談志死す。

談志が死んだ

談志が死んだ

 もういいかげん飽きられたかもしれませんが、今日も落語の話です。

 今回取り上げるのはその名も『談志が死んだ −立川流はだれが継ぐ−』というタイトルの一冊。

 立川流家元を名乗り、好き勝手の限りを尽くした落語家立川談志死後の混乱をまとめた本――いや、談志はまだ生きている。「もしも談志が死んだとしたら」という仮定のもと、立川流主要人物の対談や評論をまとめた本です。

 『赤めだか』や『雨ン中の、らくだ』などで立川流の基礎知識を仕入れてから読むと、これが、おもしろい。おもしろいねえ。

 落語にくわしくない方はご存知ないかと思いますが、現在、東京には四つの落語組織が存在しています。落語協会落語芸術協会円楽一門会落語立川流ですね。

 このうち、最も異彩を放っているのが立川流であることは論を俟たないでしょう。本書対談のなかでも語られているように、正確には組織といえるようなものですらないかもしれない。

 ただ、談志の落語に惚れこんだ男たちが何となく一党、というか一味を形づくっている、それだけの集団ともいえる。

 談志。何といっても、談志なのです。カリスマにして天才落語家、既に齢七十を過ぎ、数知れぬ栄光と、そして毀誉褒貶に包まれながら、しかし円くなることを知らず、ただひたすらに自らを研ぎなおしつづけている男。

 この談志というふしぎな人物が、立川流の要であり、すべてであると断言してかまわないでしょう。じっさい、談志がいない立川流など考えられない。立川流とはつまり談志流であり、そして、談志の代わりはだれもいない。

 継ぐ者はだれか? いや、継ぐ者などいるはずもないのです。この本は近ければ数年後に迫っているはずの「談志の死」という絶対的現実について語っているわけですが、その癖、だれひとり将来を悲観して嘆くひとがいないことが印象的でした。

 おそらく、だれもがわかっているのでしょう。談志が死んだらそこで終わり、解散するにせよ、変質して続いていくにせよ、それまでの立川流のシステムを続けていくことは不可能、と。だから一々悲観しても仕方ないのだ、と。

 二十一世紀の今日、こんなにも個人の資質に寄りかかった組織が存続しえるということじたい驚きです。

 談志。落語関係の本を読んでいくと、至るところでかれの名前を目にします。批判するにせよ、賞賛するにせよ、落語を語るとき、かれを無視することはできないんですね。

 不世出の天才と見るか、それとも単なるトラブルメーカーと見るかはひとそれぞれとはいえ、とにかく凡人でないことは間違いない。

 どれほど低く評価するとしても、いま存命の落語家のなかでトップクラスの人間であることは疑いないし、おそらくは談志の死は落語が光り輝いていた時代の最後の余光を消し去ることになるかもしれない。

 どれだけ褒めたおすつもりなんだ、と思われるかもしれませんが、じっさい、それだけの人物なんですよ。いや、意味不明の行動やわけのわからない言動も少なくないんだけれどね。

 もっとも、談志の落語を低く見るひとの気持ちもわからないわけじゃない。たとえば、生前談志のライバルだった志ん朝の落語を聴くと、芸の王道とはこういうものか、とも思う。

 あかるくって華があって、話しはじめただけで聴衆を引き込むような、そんな落語。もしかしたら本当の天才とは志ん朝みたいなひとのことをいうのかもしれない。談志はむしろ大秀才というべきかもしれない。そんなことも思う。

 談志はあまりにも「我」が強すぎる。あたまが良すぎる。だから、談志の落語は聴くひとを選ぶ。理解できるものを選別する。それは大衆のための芸というよりは、エリートの芸であって、そこが気に喰わないというひとはいてもおかしくない。

 それに、「落語とは業の肯定だ」くらいならともかく、「落語とはイリュージョンだ」という言葉に至っては、意味不明、と感じるひとも少なくないはずです。

 ただ、その、あふれんばかりの知性、鋭い観察眼、そして人間の抱える闇に対する深い理解、これは談志でしか味わえない。何より、一身に抱え込んだ業の深さ。

 愛弟子談春を称して、談志は「おれより巧い」と云った。たしかに、談春は巧い。怖ろしく巧い。しかし、どれほど流暢であっても、談志のあの凄絶さ、ひとが生きるということそのものの深遠を思わせるあの凄絶さは、ない。

 そんなことは本人がいちばん良くわかっていることでしょうが、本当に、ないのです。そしてこの先談春がどれほど成長し、あっぱれ名人と呼ばれることになったとしても、談志の凄絶を身に付けることはないでしょう。

 談志の芸は、談志と共に亡び行く。志ん生の芸、文楽の芸、小さんの芸が、かれらの死とともに跡形もなく消え去ったのと同じように。

 談志死す。それはひとつの時代の終わり。否、おそらくはひとつの芸術の終わり。願わくば、その日が一日でも遠くありますように。神よ、まだかれを奪いたもうな。