チンパンジーの命は障害者の命より重いと唱えた学者がいる。


 たまに自分の日記の過去ログを読んでみると、おもしろい。「何でこんなこと書いたんだろう」と首をひねる記事もある一方、興味深い記事も見つかる。そのひとつが「動物の権利怖いよ、動物の権利」

 「動物の権利(アニマル・ライツ)」を掲げるある団体のQ&Aを取り上げているのだが、これ、実はぼくの意図が全く伝わらずに終わってしまった記事なのだった。

 ぼくとしては「動物の権利」そのものを攻撃するつもりはなく、ただこの団体の主張だけがおかしい、というつもりだったのだが、「動物の権利」を全否定する言辞として受け取られたようなのだ。

 そして、「動物の権利」なんて妙なアイディアを振りまわす団体がいるぞ、というレベルで話は終わってしまった。しかし、実はもっとはるかに深く複雑な問題を抱える話なのである。

 一方、古い記事なのでタイトルは付いていないが、「こげんた」という虐待の末、殺害された子猫について書いた記事もある。

 このふたつの記事を肴にして、動物愛護について考えてみたい。

 まずはこのサイトを見てほしい。こげんた事件を扱ったサイトである。

 有名な話だから、こげんた事件についてはご存知の方も多いと思う。福岡のある男性が、のちにこげんたと名づけられる子猫を惨殺し、その様子を実況中継したのだった。

 で、亡くなったこげんたを愛惜するひとたちがこのサイトを作ったわけである。そこまではいいのだが、ぼくはこのサイトの内容に疑問を呈した。

 何しろ、こんなポエムが載っていたりするのである。

ママをさがして7こくらいよるをすごした。。

ママはぼくがきらいになったのかな?

ママはどこへいっちゃったんだろう。

すてられたの?

おなかがすいてぺこぺこになった。

しかたがないから ゴミすてばにいたんだ

そしたら

おにいちゃんがきて ぼくをいえにつれていった

あたらしいおうちだとおもって

とっても うれしかった。

おいしいごはんもくれたのに、、

なんで?

なんでぼくのしっぽをきったの?

なんでぼくのあしをきったの?

ぼく いいこにしてたよね

なんのために ぼく うまれたの?

 うーん。微妙、微妙。亡くなった子猫を愛惜すること自体はかまわないが、ここまで来ると単なる「こげんた萌え」じゃないか?

 当時、ぼくはこんなことを書いている。

 人間と違って、動物はことばを喋らない。したがって、内面を語ることもない。運命のその時、こげんたがなにをかんがえていたのか、それは永遠にだれにもわからない。

 だが、きっと人間を心から信じていたに違いない、その信頼を裏切られて哀しかったに違いない、と想像するひとはいて、それは瞬く間に事実とすりかえられていく。

 そしてこげんたはヴァーチャルな存在と化した。実在の人間と異なり、ヴァーチャルな動物は決して人間を裏切らない。人間の幻想を壊すことはない。

 じっさいに目の前にいる猫なら、時にはその身勝手さにうんざりさせれることもあるかもしれない。しかし電子の猫は人間の期待を壊すような真似をしない。だから、その存在は、どこまでも純粋に、無垢に、無邪気に成長していく。

 いま読むと、何を偉そうに、という気がしなくもないが、内容そのものは問題の本質にふれていると思う。ようするに、動物を美化しすぎているんじゃないか、ということ。

 そもそも、とぼくは考える。動物を虐待することは悪いことなのだろうか? こう書くと、悪いことに決まっている、という声が返ってきそうだが、本当にそうか?

 毎年、犬猫が何万匹か保健所で殺されているわけじゃないですか。保健所が殺すことは良くて、一般市民が殺すことは悪いのか?

 もちろん、保健所が殺すことも良くない、という考え方もあるだろう。しかし、現実に邪魔な動物が道にあふれかえれば、保健所へ送り込むよりしかたない。

 そこにあるものは、紛れもなく人間のエゴだが、でも、人間が人間である以上、人間中心主義を押し通すことはしかたないじゃん、と思いもするのである。

 いや、やっぱりそれはおかしいよ、という考え方もある。それが先述の「動物の権利」である。これはオーストラリアの哲学者ピーター・シンガーが唱えた思想で、動物にも生得の権利があるとするものである。

 シンガーさんは考えた。動物も感覚器官をもち、感覚を備えている以上、殺すにしても苦痛を与えるのはいくない、と。動物にもそれだけの権利があるんだ、と。人間だけを特別扱いするな、と。

 一種の反人間中心主義の哲学ともいうべきものであるが、よく考えてみるとおそろしい結論に辿り着いてしまう。感覚器官の有無を基準にして権利の賦与を決めるということは、人間より動物のほうが権利主体にふさわしい場合がありえる、ということなのである。

 シンガーは書いた。「チンパンジーを殺すのは、生まれつきの知的障害のために、人格ではないし、決して人格でありえない人間を殺すのに比べて、より悪いように思われる」と。

 ようするに健常なチンパンジーの命は重度知的障害者の命よりも重い、ということである。当然だが、これは論議を呼ぶアイディアであった。

 こうした発言を受けて、ドイツでは「シンガー事件」と呼ばれる事件が発生する。

 一九九一年にオーストリアで国際ヴィトゲンシュタイン・シンポジウムが開催される予定だったが、その報告者のひとりとしてシンガーが参加することが公表されると、隣国ドイツの障害者団体が、シンガーの議論はナチスに通じるものだとしてつよく非難し、ついにはシンポジウム自体を中止に追い込んでしまったのである。うーん、ま、しかたないね。

 しかし、とぼくは思う。シンガーは本当に間違えているだろうか? これは非常に取り扱いがむずかしい問題であるが、少し考えてみよう。

 ぼくは時々思うのである。もし、ネアンデルタール人なり、クロマニヨン人が生きのびていたら、我々はかれらに「人権」を認めただろうか、と。

 ぼくたちは人間と動物のあいだに線を引くことに慣れている。ひとはひと、獣は獣、それはあたりまえの事実であるように思える。しかし、よくよく考えてみればホモサピエンスもまた動物の一種である以上、その境界線は幻想以外の何物でもない。

 考えてみよう。もし、ひととも動物ともいえないような、中間の存在がもっとたくさんいたら、と。そうしたら、動物と人間の境界線はもっとあいまいなものになっていたのではないだろうか? 動物に権利を与える、というアイディアも、それほど珍奇なものには思えなくなっていたのではないだろうか?

 ぼくは別にシンガーの説を認めるわけではない。「人格(パーソン)」だけを特権化して生命を見るかれの説はやはり納得いかない。

 しかし、それでもなお、かれの思想はある種の発想の転換を促してくれるように思う。本来、人間と動物のあいだに境界線はないのだ、という見方。

 だが、それでもやはり、ぼくは人間中心主義から逃れられそうにない。やはりチンパンジーより重度知的障害者の命のほうを優先するべきに思える。もっとも、それが倫理的に決定的な正解かというと、悩んでしまう。うーん。

 こげんたに話を戻す。なぜ、これほど多くのひとがこげんたを愛惜するのだろう? それは結局、こげんたが感情移入しやすい動物だからだ。殺されたのが亀だったらこれほどの感情移入は起こらなかったに違いない。ひとはひとに近いものしか愛さない。

 そして、もし、そういうひとたちにこげんたの命は人間と同じほど重いか?と訊いたら、どう答えるだろう。あたりまえだ、と答えるかもしれない。しかし、それはシンガーへと通じる道ではないか?

 このように、一口に動物愛護といっても、いろいろ面倒な問題が存在しているのである。

 動物虐待は、本当に悪なのか? 動物には、権利を認めるべきなのか? ぼくは悩む。あなたも悩んでください。