喫煙は愚行か?


 タバコの話を続ける。

 昨日取り上げた『禁煙バトルロワイヤル』には、先日亡くなった忌野清志郎にふれた箇所がある。

奥仲 禁煙しようという方は、やっぱり自分の健康に危機感を持っておられるんだと思うんです。最近では、吉田拓郎さんや柴田恭平さん、忌野清志郎さんとか、喫煙歴の長い芸能人の方のがん告白が話題になっていますが、そういう話を聞いても、太田さんは、これはまずい、やめようかなという気にはならないですか。

太田 ならないですね。だって、僕らRCサクセションを聞いていた世代ですけど、忌野清志郎はタバコを吸っている方がずっと魅力的ですよ。今はやめているのかもしれませんけど。

 忌野生前の会話であるわけだが、太田は、いまでも同じことをいうだろうか。いうだろう。

 ネットには忌野の死と喫煙を関連づけ、「またもタバコが貴重な命を奪った」と結論する意見が少なくないが、太田はそのような見方を採らないと思う。

 かれはいう。

太田 僕が言いたいのは、がんになっちゃいけないんですかという話なんです。だって、がんになった人の感動的なドラマがいっぱいあるわけで、僕自身は、がんがなきゃつまんないだろうとすら思うんですよ。極論すれば、人間、死ななくなったら面白くねえよってことです。たとえば、今は肺結核は不治の病ではなくなったけれど、昔の文士とか、結核死に至る病だったからこそ生まれた文学というのもいっぱいあるじゃないですか。そういうことは、どう考えるのかと僕は言いたいんですよ。果たして長生きすることが、そんなにいいことなのかと。

 だから、太田は忌野が亡くなったからといって、自分の意見をひるがえしはしないだろう。

 ここで太田が提言している、そもそも、がんにかかることはいけないことなのか、ひとはだれも皆長生きしなければならないのか、という問題は考える価値があると思う。

 タバコがなぜこうも問題視されるのか。いうまでもなく、健康を害するリスクを高めるからである。

 しかし、それなら、ひたすらにリスクを減らすことだけが正しく、リスクを増やす行動を取ることは愚かなのか。ぼくは、そうともいいきれないと思う。

 その理屈でいうなら、登山などは愚行としかいいようがないはず。山に登らなければ存在しない遭難死のリスクをわざわざ背負うわけだから。

 しかし、一流の登山家は一般に賞賛すべきひとと見なされている。この落差は何なのか? 登山のリスクを採るひとと、タバコのリスクを採るひと、両者のあいだに何の違いがあるというのか?

 ぼくには、何の違いもないように思える。両者とも、リスクを支払ってでも得るものがある、という判断を下しているに過ぎない。

 ただ単にリスクを減らすことだけを考えるなら、最も効率的な生き方は、家から一歩も出ないことだ。

 いや、それでは貧困というリスクを背負うから、最低限の仕事だけはこなし、あとは酒も呑まず、大食いもせず、趣味ももたず、友人ももたず、暮らす。

 そういうライフスタイルは魅力的だろうか? ぼくにはとてもそうは思えない。それくらいなら、いくらかのリスクを背負って何らかの生きがいをもった方がいい、とほとんどのひとが思うのではないか。

 そもそも、どうあがいてもリスクをゼロにすることはできない。生きていることそのものがひとつのリスクなのだ。それなら、自分自身でリスクとメリットを秤にかけ、選択していく行為は愚行とはいえないだろう。その意味で、喫煙は愚行ではない。

 もちろん、だからといって、ひたすらにリスクを増やしていったら、すぐに破滅するだけだ。だから、問題は、いかにしてリスクを管理するかということなのではないか。

 ようするに、喫煙というリスクを背負う代わりに、人一倍健康に気を配る、そういう生き方もありなのではないか、ということ。

 一見すると矛盾しているようだが、決してそうではない。むしろ、それこそ生きるということだと思う。

 何のリスクも犯さない人生はつまらない。リスクに満ちあふれた人生はすぐに破綻する。ならば、その中間で、綱渡りしながら生きていく、そして運悪く綱から落ちたなら潔くそのことを受け入れる、それこそ採るべき道ではないか。

 きっと、忌野清志郎もそうやって生きて、そして死んでいったのだと思う。だからぼくは、かれがタバコを吸いつづけたことが間違いだったとは思わない。

 太田のいうとおりだ。忌野清志郎はタバコを吸っていたほうがずっと魅力的なのだ。

禁煙バトルロワイヤル (集英社新書 463I)

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