『Love me more』第11話。


 伏線回収、と。


11.代用品

「おれが椎子と暮らしていたのは、そう、もう八年も前のことだ」
 燕を家に帰したあと、中空を見つめながら、敷居は話しはじめた。その目は本当はその場所ではなく、遠い過去を見つめているのだということが、椎にもわかった。
「おれたち兄妹は、おれが十歳のとき、両親を事故で亡くして、親戚の家に引き取られることになった。特にその家で虐待されたとか、邪険にされたというわけじゃない。むしろ、そこは資産家の家で、おれたちは大切に育てられたといっていいだろう。しかし、やはり、そこは他人の家だった。だれも頼るものがいない家で、おれと椎子は、お互いに依存しあうようになった」
 記憶を辿れば、いまもあの日の幼い少女の声が鮮明に聞こえてくる。
(お兄ちゃん。待って、お兄ちゃん)
 意地悪をして、わざと早足で走ったかれのあとを、必死になって追いかけてきた椎子。
(ちょっと待ってよ、お兄ちゃん。そんなに急いだら危ないよ。転んじゃうんだから。ねえ、いっしょにゆっくり歩こうよ)
(厭だよ。椎子みたいにのんびり歩いていたら、いつまで経っても着かないじゃないか)
 いまにして思えば、なぜ、実の妹に対してああも邪険であることができたのだろう。この世にたったふたり、のこされた家族だったというのに。いや、そうであるからこそ、かえって、椎子の愛情を試したかったのだろうか。彼女が必ず、自分のあとを追いかけてくることを、たしかめたかったのだろうか。
「しかし、おれが高校生になる頃になると、何かが変わってきた。その年頃になれば、どんなに仲の良い兄妹でも、多少は距離を置くものだろう。しかし、おれと椎子は、いっそう近づいていくばかりだった。ふたりは、周囲にからかわれるほど親密になっていた。おれは、そのことを誇りに思っていた。椎子は自分が守るんだと、そう思い込んでいた。そして、おれが大学生になってしばらく経ったとき、事件は起こった」
 無邪気だったあの頃。
 椎子にとって、最も危険なのは、他ならぬ自分自身なのだと、気づかずにいた日々。
 あの頃の敷居にとって、椎子は文字通りすべてだった。自分の全存在をかけて守るべきものだった。しかし、そうして、あの日、呪うべきあの日がやってきた。
「その日、義理の両親は旅行に出ていて、おれと椎子はふたり家に残されていた。誘われなかったわけじゃない。ただ、俺たちのほうから断ったんだ。その頃、まだおれたちと義理の両親の間にはわだかまりがのこっていた。しょせん生さぬ仲ということかな。そして、その日――」
 誓っていえる。その日、椎子の寝室に忍んだとき、敷居には何の邪念もなかったと。ただ、ひとりで眠る妹のことを心配し警備してやるつもりでその部屋に入っただけだった。しかし、ひとりベッドに眠る椎子の人形めいて端正な顔を覗き込んだとき、何かがかれにささやきかけたのだった。
 気づくと、かれは自分の唇を妹のそれに重ね合わせていた。その唇の、たとえようもない、甘さ、柔らかさ。気づかれはしまいかと禁断の行為に怯えながら、敷居は唇に溺れた。ただそれだけのことなら、あるいは、かれはそこまで自分を責めずに済んだかもしれぬ。
 しかし、かれが自分の唇を離したとき。椎子の唇が開き、こうささやいたのだった。
(いいの、兄さん)
 その、静かな声音。
(兄さんがしたいことをしていいのよ。わたし、ちゃんと我慢できるから)
 そして、開くはずのないまぶたが開き――敷居は、恐怖と惑乱のなかで見た。全幅の信頼がこもったその目を。
 ひとかけらの疑いも、咎めも、混じりこんでいない瞳が、どんな侮蔑の視線よりもきびしく、敷居の心を責めた。かれは、悲鳴を上げてその場を逃げ出した。
 その瞬間、敷居は悟ったのだった。自分が妹に対して抱いていた感情が、決して清廉無垢の、騎士道精神から出たものなどではなかったということを。むしろ、汚濁に満ちた、醜悪な欲望そのものだったことを。
 翌日から、かれは椎子の顔を見ることができなくなった。椎子は、何ひとつ変わったことなど起こらなかったようにかれに接してきたが、敷居の方が我慢できなくなっていた。そして、かれは大学を卒業するや、ひとり彼女の元を離れ、京都へ旅立ったのだった。
「そのあとのことは、お前も知っているだろう。おれは、汚れた仕事で日銭を稼ぎながら、その日暮らしを続け、そして、そのうち、ブロガーになった」
「それで?」
 椎は静かな声で、続きを促した。
「それでどうした?」
「これで終わりだ。話せることは、すべて話した」
 敷居は告解を終えた咎人のようにうなだれながら、責めの言葉を待った。穢れた罪を犯した自分をののしってほしかった。椎はそうするだろうと思った。しかし、じっさいには、かれはこう叫んだのだった。
「そんなことはどうでもいい!」
 つい先ほどまで、たしかに何の感情も浮かべていなかったはずのその瞳には、いまや、怒りの色があらわだった。
「答えろ! 敷居、なぜ、ぼくを拾った。ぼくは、あの女の代わりだったのか! 近づくことのできない自分の妹の代わりに、ぼくを利用していたのか」
「違う」
 精一杯の懇願を込めて、敷居は椎を見上げた。
「たしかに、最初、お前を拾ったのはその顔が椎子を思い出させたからだった。しかし、いっしょに暮らすうち、お前が椎子とは全く違うひとりの人間だということが、おれにもわかってきた。そして、今度はお前という人間に興味が湧いてきた。お前の才能、お前の傲慢、それは無二の宝物のようにおれを惹き付けた。信じろ、椎。椎子のことは切っ掛けに過ぎない。いま、おれはお前のことを愛し――」
「それ以上いうな!」
 烈しい破裂音が鳴り響いた。
 椎が、テーブルの上に置いてあったウィスキーの瓶を片手でなぎ払ったのだった。床に落ちた酒瓶は砕けて中身を散乱させた。椎はその様子を一顧だにせず、深い瞋恚のこもった声で敷居に問い質した。
「信じられると思うのか? 本当に?」
 その目は赤く血走っていた。
「お前はぼくのことを見てくれていると思った。ぼくに興味をもっていてくれると。でも、すべてはまやかし、偽りの関心に過ぎなかったんだな。そのことを知らぬぼくが道化だったということか。それならそれでいい。だが、なぜぼくを騙したんだ。ぼくに関心があるようなことをいったんだ」
「椎、違う、そうじゃない」
「その名でぼくを呼ぶな!」
 椎の一声は部屋中に轟きわたった。
「それはお前の妹の名前で、ぼくの名前じゃない。さよなら、敷居住人。もう二度と逢うこともないだろう」
 そして椎は、止める手もなくただ見送る敷居の前で部屋を出て行き、それきり戻ってくることはなかった。