不用意なネタバレは何を奪うか。

ネットで色んな所を見て回っていると、特に新作の感想周辺で、ネタバレ踏んだだの何だのという話に出くわす事がある。

見かけるたびに思うのが、ネタバレって、そんなに警戒するほどのものだろうかという事。

だからといって嫌がる人にネタバレを踏ませよう等とは微塵も思わないけど(自分で書くときはネタバレ注意って警告しているし)、そんなに警戒する必要があるのか、とも思う。

作品の種類によってネタバレによるダメージが違う事は十分承知の上であえて言うけど、ネタバレ食らった程度でつまらなく感じてしまうような作品は元々たいした物じゃない気がしている。

Ever17のようなゲームは、ネタバレによるダメージが大きいだろうけれど、そうじゃない、例えば人間関係がどう推移していくかに重点が置かれた作品などは、ネタバレなんて大した問題じゃないと思う。

 ネタバレしててもおもしろいものはおもしろい。ただ、知ってるのと知らないのでは楽しみ方がまったく変わってきてしまう。ネタを知らずにその作品に触れる方が、おそらくより一層おもしろい。結末を知らないからこそ過程に一喜一憂できるのです。

 まあ、これを書いてるあたしがネタバレエントリを書いたりネタバレラジオをしているわけで、説得力も何もあったもんじゃないですが。

 しかし、ネタバレが警戒されるのはごくごく普通の話だし、ネタバレ程度で揺るがない本物もあればネタバレで揺らぐ本物だってある。ただそれだけの話かなと思います。

 きよさんが正しい。

 たしかに少々のネタバレ程度では揺らがない傑作はあるが、わずかなネタバレが致命的に読み方を損なう傑作もあるだろう。そして、少しもネタバレを気にしないひともいれば、神経質に気にかけるひともいるだろう。

 いくらでも異なる場合が考えられる以上、やはりネタバレには注意してもらわないと困る。

 そういうぼく自身、他人にネタバレをかました経験があるのだが、ま、一般的な礼儀作法として多少なりともネタバレには配慮してほしいものですね。

 しかし、それでは、ネタバレによって魅力が褪せる作品と、そうでない作品とは、どこがどう違っているのだろうか。

 叙述トリックのような革新的なアイディアが中心となった作品でネタバレがまずいことはいうまでもないが、「人間関係がどう推移していくかに重点が置かれた作品」でも、まずいことはあると思う。

 ひとついえるのは、その作品の表現としての魅力は、ネタバレによっても少しも殺がれないということである。たとえば、芥川龍之介の「奉教人の死」。

 されば娘が大地にひれ伏して、嬉し涙に咽んだ声と共に、もろ手をさしあげて立つた翁の口からは、「でうす」の御慈悲をほめ奉る声が、自らおごそかに溢れて参つた。いや、まさに溢れようずけはひであつたとも申さうか。それより先に「しめおん」は、さかまく火の嵐の中へ、「ろおれんぞ」を救はうず一念から、真一文字に躍りこんだに由つて、翁の声は再(ふたたび)気づかはしげな、いたましい祈りの言となつて、夜空に高くあがつたのでござる。これは元より翁のみではござない。親子を囲んだ奉教人衆は、皆一同に声を揃へて、「御主、助け給へ」と、泣く泣く祈りを捧げたのぢや。して「びるぜん・まりや」の御子、なべての人の苦しみと悲しみとを己がものの如くに見そなはす、われらが御主「ぜす・きりしと」は、遂にこの祈りを聞き入れ給うた。見られい。むごたらしう焼けただれた「ろおれんぞ」は、「しめおん」が腕に抱かれて、早くも火と煙とのただ中から、救ひ出されて参つたではないか。

奉教人の死 (新潮文庫)

奉教人の死 (新潮文庫)

 ここら辺の表現のうつくしさは、仮にさいしょからさいごまで話の筋を知っていたとしても、いささかも揺らぐものではないだろう。その意味で、「奉教人の死」は、まさしく少々のネタバレでは揺らがない「本物」の芸術作品である。

 しかし、だからといって「ろおれんぞ」は実は――とやるのは、やはりためらわれる。表現としての魅力は揺らがなくても、物語としての魅力は揺らぐからである。

 物語の魅力とは何か。それは物語を「もうひとつの現実」として生きることである。

 先の展開を知らないまま、次はいったいどうなるのだろうという興味に曳かれて物語を読むことは、現実の人生を生きることによく似ている。

 その、未来の出来事を知らないままにおそるおそる「もうひとつの現実」を歩んでいる感触、不用意なネタバレが奪うのはそれではないだろうか。

 「表現」としての魅力と「物語」としての魅力は、作品を支える両輪である。そうである以上、やっぱりネタバレには細やかな配慮が必要だと思う。

 ま、そうはいってもついついやってしまうんだけれどね。