リア充なんてこわくない!

ペルソナ4

ペルソナ4

 昨日も書いたように、アトラスの『ペルソナ4』をクリアした。すでに各所で記されている通り、『ペルソナ』の名に恥じない傑作だ。

 いや、はまった、はまった。十日間のあいだ、ほぼぶっ通しでプレイしてしまった。寝ても覚めてもペルソナな日々、それはもう楽しかった。RPG好きで未プレイの方には自信をもってお奨めしたい。

 さて、このゲームにかんしては以下の記事が有名である。今回は『P4』とこの記事を肴にして「リア充」という概念について語ってみたい。

ということで、「リア充」とは、たとえば彼女や彼氏がいたり、友達が多かったり、学生であればサークル活動やバイトに勤しみ輝ける青春を送っているという、僕から見れば羨ましすぎて万死に値する天上人たちのことです。

そんなの都市伝説だぜ! と思い込むことで心の平安を保っていた僕でしたが、今回「ペルソナ4」でリア充の恐ろしさを見せつけられる経験をしてしまいました。

僕ぐらい年季の入った非リア充になるとギリギリ耐えられましたが、心の弱い非リア充がペルソナ4を遊んだら、軽いトラウマになるかもしれません。

 この記事は多分にジョークであり、あまり真面目に受け取るべきものではないだろう。それでも、ぼくはやはり一面的な言い分だと感じる。

 たしかに『P4』は一面では「リア充ゲーム」かもしれないが、決してそんな言葉でいいあらわせる作品ではない。

 そもそも、ぼくはモテとかリア充という概念がきらいだ。より正確には、そんな言葉で人間をあらわした気になる精神がきらいだ。

 モテとかリア充とかスクールカーストとかいった概念をばかばかしく思うのは、それらがけっきょく、本来多面体であるはずの人間を一面的に切り取る言葉だからである。

 あいつはリア充だ、おれは非モテだとというとき、人間存在のもつ多様な可能性は一気に切り捨てられ、ある一面だけがクローズアップされる。

 それは事実であるかもしれないが、事実のすべてではない。「ザ・リア充」、「ザ・非モテ」といった人間はいない。ひとはみな、固有の物語を抱えていて、それはひと言で表せるようなものではないのである。

 上記の記事とは正反対に、『P4』をプレイしていると、そのことがよくわかる。

 たとえば、本作における主人公の親友、花村陽介はしょっちゅう陽気な軽口を叩く二枚目の青年である。一見すると、かれは人生に何の哀しみも抱えていないように見える。しかし、その実、陽介は田舎町でくすぶっている自分に不満と鬱屈を覚えている。

 あるいは、仲間のひとりである天城雪子は学校でも有名な美少女だが、自分自身に価値を見出せずに苦しんでいる。

 かれらは表面だけ見れば恵まれた境涯の「リア充」だが、その実、複雑な葛藤を抱えているのだ。その葛藤は「もうひとりの自分」として姿を現し、たたかいを余儀なくされる。その決闘のさまが『P4』のひとつの見所である。

 したがって、ぼくは『P4』をただの「リア充ゲーム」だとは思わない。むしろ、この作品のテーマは単純な「リア充」などいない、というところにあるように思う。

 どれほど恵まれているように見えるひとでも、外から見てはわからない悩みや苦しみを抱えているのだということ。それがこの作品の教訓なのではないか。

 上記の記事によれば、「リア充」とは「羨ましすぎて万死に値する天上人たち」なのだ、ということになるが、そんな「リア充」たちでも、ひと言ではいえない内面=ペルソナを備えているものなのである。

 しかし、それはけっきょくゲームだからそうなのであって、現実には「リア充」のほうがいいに決まっている、という意見もあるだろう。

 そうかもしれない。しかし、そもそも「充実」とは何だろうか。イケメンであることか? 恋人がいることか? 仕事が順調に行っていることか? ぼくにはそれらはあまりにも「生」の本質からかけ離れたことに思える。

 もちろん、仕事や恋愛が「生」を充実させることはあるだろう。しかし、それだけが「生の充実」の唯一のかたちだとはぼくには思えない。

 綺麗事にきこえるかもしれないが、本当の「充実」とは、イケメンだの、才能があるの、彼女がいるのといったこととは無関係のものだと思うのだ。

 宮沢賢治の「告別」という詩をご存知だろうか。

もしもおまえが

よくきいてくれ

ひとりのやさしい娘をおもうようになるそのとき

おまえに無数の影と光りの像があらわれる

おまえはそれを音にするのだ

みんなが町で暮したり

一日あそんでいるときに

おまえはひとりであの石原の草を刈る

そのさびしさでおまえは音をつくるのだ

多くの侮辱や窮乏の

それらを噛んで歌うのだ

 ひとを「リア充/非リア充」と分けて考える考え方からすれば、この詩でうたわれる人物は間違いなく「非リア充」ということになるだろう。

 何しろ、「みんなが町で暮したり一日あそんでいるとき」にたったひとりで「石原の草」を刈っているというのだから、寂しい人生である。

 しかし、栄光とも賛嘆とも無縁であろうかれの人生は不幸なものだといえるだろうか。むしろ、かれが「多くの侮辱や窮乏のそれらを噛んで歌う」とき、その生は幸福とか不幸といった概念を超越したところで充実している、とはいえないだろうか。

 ぼくたちの価値観には「二分法の罠」が仕掛けられている。ぼくたちは自分の人生を光と影、幸福と不幸、リア充と非リア充といった対極のものに分けて考えがちだ。

 しかし、「生」とは、本来、そのようにわかりやすく分けては考えられないような、混沌そのものだと思うのだ。その混沌を引き受け、「影と光りの像」と正面から向き合うこと、それが「生の充実」ではないだろうか。

 なるほど、この世には恵まれたひともいれば、恵まれないひともいるだろう。この世は不条理で不公平だろう。しかし、だからといって、ひとを「リア充」と決め付け、妬み、そねみ、うらやましがっているだけではいつまでたっても「充実」にはとどかないと思う。

 ただ冗談で「リア充どもめ」といっているぶんには問題ないが、本気で「リア充」をねたみはじめると洒落にならない。

 ぼくたちはそれぞれ固有の物語を抱いて生きている。自分に与えられた物語に不満があるとしても、それを受け入れ、他人の物語に関心を抱くとき、初めてひとは他者に共感をもって接することができる。

 そのとき、もはや「リア充」も「非リア充」もない。ただ、そういった境界を超越した複雑きわまりない人間存在があるのみである。

 それが「生」だとぼくは思う。

もし楽器がなかったら

いゝかおまえはおれの弟子なのだ

ちからのかぎり

そらいっぱいの

光りでできたパイプオルガンを弾くがいゝ