『無痛文明論』批判。

無痛文明論

無痛文明論

 非常におもしろい本だったので、もう少し考えてみよう。

 無痛文明論とは、もっと気楽に生きたい、不快なことを避けたい、という「身体の欲望」が導き出す「無痛文明」を敵視し、「生きるよろこび」を再生させようとする思想であった。

 しかし、『無痛文明論』一巻を読み終えたとき、ぼくは何か割り切れない、もやもやしたものを感じざるをえなかった。知的だとは思う。明察だとも感じる。ただ、そのおしつけがましさが我慢ならないような気がしたのだ。

 無痛文明論では、はっきりと苦痛を乗り越え「生きるよろこび」を謳歌する人生が良い、と定義されている。無痛文明に浸りきり、日々怠惰に無自覚に生きることは口をきわめて非難される。

 無痛文明に浸ることとは眠るようなものであり、それに抗うことは眠気に耐えて覚醒しつづけようとするようなものだ、という比喩も出てくる。

 しかし、ここには、覚醒しつづけていること、辛い出来事に耐えて生きるよろこびを謳歌していることに対する優越感が隠されていないだろうか?

 無痛文明論とは、極論するなら、「もっと真面目に生きろ!」という思想だ。無痛文明論は怠惰に逃げるな、という。常に自分を検証し、改革しつづけろ、と命じる。

 ぼくには、その生真面目さが、何とも息苦しく、おしつけがましく感じられるのだ。そして、そんな自分に酔うナルシシズムを感じないこともない。

 たとえば、それぞれのひとが抱える「本当の自分」のイメージ、「深層アイデンティティ」について語るとき、森岡は自分自身のそれを書きつらね、こうまとめる。

 これが、私が自己解体すべき「深層アイデンティティ」の内容である。いまのいままで自分の内側にそっと忍ばせていた深層アイデンティティを、こうやって陽の光のもとにさらけだすのは、とてもつらいことである。自分自身のいちばん奥底にあって、自分を立たせているものを、こうやって対象化して、自分の目にありありとわかるような形に造形することが、どのくらいきつい作業なのか、読者よ想像してみてほしい。そして、あなたたちがこれと同じ作業をするときには、あなた自身の自己を、このくらいの次元にまで掘り下げないといけないということだ。私は、あなたがたがその奥底でかかえているものをけっして見ることができない。作業をするのは、あなたたちひとりひとりだ。自分の力によって、ここまで掘り下げてほしい。

 どうだ、わたしはこんなにも自分を洞察できている。しかも、それを陽の光にさらす勇気もある。それがどんなに辛くきびしいことかわかるか。読者よ、あなたもこれくらいのことをやらなければならないのだ――。何だかなあ、と思いません?

 こういうナルシスティックな態度は、すでに無痛文明的だといえるのではないだろうか?

 おそらく、森岡ほど明快に言葉にはできなくても、かれと同じことを感じ、無痛文明論的な生き方を実践しているひとは、この社会にもたくさんいるだろう。

 しかし、かれらは森岡ほど大げさに考えないかもしれない。たとえ苦しいこと、哀しいこと、自分をひき裂かれるようなことがあっても、それほど激しく騒ぎ立てないかもしれない。

 ぼくは、そういうひとこそ、本当の意味で無痛文明論を生きている、といえるのではないかと思うのだ。

 森岡は、無痛文明とたたかう戦士を、ロマンティックに盛り上げすぎている。それがかれの文学性なのかもしれないが、それにしても、やりすぎだと感じる。おもしろいことはおもしろいんですけどね。

 無痛文明論の問題点は、森岡のいうところの「生命の欲望」のみをひたすらに礼賛し、その他の欲望を「身体の欲望」という言葉に一元化して見下してしまっているところにあるのではないだろうか、とぼくは思う。

 id:sikii_jニコマス動画を見ているところなど、横から観察すると本当にしあわせそうに見えるのだが(笑)、それも森岡の理屈でいうと、「身体の欲望」に負け、一時の娯楽で自分をごまかしている、ということになってしまうのである。

 いわば、無痛文明論は、はげしい苦痛を乗り越えて自分を改革していくことだけが「本当のよろこび」で、それ以外はごまかしだ、といっているのだ。そんな単純なものか?と思ってしまうのは、必ずしも無痛文明に毒されているからではあるまい。

 むずかしいところですけどね。