『Love me more』第13話。


 第13話です。いよいよクライマックスへ。


13.メール

「あ……」
 半ばまで水割りが入ったグラスが、伸ばした指先にふれて揺れた。しまった、と思う間もない。グラスは一瞬、斜めに傾いだまま静止したかと思うと、次の瞬間、音を立てて倒れた。水割りは卓上に散らばり、その端から床へとしたたり落ちる。
 敷居は、呆けたような目でその惨状を見つめた。こぼれた酒を拭くため立ち上がることさえ億劫だった。
 本当に、これが、あの凍てついた目をしていた男だろうか。
 いまのかれを見る者は、そう疑問に思うかもしれない。それほど無残に変わり果てた姿だった。丁寧に梳かしつけていた髪は乱れ、シャンとしていた服装は薄汚れ、そして、瞳はアルコールで濁っている。たとえるなら、いまのかれは、いわばかつての敷居住人の廃墟にすぎなかった。
 と、その唇からかすかな笑声がもれた。自分自身を嘲り、笑殺しようとする、歪んだ笑いだった。やがて、その笑いはヒステリックに高まり、部屋中に響きわたった。
「兄さん」
 その背中に、ひとりの女性がもたれかかる。どこまでも優しく、柔らかく、献身的なその姿――椎子である。
「お酒はそれくらいにしてください。おからだを壊します」
 そっと敷居の背中からからだを離すと、敷居がこぼした酒を拭きはじめる。この三日間、彼女はそうしてかれの世話を行ってきたのだった。
 椎がこの家を出て行って、もう何日になるだろうか。椎子はあたかも椎がいなくなったその隙間を埋めるようにして、敷居の生活に入り込んでいた。そして、精神的に崩れかかった敷居を支え、励まし、今日まで「介護」していたのだった。その無私の姿は、あるいは宗教的な「聖女」をすら思わせたかもしれない。
「放っておいてくれ」
 敷居はそんな妹を、うとましそうに見つめた。そこには、彼女の献身に対する感謝も、労いも、浮かんではいないように見えた。
「呑まずにはいられないんだ。おれは駄目な男だ。何もかも失ってしまった」
「わたしがいます」
 労いをこめた声で椎はいった。
「ねえ、兄さん。実家に帰りましょう。父さんも母さんも喜んで迎え入れてくれます。お仕事なら、実家でもできるでしょう」
「それはできない」
 いまの自分には、都会の汚濁が魂の芯まで染み込んでいる。もう田舎暮らしには耐えられない。何より、ふたたびこの妹といっしょに暮らすことなど考えられない。そういおうとして、敷居は口をつぐんだ。わずかにのこった理性が、これ以上椎子を傷つけてはならないと告げていた。
 結局、かれは何もいうことができず、またあたらしい酒に手を出すのだった。そして、椎子はそんな兄をいたましそうに見つめる。これが、この三日間、〈敷居邸〉でくり広げられている光景であった。
 しかし、この日は、その変わりばえのしない光景にようやく変化が訪れようとしていた。電源をいれたまま放置されている敷居のPCが、甲高い音を立てたのである。メールの着信を告げる音だった。
 初め、敷居は反応しなかった。もとより、超人気ブロガーであるかれのもとには、無数のメールが舞い込む。ふだんはかれもきちんとそれらを処理しているのだが、ここ数日はほとんど無視していた。いまのかれには一々反応する価値のあるメールがあろうとは思われなかったのである。
 むしろ、このとき反応したのは椎子のほうだった。彼女は、さすがに疲れた様子で何気なくメールを開いた。彼女にとっても、いまの敷居と四六時中向かい合っていることは耐えがたいことだったのかもしれない。しかし、いちどメールを開くと、その瞳に、真剣な色が浮かんだ。
「兄さん、このメール、見てください」
「放っておいてくれ、といったはずだ」
「でも、このメール、差出人が椎さんですよ」
「何だと?」
 敷居の濁った瞳に、初めて、活力の欠片らしきものが垣間見えた。かれは妹から奪い取るようにしてモニターを覗き込んだ。そこには、たしかに懐かしい少年の名があった。椎とは書いていない。ただ、〈C〉とだけ記されてあった。
 敷居はひとつ頭を振ると、本文を読み下していった。

 ひさしぶりだな、敷居。
 ぼくだ。Cだ。散々世話になったあげく、家を飛び出すような真似をして、申し訳ないことをしたと思っている。ぼくは何とか住処を見つけて、平穏に暮らしているから心配しないでくれ。
 恥ずかしながら告白するなら、結局、もと出たところに戻ることにしたんだ。ぼくにはここがいちばん良く似合っているようだ。お前とは喧嘩別れするようなかたちになってしまったが、そういうわけなので、気にしないでくれたらありがたい。
 またメールを送るが、ここは全寮制なので、しばらく逢うことはできないかもしれない。

椎 

 敷居はほっと嘆息した。
 まず、何よりも椎が無事だったことが嬉しい。そして、自分に対してメールを送ってきてくれたことも。メールの内容も自分に対して好意的なものだ。
 かれは安堵のためその場に崩れ落ちそうになった。その安堵を妨げたのは、かすかな違和感だった。あの驕慢な椎がはたしてこんな低姿勢なメールを書くだろうか。
 そのとき、かれの酒気に濁った脳髄のなかで、閃くものがあった。
「まさか、そんな」
 かれは隣で案じるように見つめる椎子にも気づかず、独語した。
「おれは、ばか者だ……」
 なぜ、気づかなかったのだろう。椎の発言の端々にはヒントが隠されていたのに。〈王子〉、〈スクール〉、全寮制――すべては以前からネットをただようひとつの噂と符合する。ただの噂話と真剣には受け止めていなかったが、すべては真実だったのだ。
「兄さん?」
 心配そうに声をかけてくる椎子を振り払って、敷居はネットを検索してまわった。そこにはひとつの噂話として、あるいは伝説として、ひとりの男の名が挙げられていた。
「〈王子〉か」
 いまやすべてを悟って、敷居は呆然と呟いた。
「ネットの世界で〈王子〉といえばただひとり。日本最大のニュースサイト管理人。ネットを掌握するほどの権力をもち、多くのしもべたちを操って暗躍しているという、あの伝説の男」
 かれの声は、畏怖のために震えた。
「――まなめ王子」