円楽と談志、ふたりの巨人。


 『落語ファン倶楽部』第一号に掲載されていた円楽師匠の談志評がおもしろいので、引用してみる。

落語ファン倶楽部〈VOL.1〉

落語ファン倶楽部〈VOL.1〉

 談志という人は非常にセンスがあるんですよ。
 ただ、(周囲と和してまとめていくという)ガヴァナビリティがない。
 僕のことをあいつは自己主張が強いっていいますがね、あたしはそれほどじゃないんですよ。道理が通ればそうかいなってんで、どっちかっていうと結構妥協する方なんです。
 彼は妥協しないんですね。司会しているときも、俺にウケさせなければ駄目だ、俺がいいならいいという発想でした。
 で、僕は、正義はあくまでも普遍的なものでなければならないと。俺がいいったって、あくまで権利の単なる主張であって、エゴイズムだと。ま、そういう談志のエゴの部分が実は面白いんですが、世間様はなかなかそうは見てくれない。だから、もう少し折れろっつったんですよ。
 でも談志は、「俺が人と妥協するんだったら談志が談志でなくなる」。「そいじゃあ、生涯、笑いの中でのアウトローで過ごさなきゃならないよ」ったら、いいって言うんです。そういう談志を愛する、談志じゃなきゃ駄目だっていう熱烈なファンもいますよ。
 けれども大衆芸能なんだからマジョリティを相手にしなきゃ駄目だ。マイノリティばかりじゃ駄目だ。そこで意見がいつも食い違うんです。

 センスはあるが、ガヴァナビリティがない。談志という人物を的確に表現したひと言だろう。傍から見ていても、それはそうだろうな、と思うもん。どう考えても周囲と巧く妥協しながら仲良く調整していけるような人柄とは思われない。

 円楽と談志。思えば、あまりに対照的な二人である。一方は、長年にわたって国民的人気番組『笑点』の司会を務めた大御所、もう一方はただひとりわが道を往く孤高の天才落語家。大衆と選良、ブラックとアットホーム、マイノリティとマジョリティ――その資質はことごとく逆を行く。

 しかし、二人とも日本を代表する落語家であることは間違いない。そして、このふたりがいたからこそ、落語という芸能は、細々とではあっても、続いてきたのではないだろうか。そういう意味で、同時代に談志と円楽を得た落語は幸運だった、といえる。

 『笑点』のシステムを生み出したのはたしかに談志の天才ではあるが、しかし、円楽がひきついていなければ、いまのように長く続くことはありえなかっただろう。あの談志が、程よい家庭的な笑いなど、認めるはずもないからだ。その意味で、円楽の功績は大である。

 べつだん落語に限らず、エンターテインメントが健全に発達していくためには、マイノリティを相手にする才能と、マジョリティをひきつける才能、その両方が必要なのかもしれないな、と思わせられる。

 さて、このインタビューが終わりかけたとき、円楽はちょっと笑って付け加えたという。

 何だかんだ言いましたけど、談志という男は大したもんですよね。あいつ、『談志百選』で書いてるんです。円楽は何もないって(笑)。
 でも、空であり無である、それこそ煩悩を解脱した涅槃の境にある釈迦みたいな存在にあたしがなれば、大変なものなんですがね。ところが到底そこまでいきません。あはははははは。

 さらに、最新のインタビューでは最後にこうまとめている。

 それと、談志よりは一時間でもいいから長く生きたいですね。じゃないと、奴ぁ絶対勝手放題なこと言うに違いない。
 それだけは絶対避けたいですね、わははははは。

 仲いいなあ。萌える。