このルサンチマン充め!


 先日の『ペルソナ4』の記事にいくつか反応をいただいた。いつものように、肯定的な意見も否定的な意見もひと通り目を通してみた。その上で、さらにぼくの意見を続けてみたい。

 どんなに安っぽく考えなしでばかばかしいものでも、絶望するものにとって絶望は絶望であり、それを「その価値観は誤りだ」とか、「世の中にはもっといいことがある」などと言っているだけでは何も変わらない。「お前たちが何と言おうとおれは絶望しているんだ!」と逆ギレされて終わりだよ。

 なるほど、そうかもしれない。ただ、こういう意見を読んで思うのは、「お前たちが何と言おうとおれは絶望しているんだ!」と叫ぶひとの、その心理である。

 たしかに、綺麗事の御託をいくら並べたところで状況は改善しないだろう。しかし、そもそも、現状に「絶望」する当事者は「変わりたい」と思っているのか? 何らかの手段で「絶望」を抜け出したいと考えているのだろうか?

 それとも、一生、「絶望」の殻のなかにしゃがみこみ、世を怨み、ひとを妬み、自分を哀れんで過ごしていければ満足なのか? どっちなのだろう?

 こう書くと「もちろん抜け出せるものなら抜け出したいが、それは無理なのだ」という答えが返ってきそうだが、本当にそうだろうか? 

 ネットで他人に嫉妬しているひとたちを見ていると、時々思うのである。君たち、本当は嫉妬することが好きなんじゃないの、と。

 竹田青嗣『「自分」を生きるための思想入門』には、以下のような記述がある。

 ルサンチマンとは、「反感」、「恨み」、「嫉妬」ということです。親に「おまえは駄目だ」と怒られたり、先生から「きみはなっちゃいない」とか言われたりしたとき、そこで恨み返すことが「ルサンチマン」です。

 ルサンチマンという言葉は、もともとは感情を反芻すること、辛いことや悲しいことを思い返して、その感情にいつまでもくよくよ、うじうじとこだわることを意味します。

 冷たくした父親、自分を振った女、自分を除け者にした他人や社会をいつまでも恨み続けることもできるし、何か仕返しをしてやろうという気持ちを持つこともできます。肝心なのは、ルサンチマンはある意味では無用の長物のようですが、それ自体が一つのエロスになりうるということです。それ自体が人間にとって一つの存在可能、生きる理由になることがありえるということです。

 ルサンチマンのエロス。つまり、他人に嫉妬していることに快感を感じる状況のことだ。ぼくが見るに、世の「自称非リア充」には、多分にこのルサンチマンのエロスに耽っている側面があるように思う。

 もちろん、「自称非リア充」一律にそうだというつもりはない。しかし、かれらのうちの何%かは、たしかにルサンチマンのエロスに耽溺しているように見受けられる。

 そういうひとたちに「絶望する必要はないのだ」ということは、たしかに余計なお世話というものだろう。かれらはけっきょく、自ら「絶望」することに満足しているのだから。ぼくは、そういうひとを「ルサンチマン充」と呼びたい。

 ルサンチマン充はいつだって自分を不幸だと主張するが、実はそんなことはないのである。自分を不幸だと主張することで、たっぷりルサンチマンのエロスに浸っていられるのだから。

 本当に苦しんでいるひとは、何としてでもその苦しみの沼から抜け出そうとするものだが、ルサンチマン充は逆に何としてでも沼から出るまいとする。ルサンチマンに浸っていることが快感だからである。

 全くうらやましくも妬ましい。このルサンチマン充め!