、『禁煙バトルロワイヤル』という本はおもしろい。大人の余裕を感じる一冊でした。

鷺と雪

鷺と雪

禁煙バトルロワイヤル (集英社新書 463I)

禁煙バトルロワイヤル (集英社新書 463I)