『Love me more』第10話。


 急展開です。


10.再会

 その日、敷居は出版社の人間と逢っていた。
 かれの本業はブロガーだが、その関連でさまざまな連載や著述仕事を抱えている。その時は、ある本の細部を煮詰めるために話し合っていたのだった。
 予想外の点で会話は長引き、仕事を終えて帰途に着いた頃には、街はたそがれ色に包まれていた。
 大通りでタクシーを拾い、自宅へ向かう。そのあいだ、かれは椎のことを考えていた。
 些細な偶然から出逢い、居候させることになった少年。しかし、いまのかれには、すべては偶然とは思えなかった。家の前で拾った子供が、たまたま椎子とよく似た顔立ちをしているなど、考えてみれば出来すぎた話である。ひとたびは逃げ出してきた運命が、椎を用いて、かれに過去と向き合うよう求めている。そう、敷居には思えた。
 椎子。
 かれは心中で呟いた。
 もしすべてを告白したなら、お前はおれを許してくれるだろうか。それとも、見下げ果てた奴と蔑むだろうか。
 いまとなっては無意味な自問が心を巡る。その自問は、自室の玄関に辿り着くまで続いた。そこで答えが出たわけではない。ただ、問いを打ち切っただけだ。
 〈敷居邸〉と燕が呼ぶ部屋の前まで来たとき、敷居はふと、何かいわくいいがたい感覚を感じた。何かが違う、というあるかなしかの違和感。
 ひとの第六感は、このような時、そのようなかたちでもち主に警告を発するものなのかもしれぬ。あるいは、その無意識の声に耳を傾けていれば、すべては違った道を行ったかも。しかし、かれは一瞬だけ逡巡したあと、埒もない、とその感覚を無視して、ドアを開けたのだった。
 いつもの通り、室内の暖気が眼鏡を曇らせる。そのために、その人物を視認するのが一瞬だけ遅れた。結果として、耳の方が先に彼女を捉えることになった。
「兄さん」
 そのひと声が、敷居の全身を凍らせた。
 夢に見るほど懐かしい、しかし、永遠に耳にすることはないはずの声。
莫迦な」
 ひと言うめいて、眼鏡を掛けなおす。
 予想した通りの顔が、眼前にあった。生きてあるかぎり、二度と逢うことはないと誓った、その顔。美しく、たおやかな、椎とよく似た顔。記憶より髪が伸びていたが、そのほかは何も変わっていなかった。
 椎子。
 八年前に別れた少女――否、もはや少女ではない、大人の女性に成長した彼女が一歩一歩近づいてくるさまを、かれはただ呆然と見つめた。
 そして、次の瞬間、からだに衝撃を感じたかと思うと、敷居の胸のなかに彼女の柔らかい肢体が収まっていた。かれは反射的にそのからだを抱き締めた。
「椎子……」
 かつて何度となく抱いたその肢体は、その日の柔らかさを失ってはいなかった。その柔らかさが、かえって敷居を正気に返らせた。
「離せ」
 かれは悲鳴めいた声を上げた。
「離してくれ。椎子、おれにお前を抱き締める資格はない」
「なぜ?」
 澄み切った、無邪気な瞳が下からかれを見上げている。
「ようやく再会できたのに、なぜそんな冷たいことを仰るの? この世に、たったふたりきりの家族なのに」
「だからだ」
 敷居は喘いだ。
「家族だからこそだ」
 そして、かれは椎子のからだを両手で無理やり引き離した。
 椎子は不審そうな目つきでかれの顔を見上げてくる。その視線が、かれには痛かった。その視線から逃げるために、かれは京都に出、ひとり暮らしを始めたのだった。しかし、いま、椎子はここにいる。運命がいちどは逃げ出したかれを遂に見つけ出し、告発しようとしているかのようだった。
「敷居」
 敷居の物思いを、ひとつの声が破った。椎子の柔らかい声音とは対照的な、硬く冷ややかな声音。椎の声だ。そのとき、ようやく、かれは室内に椎と燕がいることに気づいた。ひとりは無感情な目で、ひとりは心配そうに、かれのことを見つめていた。
「すでにひと通り事情は聴いているが、あらためて紹介してもらおうか。彼女のことを」
 椎はいった。
 その声には、怒りも、非難も、そのほかの感情も含まれていなかった。ただ淡々と事実を告げているだけだった。しかし、敷居はその言葉を耳にしたとき、鞭に打たれた思いがした。それほど峻烈な何かを孕んだ声だった。
「そうだな」
 かれは緩慢な口調で真実を告げた。
「紹介しよう。敷居椎子――おれの妹だ」
「お前に妹がいたとは知らなかった」
 椎はあくまでも淡々という。
「それもどこかで見たような顔だ。偶然なのか、敷居?」
 椎子は戸惑った様子で、敷居と椎の顔を順番に見た。そうすると、彼女はいっそう椎に似て見えた。
「兄さん、この方はどなたなの?」
「椎子」
 敷居は妹の両肩に手を置き、懇願した。
「今日はもう帰ってくれ」
「でも」
「また連絡する。だから、いまは許してくれ。頼む」
 椎子はごまかしを許さない、真剣な目で敷居を見上げた。
「もう、逃げ出したりなさいませんね?」
「ああ、約束する」
 敷居もまた、あらん限りの誠実さをこめて答えた。この妹に嘘をついたことは一度もなかった。あの頃、それがかれの誇りだったのだ。
「わかりました。それなら、一度は退散します。でも、兄さん。どうか、あなたのたったひとりの妹の信頼を裏切ったりなさいませんように」
「ああ」
 椎子が身を翻す。その姿を見送る敷居は、この数分で何歳も歳を取ったようだった。
「では。兄さん。またお会いしましょう」
 椎子は兄に向け顔を傾けた。その頬に、敷居はくちづける。その仕草は兄妹というより、恋人同士のように見えた。そうして椎子は去っていった。嵐の跡のような混乱をうしろにのこして。
 椎と燕と物問いげな視線に晒されて、敷居はひとつため息をついた。疲れ切った動作で近くの椅子に腰掛け、ウィスキーを一杯あおった。
「もうわかっているんだろう」
 死者のような目で床を見つめながら、ひとり言のようにいう。
「いまのが椎子――おれの妹で、おれが惚れていた女だ」