『無痛文明論』。

無痛文明論

無痛文明論

 読んだ!

 例の「草食男子」で妙に有名になってしまった人文学者森岡正博が、二○○三年に上梓した文明論である。

 いやあ、これはおもしろかった。哲学書に対して「おもしろい」とは必ずしも褒め言葉にならないかもしれない。しかし、それでもなお、この本に対しまず出てくる言葉は「おもしろかった!」というひと言に尽きる。

 全編スリリングな洞察に満ち、リズミカルな文体のおかげもあって、四五一頁を一気呵成に読むことができる。とにかく、これだけの分量を一気に読ませる哲学書というものは、それだけで貴重だといえるだろう。

 本書でまな板の上に乗せられるのは、現代社会の行き着く先に待つとされる「無痛文明」である。無痛文明とは何か? それはひたすらに苦痛を避け快楽を求める社会が辿り着く文明のかたちだ。

 無痛文明では、あらゆる苦痛は事前に注意深く排除される。そのため、住民は怠惰な安楽に浸ることができる。しかし、その文明には、「条件付でない愛」や「生きるよろこび」もまた存在しない。

 無痛文明、それはどんな痛苦も入念に取り去られている一方、生きることの鮮烈な歓喜ともまた無縁な社会なのだ。

 森岡はいう。無痛文明の背景にあるものは快を求め、不快を厭う「身体の欲望」である。

 たとえば、「夏の暑さや冬の寒さは耐えがたい」と考える「身体の欲望」が冷暖房を生み出した。その結果、たしかに夏冬に感じる身体的不快感を免れることができるようになったが、そのことによって、夏の暑さや冬の寒さを直接に感じ取り、そこから季節折々の情緒を感じ取る感性もまた奪われた。

 そういうことが無痛文明のあらゆるところで起こっている。したがって、「身体の欲望」に支配された無痛文明に「生きるよろこび」はない。

 もっと興味深い例を挙げることもできる。選択的中絶である。選択的中絶とは、妊娠中に胎児の状態を検査し、障害児であることがわかった場合のみ中絶することを指す。

 「障害児をもつ」という苦痛を避けさせる無痛文明は当然、この行為を認める。それだけではない。選択的中絶には「自分は産まれてくる赤ん坊が障害児なら産みたくないと考えてしまう人間なのだ」と知る心の痛みが付きまとう。無痛文明はこの心痛をも隠蔽する。

 選択的中絶を合法化し、さらには受精卵のレベルで障害児かどうか判断できるよう科学技術を高め、そうして、「障害児を堕胎する」という行為に付きまとう後ろめたさを削減していくのだ。

 そうやって、あらゆる痛みと、痛みに向き合って成長していくチャンスを奪っていくのが無痛文明の本質だ。

 無痛文明はある意味では人類が望んでやまなかった楽園である。だれも心に痛みを抱えず生きられる社会! しかし、あらゆる快楽と安楽に満ちた無痛文明はただひとつ、「生きるよろこび」だけは生み出すことができない。

 なぜなら、生きるよろこびとは、予測不可能の地点に自分を投げ出し、その痛みに心をひき裂かれ、苦しみ抜いて自分を改革していく、その過程によってしか感じることができないものだから。

 たとえば、生まれ落ちた障害児と出逢い、愛し、憎み、邪魔に思い、邪魔だと思った自分に傷つき、その泣き声に怒り、その笑顔に癒され、そうして少しずつ以前とは違う自分へと変わっていく、そうしたプロセスだけが生きるよろこびを生み出す。

 そして、生きるよろこびを感じたい、たとえこの身が苦痛にひき裂かれることになろうとも、と望む欲望こそが「生命の欲望」である。

 本書一冊を通して語られるのは、その「生命の欲望」に駆動される戦士たちと、無痛文明との、はてしないたたかいの軌跡だ。

 「身体の欲望」に根ざす無痛文明はほとんど無尽蔵の生命力をもつ。それに対して、「生命の欲望」を掲げる戦士たちは孤独である。かれらは絶望的な現実という暗闇のなかで、真理という灯かりをともし、ただひとり、無痛文明とたたかっていかなければならない。

 そのたたかいに勝利はない。そして引き分けもまた敗北に等しい。だから、戦士たちのたたかいは、敗北しても敗北しても、そのたびに立ち上がり、ふたたび敵に立ち向かっていくというかたちを採る。

 その永劫の、おそろしいたたかい! 無痛文明とたたかう戦士に安息の眠りはない。なぜなら、かれらの敵とは安息そのものだからだ。もっと気楽に、安全に、辛いことから目を背けて生きたいという「身体の欲望」こそが敵の本質なのだ。

 たたかえ、戦士たちよ、だれのためでもなく自分のために。自分自身のただいちどしかない人生を悔いなく生き切るために。

 ――というのが、森岡の主張なのだが、実に壮大で、緻密で、興味深い理論だと思う。間違いなく、一読にあたいする一冊である。詩的といえば詩的、冗長といえば冗長な文体は好みが分かれるかもしれないが、ぼくは好きだ。

 しかし、そのアジテーションに全面的に納得できるかというと、そうでもない。森岡の主張は、何というか、あまりにも生真面目すぎて、ついていけないものを感じるのである。

 もちろん、それは、ぼくが無痛文明に腰まで浸っているせいかもしれない。こうした懸命な抵抗の姿勢をひと言に生真面目すぎる、と非難する見方が無痛文明を利するのかもしれない。

 だが――そう、ぼくがこの本を読んで思い浮かべたのは『銀河英雄伝説』の主人公のひとり、ヤン・ウェンリーだった。ヤンは軍人として天賦の才に恵まれながら三十前で早くも引退生活を夢見るような奇矯な青年である。

 その生活は、だらしなく、いいかげんで、時に怠惰、無痛文明に浸りきっているようにも見える。しかし、それでもなお、ヤンは明晰な知性を失わない。

 本当にきびしい現実に雄雄しく立ち向かっていく戦闘的な姿勢だけが「生きるよろこび」を生み出すのだろうか? 日常の平安、静かな安らかな一場面、そこから生じるよろこびもあるのではないか? それをすべて「身体の欲望」と切って捨てていいものだろうか?

 あるいはそれこそ無痛文明的な発想にほかならないかもしれないが、すべてを「身体の欲望」と「生命の欲望」という二元論に回収する議論には何か納得しかねるものがある。

 しかし、それでもなお、深い興味をそそり、尽きせぬ思索へと導く、名著であることはたしかである。文明論に興味がある方は図書館で借りて読んでみるといいと思いますよ。

 「『無痛文明論』批判」へと続く。