マザー・テレサは間違えている。


 昔、自分が書いた人工妊娠中絶にかんする記事を読み返していたら、みごとに途中で中断していて腹が立ったので、新たに書き下ろしてみる。一からまとめ直すので、べつだん、以前の記事を参照する必要はありません。

 さて、そういうわけで書きはじめたはいいが、何から語りはじめたものか迷う。いろいろと複雑な倫理的問題が絡む話だけに、なかなか気軽に書きすすめることはできない。

 しかし、そう、まずは最もありふれた、そして最も深刻な問いから始めてみることにしよう。つまり、「中絶は殺人か、否か?」。

 書いてみてあらためて思うのだが、意味のない問いである。単に「殺人」とは何か、あるいは「人間」とは何かという定義の問題になってしまう。ある意味では殺人であり、またある意味ではそうではない、という程度のことしかいえそうにない。

 問題は、それにもかかわらず、「中絶は殺人だ」とする意見が、世にあふれていることだろう。

 いや、意見も価値観もひとそれぞれなのでそのことじたいはかまわないのだが、そういう意見のもと、中絶を選んだ女性を攻撃するようでは困る。

 そこで、この記事ではなぜ中絶が女性の権利として認められなければならないのか、丁寧に説明してみるつもりである。

 その昔、インドで慈善事業にまい進したマザー・テレサは、中絶を否定し、そうするくらいなら産んで、自分のところにあずけに来てほしい、といったという。

 ぼくは、彼女は間違えていたと思うのだ。希望しない妊娠を中絶する権利はすべての女性に認められるべきである。それは一面で見れば「殺人」ともいえる行為かもしれないが、それでもなお、認められなければならない。

 それでは、マザー・テレサは、なぜ、そして具体的にどう間違えていたのか。この論考の最後まで読み終えたとき、そのことが納得できているようなら幸いである。

■胎児の生命VS女性の権利■

 3年前、ぼくは中絶をめぐる論争にかんしてこんなことを書いた。

 生命倫理学の最先端は知らず、ネットでくりひろげられている反中絶論の大半は、「胎児の生命」を重視する視点から「女性の権利」を攻撃するスタイルを取る、と。

 つまり、平衡な天秤の一方に「胎児の生命」という重石を置く。そしてもう一方に「女性の権利」というべつの重石を置く。そうすれば、天秤は当然、「胎児の生命」の方に傾くはずではないか、という論法である。

 「女性の権利」がどれほど重いか知らないが、「胎児の生命」とは比較になるはずもない。なぜならこの世でいのちほど重いものはないのだから、ということだ。

 この理屈は一見、正しいようにも思える。というより、このような図式を想像するかぎり、いかにも「女性の権利」は分が悪い。

 この図式は、ようするに中絶とは身勝手な女たちが自分たちのわがままで子供の命を奪っているだけではないか、という意見を引きつけかねない。

 また、産まれたあとの赤ん坊を殺すことは殺人で、産まれる前の胎児を殺すことは処置で済むのか、おかしいではないか、というひともいる。かわいそうな赤ちゃん!

 しかし、考えてもみてほしい。そもそも独立した「赤ちゃん」というものは、この時点では存在しないのである。胎児は母親と同じ肉体を共有しているからこそ生きられるのであって、一個の独立した生命体として生存しているわけではない。

 この時点では、「母親」と「胎児」とは一個の、不可分の存在であり、どこまでが母親で、どこからが胎児か、ということすらできない。これこそ妊娠という現象の実相である。

 ここを理解していないままだと、なぜ中絶が認められなければならないかも理解できないので、この点をよくかみ締めておいてほしい。テストに出すよ。

■母体という「器」■

 ぼくたちにとって、自分の肉体が自分のものである、ということは、あまりにも当然の、第一の権利である。もし、ある日、突然、あなたの右腕を使う権利はあなたのものではない、国家が管理する、といわれたら、だれもが不条理だ、と感じるだろう。

 ところが、中絶しようとする妊婦はじっさいにそういうことをいわれる可能性がある。自分の肉体の一部をもとの状況に戻そうとすると、それは殺人だ、罪悪だ、この人殺しめ、と非難されるという状況である。

 このとき、妊婦は「自分の肉体は自分のものである」という人間として最も基本的な権利を奪われている。ひとりの人間ではなく、単なる「器」のようなものとして見なされているといってもいい。血と肉でできた胎児ケース。これは不条理ではないだろうか。不条理だと思うのである。

 しかし、それでは、脂肪除去手術が認められなければならないように、中絶手術も認められなければならない、そういうふうにいえるだろうか。

 胎児とは単なる母親の内臓であり、病気になれば胃を切除するのと同様、中絶手術も当然のことだ、そういっていいのだろうか。

 もちろん、そんなことがいえるはずはない。何といっても、胎児はたしかに生きているのである。母親の肉体に宿ることなしには生きていけない不完全な生命とはいえ、紛れもなく、生命としてのリズムを刻んでいる。

 そういういのちを切り刻むことが許されるものだろうか。そういった議論が出てくることは当然だと思う。そして、だれよりも、妊婦そのひとがそう思わざるをえない、そういう現実がある。

 いくら「自分の内臓を自分で切り取って何が悪い」と正当化しようとしても、正当化しきれないものがのこるということ。中絶を語るということは、こういうパラドックスと正面から向き合うということである。

 そのために生まれたのが、たとえば、パーソン論だ。

パーソン論

 パーソン論、あるいは人格論と呼ばれる学説にかんしては、いろいろとむずかしい学問的背景があるらしいのだが、ごく簡単にまとめてしまうと、「人格(person)」の有無で胎児の権利を測るものである。

 パーソン論以前の中絶議論では、胎児が生物学的にひとといえるかどうかという問題に焦点があたっていた。

 中絶反対派は、ある段階に至った胎児は手足をそなえているのでひとである、と主張する。逆に賛成派は、いくら手足がそろっていても大脳が発達していないのでひとではないと主張する、という状況。

 パーソン論の先駆者M・トゥーリーはこの前提そのものを疑った。かれは中絶の是非を決める決定的なポイントは、胎児が科学的にホモ・サピエンスの一員であるか否かという生物学的問題にではなく、胎児が生存する権利をもっているか否かという道徳的問題にあると考えた。

 その生存権をもつ主体を「パーソン」と呼ぶ。つまり、中絶が赦されるか否かは、「ある胎児が生物学的に人間であるか否か」によってではなく、「ある胎児が道徳的にパーソンであるか否か」によって決定されると考えることができる。

 それでは、胎児がパーソンであるかどうかどのようにして決めるのか。トゥーリーはその線引きを「持続的自己の概念をもつこと」に求めた。

 持続的自己の概念を持たないものは生きつづけることを欲求することもできず、したがって生存の権利を主張することもできない、ということである。

 さて、そういった「持続的主体としての自己の概念」をもち、そのような実体が自分であると信じていること=「自己意識要件」を満たしている主体のみが生存する権利をもっているとすると、胎児がどの時点でそれをそなえることになるかが中絶論の新たな焦点となる。

 トゥーリーは生まれたばかりの赤ん坊が「持続的自己の概念」をもたないことは明白である、と考えた。つまり、生まれたばかりの赤ん坊はパーソンではない。従って、生存の権利を主張することもできないということになる。

 こうして、胎児殺しはおろか、嬰児殺しまで正当化されることになってしまうのである。

パーソン論の限界■

 ぼくたちの感性はこういった学説に対し疑問を感じるだろう。パーソン論とは、乱暴に要約するなら、「脳力」によって人間を階層化しようとする思想である。

 健康で正常で理性的な人間=「パーソン」をピラミッドの頂点とし、幼児や知的障害者などはその下に置く。そして脳死患者や胎児など大脳機能が存在しないものは自我をもたないから「非パーソン」であり、なんら権利を主張することはできない存在だと考える。

 意識がないものはひとに非ず! ある意味では非常にわかりやすい理論だといえるだろう。

 しかし、本当に「脳力」で人間を区別していいものだろうか。たとえば、昨日までまともに暮らしていた家族が、事故に遭って植物状態に陥ったとする。

 そのとき、我々はそのひとが既に意識がないというだけの理由で、かれの権利は失われたと考えることができるだろうか。パーソン論の限界はここにある。

 パーソン論は理性的思考が可能な意識だけがパーソンであると考えるが、人間存在とは単純に理性的意識とイコールで結べるような存在ではないのである。

 腹のなかで動く胎児の感覚、植物人間となった家族の掌のぬくもり、それらはたしかに理性的人間とのコミュニケーションとはいえないが、しかしたしかにあたたかないのちの感触なのだ。

 こういった体験の貴重さを思うとき、パーソン論の人間観は極度にやせ細ったものだといわざるをえない。パーソン論は脳にのみ注目し、「身体」と「関係性」のリアリティを無視している。じっさいの人間存在とは、パーソン論の示す範囲よりもっと広いものなのだ、と考えるべきだろう。

 一歩まちがえばパーソン論は、単に胎児や脳死患者といった「邪魔者」を都合よく始末するためのロジックに堕してしまう。パーソン論によって中絶を正当化するということは、やはりむずかしいといえるのではないだろうか。

■「女性の権利」を超えて■

 そして、何度でもくり返すが、パーソンであろうが、あるまいが、胎児は生きているのである。その生きている存在を殺すということには、どんなに正当化しようともしきれない苦味が付きまとう。

 だれよりもはっきりとそのことを自覚させられるのは、その身に子供を宿した母親そのひとであろう。胎児は内臓だといっても、パーソンではないから権利主体ではないといっても、なお、正当化しきれない想いがある。その苦さ。苦しさ。やましさ。

 それでは、やはり中絶は禁止されるべきなのであろうか。マザー・テレサは正しかったのだろうか。そうではない、と思うのである。

 なぜなら、中絶という行為に、消そうとしても消せない「子殺し」の苦味が付きまとうとしても、その苦味を引き受けるべき主体は、やはり妊婦そのひとしかいないからである。

 それは他ならぬ妊婦の精神と肉体の問題なのだ。この問題に対して、法も、国家も、恋人も、立ち入るべきではない。否、立ち入ることを許されない。

 妊娠を中絶するとき、妊婦には葛藤がある。「子殺し」であるという苦い、正当化しきれぬ想いがある。しかし、それでもなお、その苦味と向き合うべきは、その妊婦以外にいないということ。

 それは他者が介入するべき問題ではない。その妊婦自身の、「わたし」の問題だからである。この「わたし」とは、腹に宿した胎児をもふくむ概念である。

 妊娠中絶にかんして、「産む産まないは女(わたし)が決める」というスローガンがある。それは、いくらでも好き勝手に堕胎することを許せ、という意味ではない。

 どれほどの痛みや苦さを伴うとしても、腹に宿した胎児をも含めた「わたし」の問題に、決して口を挟ませない、という宣言なのである。

 「わたし」の問題は、他者ではなく「わたし」が決断するべきだ――あたりまえといえばあたりまえの結論だが、これがぼくの人工妊娠中絶にかんする立場である。

■ぼくたちの責任■

 ここでは「わたし」と書いたが、より正確には妊婦が置かれている状況は「わたし」という言葉ではいいあらわせられないものだろう。それは自己が同時に他者でもある、という状態である。

 妊婦は胎児を宿すことによって、それまでの完結した自己とは異なる存在になる。自然界のほかのいかなる状態とも似ていない状態だ。

 その「わたし」から「わたし」自身を切り取る痛み――それは、男性であるぼくが、一生想像もできないものだろう。「中絶後遺症候群」という病の存在がその実在をかすかに感じさせるだけである。

 しかし、それでは、なぜ、妊婦はそれでも胎児を堕胎するのだろうか。堕胎しなければならないだろうか。そこには、我々の社会の問題が隠されていないだろうか。

 より安全に子を産み、より軽快に育てていくことができるとすれば、もっと多くの女性が出産を選ぶかもしれない。「子殺し」の痛みと対峙せずに済むかもしれない。

 そして、その社会とは我々ひとりひとりから構成されるものなのである。そうだとすれば、中絶の問題は我々にとって決して他人事とはいえない。我々自身の問題なのである。

 それにもかかわらず、ひとり安全な地平に立ち、無関係なような顔をして、ただでさえきずついた女性を「人殺し!」と責める、その行為は卑劣ではないだろうか。ぼくは卑劣だと思うのですよ。

 選択的中絶の問題とか、堕胎罪と母体保護法の問題とか、プロライフ及びプロチョイスとか、他にもいろいろと語るべきことはあるのだが、語って語り足りるテーマでもないので、ここらへんで筆を置く。

 マザー・テレサは間違えていた、とぼくは思う。しかし、一面では彼女は正しいのだ。たしかにいのちは大切だ。しかし、その「いのち」とは、それ単体で完結したものではなく、それを孕んだ女性と連続したものなのである。

 その意味で、その連続性を断ち切る行為は、悲劇である。安全な地平から降り立ち、悩み、惑いながら、その悲劇と向き合っていく覚悟がぼくたちに求められている。

 以下、参考資料。

生命学に何ができるか―脳死・フェミニズム・優生思想

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母体保護法とわたしたち

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産む産まないは女の権利か―フェミニズムとリベラリズム

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いのちの女たちへ―とり乱しウーマン・リブ論

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生殖技術とジェンダー―フェミニズムの主張〈3〉

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