「掟破り」の甘い誘惑。


 あいかわらず落語を聴いています。

 落語の本も片端から読んでいて、そうだな、二十冊くらいは読んだかな。志ん生、生ん朝、談志、談春志らく、小朝、花緑――いや、おもしろいねえ。

 どの世界でも、入門したての頃がいちばんおもしろい。もちろん、時間をかけてその世界をより深くさぐっていく楽しみもあるのだけれど、入りたての頃の新鮮さにはなかなか敵わない。

 いろいろ読んだなかでも談春の『赤めだか』はやはり格別に良く出来た本だけれど、弟弟子志らくの『雨ン中の、らくだ』も悪くない。

雨ン中の、らくだ

雨ン中の、らくだ

 『赤めだか』と『らくだ』を併せて読むと談志一門の全体像が程よく見えてくるのではないかと思います。これに志の輔を足した三人は、立川流を代表する人材なのではないかと(いや、しろうとのいうことだから信用しちゃダメですよ)。

 じっさいに落語を聴いてみると、志の輔談春志らく三者三様でおもしろいね。志らくの本によると、「志の輔、頭のいい子、談春、普通の子、志らく、異常な子」というのが談志の評価だそうで、それも何となくわかる気がする。

 志の輔の落語は家族で聴きにいける落語だよね。優しく、あたたかく、心が朗らかになる。それに対して談春の落語は端正で、折り目正しく、隙がない。一方、志らくは完成度という点では兄弟子たちに一歩譲るかもしれないが、談志が「狂気」と呼ぶものをいちばん多く受け継いでいる。

 さっきも書いたけれど、このひとの本はおもしろいですよ。その言い草の偉そうなこと偉そうなこと。まだ若手の癖に先輩たちを片端からつかまえてなで切りにしている。

 ま、談志の弟子なんだから傲慢であたりまえかもしれないけれど、敵を作る性格だよね。それに比べると、志の輔というひとははるかに常識人といった印象がある。

 二十八歳までサラリーマンをやっていたというのだから、異色の落語家だろう。このひとが談志に師事したということもおもしろい。やはりひとは自分にはないものを求めるのかもしれない。

 傲慢といえば、昨日取り上げた『小朝が参りました』、あの番組を見て、談志が「落語家なら「ジジイ、ババアは早く死ね」だろ」と、怒ったという話がある。

 それはたしかにそうなんだよね。「もっと長生きしてくださいね」という奇麗事というか、常識に対して非常識をぶつけることが笑いの本質なんだから。

 ただ、もちろん、そういう非常識、半常識の発言は常識の牙城であるNHKで放送することはできない。それがわかっているから、小朝は日頃の「毒」を抑えて演っている。そこが小朝の頭のいいところ。

 いざ高座に上がれば小朝もけっこうひどいことを云っていますからね。行くべきところと、止まるべきところをわきまえている、ということ。

 ところが、談志というひとは止まるべきところで止まらない。いつも、やりすぎてしまう。『赤めだか』に、パーキンソン病の落語家を談志が戸塚ヨットスクールに送り込むという話がありましたけれど、これなんか一歩間違えば殺人ですよね(笑)。

 いや、ほんと、「(笑)」じゃ済まない話で、洒落としてはあきらかにやりすぎなんだけれど、そのやりすぎてしまうことを、談志は「狂気」といっているんだと思う。

 談志に惹かれるひとは、その狂気に惹かれるのだし、また、談志をきらうひともやはりその狂気をきらっているのだろう。

 これは談志が空気を読めないということではない。むしろだれよりも空気に対して敏感であるからこそ、常にその反対を行くことを美学としているんじゃないかと思う。

 じっさい、弟子の談幸の本を読むと、そのとっつき辛い印象に反して、談志はどこへ行ってもひとに好かれる、アンチ談志をも魅了してしまうと書いてある。

談志狂時代―落語家談幸七番勝負

談志狂時代―落語家談幸七番勝負

 その気になれば、世間に合わせてしまうことなど簡単なのだ。ただ、それを承知の上で、いつでも、どこでも、世間の常識になじまない「異物」であること、それが談志が選んだ道なのだろう。

 そして、狂気とはいっても、落語家であるかぎり、本当に狂ってしまうことはできない。落語には三百年、四百年といわれる歴史のなかで磨かれた「型」があるからだ。

 スクウェアな「型」があり、破壊的なギャグがある。『芝浜』があり、『金玉医者』がある。人情噺があり、イリュージョンがある。そういうことだと思う。

 対して、たとえば漫才の「型」は、いまのところ、落語と比べるとゆるい。爆笑問題との対談で、談志はこんなことをいっている。

太田――漫才にとってのいい芸と落語の芸というのは違うでしょうね。
談志――それね、いい質問なんだ。落語には伝統がある――もちろん漫才も伝統があります。立って二人でやる、阿吽の呼吸を含めて伝統がある。でも、それは落語ほど強くないんだな。だから、漫才はメチャクチャやっても大丈夫。落語をメチャクチャ壊すっていうのはこりゃ大変なんです。洋服着て出てくるだけでも、受けいれられないと思うね。だから三平さんでも(春風亭)昇太でも、みんな紋付き着てやっている。漫才は着物でも、マルセル・マルソーみたいな格好でもチンドン屋の格好でも平気。そういう見た目の形式は楽だね。縦に動こうが横に動こうが、いなくなろうがOKだ。そのへん落語のほうが掟(ルール)が厳しいね。掟にがんじがらめになって、古い世界はみんな滅びていくんです。小説が劇画に追放されちゃうのと同じようなもんです。

 この「掟」、つまり、スクウェアな「型」こそが歴史とか伝統とかいわれるものの正体だ。

 「掟」に雁字搦めになれば文化は衰える。しかし、同時に「掟」は文化を維持するためには絶対必要なものでもある。ただひたすらに自由であればいいというものじゃない。

 たとえば、いまのバラエティ番組に出てくる芸人には落語のような何百年の伝統はおろか、漫才のような比較的ゆるやかな「掟」すらないよね。ただひたすらに自由で、何でもあり。

 でも、何でもありということは方法論がないということで、だから、飽きられたらそれまでで消えていってしまう。いまのテレビはそういう芸人を大量消費することで成り立っているけれど、それも飽きられつつある。あたりまえだ。いまのやり方を続けていても、テレビは衰えるばかりだと思う。

 いつもいっているように、けっきょく、「掟」があって初めて「掟破り」があるのだ。だから、談志ほど奔放な男が落語の歴史と伝統にこだわる。そういうことなんじゃないか。

 何のジャンルでも若くて見る目がある奴は「掟」をきらう。「掟破り」をおもしろがる。しかし、「掟」があってこその「掟破り」である。

 このバランスが崩れたとき、文化は亡びる。