それでもやっぱり「昔のアニメはよかった」と考えない理由。


 今日の記事は(引用もたくさんありますが)長文です。昨晩延々と書きすすめて、今朝起きて書きあげました。

 しかし、「Something Orange」的には非常に重要なことを書いているので、常連の皆さんは、気合をいれて読んでくださるとありがたく思います。リンク先から来たひとはこのまま去ってくれてもいいや(笑)。

つい先日も、あるアニメについて「作画崩壊している、ダメだこりゃ」という感想をブログで目にしました。「顔が違う。すごく気になる」という記述も見かけます。いつの間にアニメって、こんなに窮屈になってしまったのか、と慄然とするのです。

ちょっと前のエントリで書いたように、週刊ペースであるがゆえに予測不可能な事態が起きる、それがテレビアニメの醍醐味だったはずです。「作画崩壊」というと、僕らのようなオヤジ世代は初代『マクロス』のスタープロの担当回などを引き合いに出すのですが、あれを笑って許せるぐらい、昔はおおらかでした。スタープロの回は明らかにアクシデントだったわけですが、逆に「それでもテレビアニメは成立する」という開き直りでもあったわけです。

テレビアニメって、すごく図太い表現だったんですよ。

 初めにいっておくと、ぼくにはアニメの作画について詳細に語れるほどの識見はない。昔のアニメについても詳しくないし、地方在住のため、いまのアニメをリアルタイムに見ることもできない。

 だから、昔のアニメは「すごく図太い表現」だった、昔のファンは「おおらか」だった、それなのにいまのアニメは「窮屈」になってしまった、といわれれば、そんなものか、とうなずくほかない。

 しかし、それでもなお、この記事を素直に承服しかねるのは、ぼくがいまのテレビアニメをそれなりに好きだからなのだろう。

 80年代のアニメがどれだけ自由な表現だったか知らないが、いまのアニメに冒険精神が皆無なわけでもないだろう。また、いまのアニメファンが幅広い作風を解さぬ石頭ばかりというわけでもないだろう。

 たまたま見かけたブログの記事を根拠に「いつの間にアニメって、こんなに窮屈になってしまったのか、と慄然とする」のは少し早計なのでは、と思うのだ。

 もっというなら、そもそも「予測不可能」な「アクシデント」とは許容されなければならないものなのか、という疑問がある。

 「アクシデントと受け取られかねないほど過激な表現」はともかく、単なるアクシデントは可能ならないほうが良いのでは?

 たとえば、最近の週刊漫画では下書きをそのまま載せている作品を見かけることがある。これもまた、週刊連載ならではのアクシデントのひとつだろう。

 しかし、そんなアクシデントはできればないほうがいいに決まっている。そういうアクシデントがあるからこそ週刊漫画はすばらしい、というひとはまずいないのではないだろうか。

 アクシデントがあってもなおすばらしい、ということと、アクシデントがあるからすばらしい、ということは、似ているようでいて全然違う。

 いや、その種のアクシデントが結果として表現の可能性を広める可能性がゼロではないことは認める。

 しかし、「時にアクシデントが起こることこそがテレビアニメの魅力なのだ」といってしまったら、懸命にアクシデントを起こすまいとしている人間の努力はどうなるのか?

 それ以前にほんとに昔のファンがその種のことを「笑って許」していたのか疑問なのだが、こればかりはじっさいにその時代を体験していないぼくには何ともいえないので、このことにかんしては沈黙する。

 ただ、ネットを検索するとリアルタイムに見たひとの「あれはひどかった」という記事がたくさん見つかりますよね。

 と、ここまで文句を並べてみたのだが、そして、ただ言葉の表面を見る限り、文句を付けざるを得ないのだが、同時に、廣田さん(引用先のブログの管理人さんです)のいいたいであろうことはよくわかる、とも思うのだ。

 おそらく廣田さんのいう「アクシデント」とは、単なる本当のミステイクではなく、製作者ですら事前に予想ができないような、ある種のミラクルのことをいうのだろう、と推察する。

テレビアニメって、もともとB級娯楽だったんだよね。ちょっとヤンチャが過ぎてしまって、それを発見する視聴者がいて――宮崎駿演出の『さらば愛しきルパンよ』なんて、まさにヤンチャだった。おいおい、今までの『ルパン』と違いすぎるって、世界観も絵も(笑)。だから、「あんなの、『ルパン』じゃないよ。好き勝手やりすぎ」「でも、凄いよね」って評価のされ方だった。宮さんの演出回だけシリーズの統一感を無視してるから。でも、そういうハプニングが起きるから、毎週、僕らはテレビの前に座っていたはずなんだよ。

『ダイターン3』の最終回も、絵は荒々しいし、話も難解。ラストの「僕は、イヤだ」って何やねん、いまだに意味わかんねーよ!と。ところが、嫌でも印象に残るんだよね。毎週30分、何が起きるか分からなかった。やり逃げだし思いつきだし苦しまぎれなんだけど、だからこそ、テレビアニメは強靭な体力をつけていったんだと思う。

でも、気がついたら、もはやハプニングは歓迎されなくなっていた。

もう10年ちょっと前のことだけど、初めて知り合ったアニメ業界の方が「テレビは、さまざまな猥雑な要素をそぎ落として、今日のような形になったんです」と言っていたのを思い出した。その猥雑と混沌こそが、テレビアニメの力だったのだろう。

 ここらへんの記述には、ほとんどふるえるような共感を覚える。ぼくもまたその「猥雑と混沌」を求めてやまないからだ。

 ぼくがエロゲに求めているものはその「猥雑と混沌」である、といっていいと思う。

 いくらでも例を挙げられるんだけれど、たとえばOVERDRIVEの『キラ☆キラ』。この作品には、萌えと、エロと、エンタメと、時代おくれのパンクスピリット、そしておそろしく重苦しいテーマが混沌と同居している。

キラ☆キラ~Rock'n Rollshow~(通常版)

キラ☆キラ~Rock'n Rollshow~(通常版)

 シナリオ瀬戸口廉也という名前に惹かれて買った層はともかく、この作品が途中まではたしかにそうであるような明るく楽しく萌えるエロゲを期待して買った層は、終盤に始まるあまりに重く深刻な展開に唖然としたと思う。

 それは少しも「アクシデント」でも「ハプニング」でもなく、緻密に計算された展開ではあるのだが、それでも全体として見ると、中盤までと終盤の雰囲気の乖離はすさまじいものがある。

 同じ瀬戸口シナリオの『CARNIVAL』だってそうだ。「このオープニング(↓)」を見て「あの展開」を想像できるユーザーがいるだろうか? ぼくは断言する。そんな奴はいねえ!

CARNIVAL

CARNIVAL

 先述したようにぼくは昔のアニメに詳しいわけではない。しかし、それでもこれらの作品がそのカオスさで往年の作品に劣っているとは思わない。

 ぼくはこの種の作品が大好きだ。そのカオスが好きで好きで仕方ない。それは廣田さんが80年代のアニメを賛美する気持ちと、同じとはいわないまでも、どこかで一脈通じているものなのではないか、と思う。

 たとえば、ぼくは以前、ペトロニウスさんの記事を引用し、『コードギアスR2』にかんしてこんな記事を書いている。

 いつも通りペトロニウスさんのところからの引用なのですが、この記事の肝は「カレンの胸の揺れっぷりとか、そういうのが、よかった!」というところにあると思います(笑)。

 いや、ほんとね、『コードギアス』を語るとき、そういうことを抜きにして話しちゃあかんと思うんですよ。たしかに一面、高尚にも衒学的にも語れる作品だけれど、決してそれだけじゃない、何より大切なのは荒唐無稽きわまりないエンターテインメントとしてのおもしろさなんだから、カレンのおっぱいが大きいとか、蜃気楼がかっこいいとか、ルルスザカップリング萌えとか、そういうところこそ重要なはず。

 しかし、だからといってそれだけでもない。この作品を鍵にして世界を語ることも出来ると思うし、それもまたすばらしいことだとも思うのです。

 矛盾しているようだけれど、そうじゃない。『ギアス』という作品にはそれだけのキャパシティがあるということです。

 そもそも、ぼくはある作品なりジャンルを高尚とか低俗とか、そういう枠に押し込めること自体、良いことではないと思うわけです。だって、傑作というべき作品はたいていただ高尚とか低俗というだけでは済まない混沌とした魅力を備えているものだからです。

 「上」とか「下」という概念を超越しているといってもいい。一方で難解なほどに複雑きわまりなく、もう一方で粗野な単純にまでにおもしろい、真の傑作とはそういうものだし、またそうあるべきだと思います。

 これもまた、ぼくなりの「混沌と猥雑」賛歌だ。

 ぼくの目から見ると、『コードギアス』正編はともかく、続編の『R2』は非常に猥雑な作品だったのである。『コードギアス』という一応は完成されたエンターテインメントが過剰さにひき裂かれていくカタルシスがそこにはあった。

 そういうわけで、ぼくは廣田さんのいいたいであろうことは、おそらくは理解できていると思うのだ(すべてぼくの妄想かもしれない、という可能性はもちろん認めるけれど)。

 ただ、傲慢のそしりを覚悟していうならば、いかにも言葉足らずだとも思う。かれの記事に対しては、こういう反論が予想できる。

 ただ単に「商業主義を無視したアクシデンタルな表現」を求めるならば、同人誌を読んでいればいいではないか? あるいは、ニコニコ動画を見ていればいいではないか?

 そこには、商業的な制約も、娯楽的な制約も、最小限しかない。いくらでも冒険的な作品を見つけることができるのではないか?

 しかし、おそらく廣田さんがいう「猥雑と混沌」とは、そういうものではない。ここでいう「混沌」とは、単なる本当の「自由な表現」ではなく、高度でスクウェアな(=堅苦しい)表現様式と何らかの「アクシデント」あるいは「ハプニング」が衝突するときに起こるサプライズなのではないだろうか。

 廣田さんの文章を読んでいるとあたかも「スタープロの回」というアクシデントが『マクロス』の魅力の根源だったように思えてくるが、ぼくはそうではないと思う。

 そもそも毎週確実に「作画崩壊」(好きな言葉ではないが)しているなら、それはアクシデントでもなければハプニングでもない。かぎりなく予定調和的な凡作である。

 「スタープロの回」というアクシデントをアクシデントに留めているのは、もう一方に存在する真っ当なアニメーション、つまり、スクウェアな表現様式だと思う。

 たしかにそのスクウェアな表現様式だけでは「混沌」とした「猥雑」な魅力は出なかったかもしれないが、しかしそれは「スタープロの回」だけでも同様だったはずだ。

 ただ単に適当なアクシデントを放り込んでいけば予測不可能な作品が出来上がる、というものではないだろう。いかにも逆説的だが、アクシデントオンリーの作品は、少しもアクシデンタルではないのである。

 ようするに、ここでいう「混沌」や「猥雑」とは、複数の異なるベクトルの要素が作品内で強烈にぶつかりあうときに初めて発生する、といえるのではないだろうか。

 昔のアニメにそれがあったとすれば、それは無数のベクトルが衝突しやすい条件が整っていた、否、衝突を避ける条件が整っていなかった、というだけのことだと思う。

 したがって、ぼくは、

コピーにコピーを重ねていたら、そりゃオリジナルには勝てないよね……と、ガンダムVer.2.0のプラモデルを組み立てながら思う。「昔のアニメって、あんなに面白かったのに」と、まっとうな勤め人になった友達が、よく嘆いている。そりゃあ、昔は「今期のDVD商戦を乗り切りましょう」なんてビジネスモデルじゃなかったからさ……。グレメカDXの板野一郎さんのインタビューにあるように、「ハイジは、牛乳よりカルピスの方がおいしいよとは言わなかった」。一社提供なのに、昔は潔いスポンサーもいたのだ。

 というような言説には全く納得できない。「昔のアニメって、あんなに面白かったのに」。自分の無知を棚に上げていう。それはただの懐古趣味ではないか、と。

 廣田さんは『ガンダム』や『スター・ウォーズ』のデザインが時を超えてのこっていることを「どちらも70年代末に誕生したデザインだが、この頃はマーチャン・ダイジングのノウハウが貧弱だった。だから、作品力に頼って生きのびてきたのだと思う」という。たしかにそれはそうだろう。しかし、その影でどれだけの作品が消えていったことか。

 『ガンダム』も『スター・ウォーズ』もその時代において唯一無二の作品である。こういう作品の名前を挙げて、あたかもその時代のエンターテインメント・ビジネスが作品本位的であったようにいうことはできないと思う。

 ただ単にトミノやルーカスの志がずば抜けて高かった、というだけのことじゃないか? それに、いまのアニメが30年後にのこっていないとだれにいえる?

 そして、ぼくはクリエイタはビジネスを無視するべきだ、とも思わないのだ。クリエイタがビジネスや「ファンの目」を無視したとき生まれるのは、往々にして「混沌」ではなく、退屈な自己満足作品ではないだろうか。

 「混沌」は複数の異なるベクトルの衝突により発生するとすれば、むしろ、商業主義が作家性と衝突してビッグバンを起こしたときにこそ、それは生まれるはずである。

 江戸川乱歩ジュブナイルがかれの大人向け作品よりもっと「猥雑」で「混沌」としているように。

 たしかにぼくも70年代、80年代のアニメに比べたらいまのアニメは「均質な」表現になっているだろうと思う。しかし、それは最近のオタクの鑑賞能力が低下したからだ、といった卑近な結論に回収できるものではないとも思うのだ。

 おそらく、日本全体がその種の猥雑な活力を失っているということもあるだろう。どう考えたって、現代日本終戦直後ほど混沌としているとは思えない。

 また、あらゆる表現はやがて完成し硬直していく性質をもつ、ということもいえるだろう。どんな低俗な「B級娯楽」も放っておくと芸術になりかねない、ということ。

 しかし、だからといって絶望する必要もまたないと思う。表現が均質化していけば、それを壊したがる人間があらわれる。そこにまた、新たな表現の可能性は現れ出でるだろう。

 ひとついえるのは、70年代式、80年代式の「混沌」を懐かしんでも無意味だ、ということだ。その時代はすでに過ぎ去った。そして、時は逆巻かない。

 高度経済成長が二度とないように、バブル経済がふたたび訪れないように、同じ時代、同じ文化は決して生まれえないのだ。あたらしい土壌はあたらしい花しか咲かせない。

 初めに書いたように、ぼくはあたらしい時代のあたらしい花は悪くないのではないかと思っている。一見スクウェアな表現しか許容されないように見えても、だからこそ壊し甲斐がある、ということもいえるのである。

 たとえば、可憐な美少女キャラクタがひたすらグロテスクにたたかったり殺されたりする、というかたちのカオスはキャラクタ文化が成熟してはじめて成立するものだと思う。

 つまり、それは一見スクウェアな表現があって初めて成立するカオスなのである。スクウェアな表現が完成度を増せば増すほど、カオスな表現が生まれてくる可能性も増してくるといっていいのではないだろうか。

 いずれにせよ、絶望を捨てて、未来に目を向けるべきだと思う。どうせ可能性はそこにしかないんだからね。