『絶頂美術館』。

絶頂美術館

絶頂美術館

 世に美術館はいろいろあるけれど、この本はその名も「絶頂美術館」。見るからにハァハァな作品ばかりを集めたそれはそれはエロティックな美術館である。

 表紙からして官能の絶頂に耽る瞬間の女性を捉えたカバネルの『ヴィーナスの誕生』。エロい。

 え? ヴィーナスの誕生というタイトルなんだから女神の誕生を描いた絵なんじゃないかって? 君、君、それは言い訳というものに過ぎない。

 よく足を見たまえ*1。弛緩した全身とはうらはらに、緊張にそりかえっているではないか! 著者によると、これはまぎれもないエクスタシーの表現なのである。

 現代の絵ではなく、いまよりはるかに性愛表現にきびしい時代の作品なのに、こんなことでいいのだろうか? いいのだ。というのも、「あくまでヴィーナスの誕生の瞬間を描いた絵ですよ」という「言い訳」の余地が存在するからである。

 近代以前のヌードでは、このように「言い訳」が存在することが重要だった。逆にいえば、「これは古代ギリシャの美少年ですよ」「これは天使の絵ですよ」という「言い訳」さえ整っていれば、ほとんど何を描いても問題なかった。

 たとえばジェロームの『ローマの奴隷市場』は、「古代ローマの奴隷市場の絵ですよ」という「言い訳」のもと、全裸の女性の後姿を描いた一枚である。

 うしろを向いているせいで、描かれざる裸体を想像させるところが何ともいやらしい。高貴な芸術作品、というにはあまりにオヤジ的な作品であるといえよう。

 ようするに、性が解放される以前にもいくらでもエロティックな絵は存在しており、人びとの見る欲望を満たしていたのである。しかし、その「言い訳」が存在しない絵は決して許されなかった。

 美術史上最大のスキャンダルとなったマネの『草上の昼食』は、いま見るとエロティシズムという視点ではどうということはない絵だが、その「言い訳」の余地が存在しない情景を描いてしまったという意味で、画期的な作品だった。

 どう見ても同時代としか見えない上に、女性だけが服を脱いでいるというこの絵は、当時、轟々たる非難に晒されたという。

 一方、意図して挑発的な絵を描いたのがクールベのレアリズム絵画である。挑発者クールベは同性愛行為のあとの女性たちを描いた『眠り』や、女性器をリアルそのものに描いた『世界の起源』という、現代の視点から見てもどきりとするような作品をのこしている。よほど挑発的な性格のひとだったのだろう。絵はひとなり。

 それにしても、こういう絵を見ていると、やはり美術の歴史とは男性が一方的に女性を「見る」歴史だったのだな、ということがあらためてわかる。そこには圧倒的な視線の非対称性が存在しているのである。

 次はフェミニズム視点の美術本を読んでみよう。またあたらしい発見があるはずだ。

*1:この表紙ではカットされているが。